般若心経並びに神馬図板木

縦26.7~27.6㎝、横46.7㎝、厚さ1.6~1.7㎝。両面ともに版面となっており、表面に般若心経が18行、裏面には神馬図が彫られている。表面の右側に「明応八年己未七月吉日」、左側に「積善院常住」の文字が刻まれている。

禅寺で祈祷や盂蘭盆会などの際に般若心経と馬の図を摺った紙を「紙銭」とともに仏殿の柱に貼って鬼神に施す、「経馬」または「馬経」と呼ばれる行事に使用されたものと思われる。この行事は現在も京都府など一部の禅寺で行われているということであるが、板木そのものの遺存例はないようである。

版木の紀年銘である明応8年(1499)であり、同じ15世紀末の版木は、山口県内ではこれを含めて3例しかなく、大変貴重な資料である。

銅鐘

総高105.8cm、鐘身高81.0cm、口外径61.0cm、同内径49.2cm。上・下帯とも無文。乳は4段4列に配されている。撞座は撞きくずれてその形状は明らかでない。「周防国玖珂庄新寺 文永九年十一月日 大工依継 願主明真」の銘文があり、鎌倉時代の文永9年(1272)に製作されたものである。

いつの頃からか岩国の永興寺(ようこうじ 吉川家の菩提寺)にあったが、本来、新寺(極楽寺)のものだとして、天和4年(1684)岩国藩主第四代吉川広紀の命により極楽寺に戻されたと伝えられている。

宇佐の鉄燈籠

永享9年(1437)に造られた山口県最古の鉄燈篭で、笠・火袋・中台・基礎の四つの部分が現存し、宝珠と竿は欠失している。寛延3年(1750)に萩藩に提出された「八幡宮由来書」によると「永享九丁巳八月吉日山代庄宇佐村長兼大工藤原朝臣安信」の銘文があり、欠失している竿の部分に銘文があったと推測される。

この鉄燈篭は弘化年間(1844-1848)に宇佐八幡宮の社殿を再建した際に出土したもので、地震等により地中に埋没した際に部材が欠失したものと考えられる。

基礎に見られる花文(かもん)や高肉彫り(たかにくぼり)の獅子などは技工的に優れており、金工資料としても重要である。

小桜韋威胴丸 兜・大袖・替袖・頬当・喉輪・臑当付

織田信長の所用と伝えられる胴丸である。胴の高さ36.5㎝、胴廻り114.5㎝、草摺(くさずり=胴の下にさがっていて、足の太股を守る部分)の高さ25.5㎝の軽装の鎧である。小札(こざね)は、黒漆を盛り上げて塗った本小札で、小桜模様の染め革を使って毛を返したように威し(小札を横長に綴ったものを上下につなぐこと)ている。韋所(かわどころ)には藻・牡丹・獅子を描いた革や藍染めの杉・菖蒲を描いた革などが使われ、萌黄・白・浅黄・紅・紫の5色の色糸で小さな針目を出す伏せ縫いが施されている。金具廻りには小桜鋲が使われ、綿噛(わたかみ=胴を肩から吊す革)に付けられた杏葉(ぎょうよう)には、金メッキの「織田瓜紋」が据えられている。兜は、五十二間総覆輪筋兜(兜鉢のはぎ合わせの部分を金属で覆い、筋状になっている)と言われるもので、臑当なども含めて安土桃山時代の特色を示す優れたものである。

色々威胴丸 広袖付

安芸国(現在の広島県)銀山城主(かなやまじょうしゅ)・武田光和(たけだみつかず)が所用したと伝えられる胴丸。胴の高さ31.5㎝、草摺(くさずり=胴の下にさがっていて、足の太股を守る部分)の高さ23.1㎝、胴廻り(脇板)119.7㎝の活動しやすい軽装の鎧で、小札は、黒漆を盛り上げて塗った本小札を白・紅・萌黄・紫の色糸を使って、毛を伏せたように威し(小札を横長に綴ったものを上下につなぐこと)ている。金メッキの金具廻りや韋所には、藍染め革や藻・牡丹・獅子が描かれた革、熏革(くすべかわ=松葉の煙でくすべ、地を黒くして白く模様を残した革)などが使われている。黒漆を盛り上げて塗った本小札を色糸で威して作られた壷袖(袂のない袖)が付いている。

藍韋威肩白紅胴丸

胴の高さ32.3㎝、草摺(くさずり=胴の下にさがっていて、足の太股を守る部分)の高さ20.3㎝、胴廻り(脇板)106.5㎝の室町時代に作られた胴丸(軽装の歩兵用の鎧)。小札(こざね)は黒漆塗りの本小札で、白・紅の色糸や藍染めの革を使って毛を伏せたように威し(小札を横長に綴ったものを上下につなぐこと)ている。金メッキの金具廻りや韋所(かわどころ)には、藍染め革や茶染め革、藻・牡丹・獅子が描かれた革などが使われて、萌黄・紫・黄・白の色糸で伏せ縫い(表に小さく針目を出す縫い方)がされている。

木造不動明王立像

像高91.3cmで、ヒノキ材の寄木造りである。頭部は巻髪で弁髪(べんぱつ)を左肩に垂らす。眼は右眼を大きく開き、左眼を半眼とする天地眼(てんちがん)、牙を上下に出している。右手に宝剣、左手に羂索(けんさく)を持つ。火焔を光背にして岩座の上に立つ。彩色はよく残っている。不動としては姿体がおとなしく、裳の衣紋は浅く流れるようである。制作は平安時代末期と考えられ、不動明王像としては、県下の秀作のひとつといえる。

昭和30年度(1955)に保存修理を実施している。

鉄黒漆二十二間総覆輪筋兜萌葱糸素懸威𩊱

鉢の高さ14.6㎝、径は前後が24.0㎝、左右が20.0㎝で、楕円形をした「阿古陀形(あこだなり)」という形式の兜。
22枚の台形の鉄板に黒漆を塗り、はぎ合わせの部分を金属で覆って筋状にし、頭頂部の八幡座は5重で、篠垂(しのだれ)という細い金メッキの筋金が前に3条と後ろに2条据えられ、腰には神社等に見られるような斎垣(いがき)がめぐらされている。
眉庇(まびさし)はやや前に出る伏せ眉庇で、その上に三鍬形台があり鍬形が立っている。
しころ(鉢の左右から後方に垂れて首を覆うもの)は萌黄色の糸を使い、糸目を粗くして所々2筋ずつ並べて綴る素懸威(すがけおどし)となっている。

室町時代に盛んに行われた特色の著しい作りで、室町時代中期以降に作られたものと思われる。

鉄錆󠄀塗二十八間総覆輪筋兜鉢

現在は錆漆塗りとなっているが、本来は32枚を張り合わせた黒漆塗りの筋兜鉢(はぎ合わせの部分を金属で覆い、筋状にしている)である。
高さ12.2㎝、鉢の径は、前後23.2㎝、左右20.6㎝で、篠垂(しのだれ)という細い金メッキの筋金が前に3条と後ろに2条据えられ、頭頂部の八幡座は金メッキの魚子地(ななこじ=粟粒を並べたように、細かい粒を突起させたもの)に枝菊を高彫りにした円座に小刻みの裏菊と玉縁など5重になっている。
腰には、神社等に見られるような斎垣(いがき)がめぐらされている。南北朝時代から室町時代初期にかけて作られたと推定されている。

鉄錆󠄀地三十六間星兜鉢

表面が酸化して錆びている鉄の板を、鋲ではぎ合わせて作った兜鉢。
全体の形は、前後左右の径がほぼ等しい大円山形(だいえんざんなり)で、高さ10.8㎝、鉢の径は前後が22.6㎝、左右が20.0㎝となっている。星は、1行に16点と腰巻に1点ずつ打たれ、42枚が張られ、前正面ではぎ合わされている。
頭頂部の八幡座や眉庇(まびさし)、篠垂(しのだれ=正面や前後左右の細い筋金)、革毎(しころ=鉢の左右から後方に垂れて、首を覆うもの)などは失われているが、南北朝時代の特色をよく表している。

黒漆矢筈札浅葱糸素懸威腹当

胴の高さ25.8㎝、胴廻り69.2㎝、草摺(くさずり=胴の下にさがっていて、足の太股を守る部分)の高さ12.7㎝の腹巻よりも簡略化された下級士卒用の防具。
小札(こざね)は、黒漆塗りの革で包まれた矢筈札(やはずざね=弓の弦をうける矢の上端の形をした札)で、浅黄色の糸で威し(小札を横長に綴ったものを上下につなぐこと)ている。
草摺の中2段と左右の1段は、糸目を粗くして所々に二筋ずつ並べて綴る素懸威(すがけおどし)となっている。

室町時代末期に作られたこの種類の腹当は、残っているものは少なく貴重である。

金銅如来形坐像

この金銅如来形坐像は、その伝来について不明なところもあるが、日本に伝存する高麗時代の仏像として優れた作柄を示す作品である。

この像は、右手を胸前にあげ、左手を左膝上に差し伸べ、ともに第1指と第3指を捻じ、右脚を上に結跏趺坐(けっかふざ)する。肉髻部と地髪部を明確に区別せずにゆるやかに盛り上げた頭部には小粒の螺髪を整然とつくり、角張った大きめの顔面部には、すこしたるみのある髪際線、紐状の大きな耳、上下瞼がふくらんだ切れ目のある眼、太く鋭角的な鼻、厚い口唇などを大きく表現し、頸部に三道をもりあげてあらわす。鐘状を呈する太づくりの体部には通肩に法衣を着け、U字状に広く開いた胸部に裙を締めた紐の結び目をのぞかせ、新羅時代後期以来の伝統的な仏像表現を踏襲している。

地着部周縁に5個の孔があり、像底に底板を張った可能性が強く、かつて像内納入品を納めていたと推測できる。

大きな頭部をやや前方に傾けた形姿や台形状の膝部の表現などから本像の制作は、高麗時代後期(14世紀初期)ごろと考えられる。

優れた鋳造法や明快な表現などは、日本に伝来する30余点の高麗仏の中で佳品の1つとして挙げられ、貴重である。

藍韋威肩櫨紅腹巻

胴の高さ31.0㎝、胴廻り92.5㎝、草摺(くさずり=胴の下にさがっていて、足の太股を守る部分)の高さ26.4㎝の、室町時代末期に作られた鎧腹巻。
小札(こざね)は、左右の両端を少しずつ重ねたまま綴り延べた伊予札と本小札で、櫨(はぜ)・紅糸・藍染め革を使って威し(小札を横長に綴ったものを上下につなぐこと)ている。
草摺は、糸目を粗くして所々に二筋ずつ並べて綴る素懸威(すがけおどし)となっている。
金具廻りや韋所(かわどころ)には、藍染め革や茶染め革のほかに、一見ヒキガエルの背のような外形をした、しわのある蟇肌(ひきはだ)革が使われているのが珍しいと言われている。

紺糸威肩紅腹巻 付 大袖

胴の高さ28.2㎝、胴廻り100.2㎝、草摺(くさずり=胴の下に下がっていて、足の太股を守る部分)の高さ30.0㎝の鎧腹巻。
小札(こざね)は、黒漆を盛り上げて塗った本小札で、紅・紺の色糸を使って、毛を返したように威し(小札を横長に綴ったものを上下につなぐこと)ている。
腹巻はもともと装束の下に着けるものであったが、この腹巻には黒漆を盛り上げて塗った本小札を紅糸で威した高さ34.2㎝、幅34.3㎝(上)~35.4㎝(下)の大袖が付いている。

室町時代中期の特色豊かな優れたものである。

絹本着色釈迦十六善神像

縦83.8cm、横45.0cm。掛幅装。釈迦如来(しゃかにょらい)を中心に下辺に玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)と深沙大将(じんじゃだいしょう)を配し、左右に善神16尊が立つ。絹地に裏彩色を施した彩色画で、見事な彩色技法と明確な描線で描かれた鎌倉時代末期の制作と推定される優品である。

箱書と寄進状によると岩国藩が高野山より入手して、正徳元年(1711)の再建にあたり寄進した。昭和61年度(1986)に保存修理を行っている。

紙本墨画淡彩湖亭春望図

図の上部には「湖亭春望」と題された七言律詩が書かれており、「天與老雪」の名と「清啓」の朱文方印があるので、賛者は天與清啓(てんよせいけい)であることがわかる。関防印は「暁遠夜鶴」である。

湖亭春望図には印章、落款ともないが、雪舟筆の伝えがあり、天與清啓の賛がある。

賛を賦した天與清啓は、臨済宗大鑑派の禅僧であり、大内盛見(1377~1431、1409~25在京)、大内教弘(1420~65)父子との関係があった。享徳2年(1453)と応仁元年(1467)の二度にわたって遣明使節となっている。二度目の時は正使であり、渡明の一行の中には、別船であるが雪舟もおり親交があった。

天與清啓は、山口市源久寺所蔵の仁保弘有像にも、寛正6年(1465)8月、着賛している。湖亭春望図には、彼が渡航を前に周防に滞在していた時期(寛正6年又は7年の春か)に著賛した可能性がある。

また、狩野探幽(1602~74)により、「雪舟筆」、「自賛」の「山水」と鑑定されている。

湖亭春望図は日本の水墨画を特色づけている、淡く美しい彩色が施されており、製作時期が限定できる山水画としても重要である。

由宇町清水の山ノ神祭り

清水地区の人々によって五年に一度行われ、無病息災、五穀豊穣を祈願する。
清水地区南側の鎮守の森を祭壇にして、島田川の源流を挟み向かい合う、男神(樫の木)と女神(杉の木)をご神体として藁蛇(わらへび)と呼ばれる長いしめ縄を幾重にも巻きつけて祭事が行われる。
祭りは前夜祭と本祭に別れており、前夜際は前回の神事の際に籤により決められた当屋(とうや)で神事を行い、本祭は、当屋で獅子舞が行われた後、御神幸(ごしんこう)の列が当屋から鎮守の森まで進む。
到着の後、注連縄が巻かれた神木に供物を備えて、それぞれの神木の前で神官による祝詞の奏上がなされる。
神事の後は、次の当屋を籤で決めてから、餅まきが行われる。

山代本谷神楽舞

山代神楽は、岩国市北部の山代地方に古くから伝わる神楽の総称である。
山代本谷神楽舞は、本谷地区(岩国市本郷町)で古くから伝承されてきたもので、源流は出雲の流れをくむ安芸十二神祗系神楽(あきじゅうにじんぎけいかぐら)に「五行」を骨子とした備後神楽が強く影響していると考えられ、その起源は享保年間(1716~36)に遡るといわれるが、言い伝えによると安政年間(1855~60)に山代一帯に疫病が流行した際、平癒祈願として奉納されたとされ、それ以来100年以上の間、毎年10月の第2土曜日に地区の氏神様である河内神社で奉納神楽として舞い続けられてきた。

木造薬師如来立像

座高158.8㎝。ヒノキ材、寄木造りの薬師如来立像である。
建立寺がかつて安養院といった頃の本尊であり、建立寺となってからは薬師堂に安置されてきた。

頭は螺髪(らほつ)を彫り出し、肉髻珠(にくけいじゅ)、白毫相(びゃくごうそう)があらわされ、耳朶(みみたぶ)は環状、首には三道が表現されている。
衲衣(のうい)を両肩からゆるやかに垂らし、両足をそろえて台座に立つ。右腕は肘を曲げ、掌を前にして指をゆるやかに開き、左腕は自然に下ろし、掌に薬壺を持っている。
全体の肉取が良く、また衣紋が浅いことから平安時代後期の製作と推定される。

絹本着色仏国国師像

縦107.6㎝、横51.4㎝の絹地に彩色した仏国国師(1241~1316 後嵯峨天皇の第三皇子)の頂相(肖像画)。

延慶2年(1309)大内弘幸が仏国国師を開山として建立した古刹、岩国横山の臨済宗永興寺の旧蔵品で、作者は不明であるが、鎌倉の円覚寺の住持をつとめた霊山道隠(1325没)の賛があり、製作の時期が14世紀初期と考えられる山口県内では最も古い頂相で、貴重である。

付(つけたり)は、縦119.5㎝、横61.0㎝の絹地に彩色した仏国国師の頂相で、吉川家御用絵師斉藤等室(1668没 雲谷派)の筆で、黄檗宗の開祖、隠元隆琦(いんげんりゅうき)の賛がある。