この神舞は、室町時代以後、京都地方において発生し、西進して当地方に伝えられたといわれているが、一説によれば荒神神楽で豊後国(現在の大分県)から大島郡を経て瀬戸内の山間を北上したものの一つともいわれている。もともと、神官が主体の社人神楽であったが、明治維新の世襲制度の廃止により里人に伝授されたものである。行波における神舞の奉納は1791年から始まり7年目ごと絶えることもなく今日に伝わっている。
演目は、荘厳(そうごん)・六識幸文祭(ろくしきこうぶんさい)・諸神勧請(しょしんかんじょう)・注連灑水(ちゅうれんしゃすい)・荒霊武鎮(こうれいぶちん)・真榊対応内外(まさかきたいおうないぎ)・日本紀(にほんぎ)・天津岩座(あまついわと)・弓箭将軍(ゆみやしょうぐん)・三宝鬼神(さんぽうきじん)・五龍地鎮(ごりゅうじちん)・愛宕八幡(あたごはちまん)の12座からなる。また、毎年10月中旬には荒玉社境内で演目の一部を奉納する。
7年目ごとの神舞年には、河川敷に四間四方の神殿を組み、前夜に湯立(ゆだて)、火鎮(ひおさめ)および一部種目を奉納し、当日は早朝から12座を演ずるほか八関(はっせき)を奉納する。これに要する時間は15時間にも及ぶ。
この神楽は、古式をよく守り、その形態を変えることなく伝承されてきた点で、全国でも貴重である。
吉川家文書は、旧岩国藩主吉川家に所蔵されている古文書類の総称で、正治2年(1200)正月25日鎌倉将軍(頼家)家下文案(播磨国福井庄地頭職補任状)を上限として、江戸時代貞享年間(1684~1688)に至る総数2393点を収めている。
吉川家は、もと駿河国入江荘吉河の住人で、鎌倉時代に播磨国福井庄、安芸国大朝庄の地頭職を得て、正和2年(1313)の根拠を安芸国に移した。以来南北朝の内乱期を経て国人領主として発展し、経基の時に隆盛期をむかえている。室町時代の末に毛利氏に帰属し、毛利元就の二男元春が養子となるに及んで以後は毛利氏の一族として活躍した。
本文書は、こうした吉川氏の歴史を反映したもので、鎌倉、南北朝、室町各時代の文書は関東御家人、あるいは国人領主層の動向を伝えた文書として中世史上価値が高く、戦国・桃山時代のものは毛利氏の中国経営、ことに山陰攻略の仔細、あるいは大内・大友との交渉、豊臣秀吉の九州平定、朝鮮出兵などに関する根本文書として貴重である。文書中、特に注目すべき点は、歴代、殊に元春、元長、広家らの自筆書状の多いことで、毛利家文書と同じく一族の結束と領内経営に務めた戦国大名の姿を示して興味深い。中でも天正9年6月13日の元春、同夫人(熊谷氏)連署書状は、経言(広家)に対する教誡状で、元春の人柄を伝えて注目され、また、広家書状には関ヶ原の戦いをめぐる毛利氏の動向を窺わせるものが多い。この他、足利直冬に関する文書がまとまっていること、信長の運命を予言した安国寺恵瓊自筆書状のあることなど、中世史研究上重要な文書が含まれ、毛利家文書と並ぶ戦国大名家文書として貴重である。
元亨釈書は、わが国に仏教が伝来して以来鎌倉時代末元亨年間(1321~1324)に至るまでの高僧の事蹟、仏教の史実を記し、かつ概評を下したもので東福寺の僧虎関師錬の著。後醍醐天皇の元亨2年(1322)に完成したので元亨釈書という。
本書は、吉川経基が至徳元年(1384)の重刊本から転写したものを、安芸国新庄の洞仙寺に寄進したものである。写本には、経基自筆の部分もあるが、東福寺諸僧の助筆も混じっている。原表紙は厚手の白紙を用い、「元亨釈書并序目録一之ニ」と書し、更に中央には各冊に「洞仙寺常住 慶本之寄進也」(後筆)と墨書されている。慶本は経基の法名である。第四冊は、もと冊子装であったが、裏に文書を有するので横綴に改装されている。裏の文書の多くは書状であるが、中には延徳3年(1491)正月21日に行われた闘茶興行の記録もある。
経基は『吉川家譜』に、武事に長じ、又和歌を善くし且つ能書なりといわれている如く、好学の戦国武将であるが、本書もその点を示す一本として貴重である。
太平記は南北朝時代の争乱のいきさつを記した軍記物語である。文章は漢文調を交えて豪壮絢爛、文学作品として法師などにより講釈もせられたが、史書としても相当の価値を有し、また兵書として戦国時代の武人の間でひろく愛読されたものである。
本書は世にいう吉川太平記と呼ばれるものである。太平記が現在流布されている形に至るまでに若干の異本の存在が認められ、そのうち最も原作に近いと認められていたのは神田太平記であったが、神田本には14巻の欠失があった。本書は神田本に近い内容を有し、しかもほぼ全巻を完備していることから吉川太平記として文学史上に注目されるに至った。
この吉川本太平記は吉川元春が自ら書写したもので、奥書によれば永禄6年(1563)12月に筆を下し、同8年8月に完了した。この永禄7、8年は、出雲において尼子義久の軍を包囲攻撃の最中で、かかる軍陣の間に太平記を書写した元春の好学を看取出来る。
吉川元春は、享禄3年(1530)、毛利元就の第2子として生まれ、従兄吉川興経の養嗣子となった。豪邁でしかもよく文事を解し、文武兼備の名将として知られている。
法華経8巻を細字で1巻に書写したもの。白麻紙に金泥で罫線を引き、各行17字ずつ2段に墨書してある。本文の筆者は弘法大師と伝えられているが、確証があるわけではなく、平安初期の写経師の筆によるものと推測される。中国の唐代(618~907)の細字経は御物の他にも見受けられるが、平安初期に作成された細字経は皆無に近く、貴重である。
その後、中世に巻物を折本に改め、紺紙金泥絵の見返し、紺紙金銀泥絵の表紙を付けて装丁し、華麗な青貝蒔絵の箱に収められている。
この1帖は、もと仁和寺の寺宝であったものを、天正12年(1584)、門跡であった任助法親王から吉川元長に下賜せられたもので、同年6月21日付の譲状が附せられている。
吾妻鏡は、治承4年(1180)から文治3年(1266)に至る87年間の鎌倉幕府の記録で、曲筆の個所もないではないが、当時の事情がある程度詳細に記述されており、鎌倉時代研究の根本史料である。
袋綴の冊子本で、本文を47冊に収め、これに年譜1冊を加えて48冊としている。本文の末尾に大永2年(1522)9月5日安房前司弘詮の奥書があって、右田弘詮が文亀年間(1501~1504)に入手せる42帖の写本を底本とし、諸本を求めてその欠失を補い、新たに年譜1帖を加えて48帖とした旨を記している。伝来の諸写本には、脱落や誤写が多かったが、本書は書写年代が確実であるだけでなく、その内容に誤写欠文の少ない点において最も尊重されるべく、北条本とならんで古写本中の最も優れたもので、世に吉川本吾妻鏡としても、よく知られている。
右田弘詮は陶氏の出で、大内政弘の信任を得て、文明11年(1479)に筑前守護代となり、永正年間(1504~1521)に安房守となった人である。
安土桃山時代中期の天正15年(1587)九州征伐出陣の功により豊臣秀吉から吉川広家が拝領したものと伝えられている。
身幅が広く、広袖であるが振りはない。垂領で後は背割になっている。山道文を全面にして雪持芦、同笹、松樹、桐紋、鶴亀文の刺繍がなされ、さらに金摺箔が施されている。
その意匠技法とも豪華にして、しかも精緻。桃山時代の初期の形態を示す特色豊かな胴服で保存完好の優品である。大きさは身丈110㎝、裄51㎝である。
太刀は明治13年(1880)、吉香神社に池祠官が奉納したものである。刀身の長さ、75㎝。鎬造り庵棟(いおりむね)、地鉄は小板目(こいため)肌細かく練れて詰み、地沸え付き、映り有り。刃文は匂い出来の小五(こぐ)の目乱れ、匂い足盛んに入る。
刀工長則は小龍(こりゅう)の呼称があり、弘安、嘉元年間(1278~1306)頃に活躍した備前国(現在の岡山県)の刀工である。作風はこの太刀が典型的で、同銘の刀(備前国長船住人左兵衛長則 永仁三年十二月 日)とともに、福岡一文字派による刀とは作風が異なり、備前長船派と通ずる点が注目される。
吉香神社は、旧藩主吉川氏歴代を祀る神社で、元は横山の白山神社境内にあったものを明治18年(1885)に現在地である御土居跡に遷座している。指定されている建物は、享保13年(1728)に造営された神門、拝殿及び弊殿、本殿、鳥居の三棟、一基である。
神門は、左右に脇門付袖塀をもつ小型の四脚門で、冠木中央に吉川家の家紋がついている。拝殿は、切石積壇上に建ち、入母屋造で背面に幣殿が張り出している。本殿は、切石積二重基壇上に建つ三間社流造で、正面に軒唐破風、千鳥破風が付されている。
また、「享保13年戊申年9月25日上棟」の記載のある棟札も残されており、18世紀前半期の社殿建築の代表作としても貴重である。
旧目加田家住宅は、18世紀後半頃の建築とみられる中流武家の住宅である。木造一部二階建て、屋根は入母屋造りである。
旧目加田家住宅の内部には様々な部屋があり、江戸時代岩国の武家住居の様相を残している。正面玄関は住宅の南側にあって、手前に板敷の式台が設けられている。武家住宅では居住者より身分の高い人物の出入り口として使用され、居住者は普段は北側と東側の土間のある入口から出入りしていた。
座敷は客を迎え入れる表座敷と内々のことで利用する裏座敷があり、表座敷の前には次の間と呼ばれる控えの部屋がある。このほかにも、台所や、主人の身の回りの世話をする中間がつめる中間部屋などがある。
屋根は瓦葺きで、その葺き方は両袖瓦と平瓦を利用した「二平葺き(にびらぶき)」と呼ばれるもので岩国地域でしか残っていない独特の葺き方で、岩国では18世紀初頭にこの瓦や「二平葺き」が完成されていたようである。
こうした特徴をもつこの住宅は総体的に用材が小さく簡素で以ありながらも端正な意匠であり、250年近く経ちながらも当時のままの姿がよく保存されており、建築史上たいへん貴重である。
宇佐八幡宮の境内社叢には、スギの大樹が多く、一部ヒノキを交える。目の高さの幹周り2m以上のスギ20本と、それには及ばないが伸び盛りの木を多数交えて社叢が営まれている。
社殿に向かって左前方の通称大杉と呼ばれるスギは、目の高さの幹周り7.5m、高さ58mにも及び、県下有数のスギの巨木である。また、社殿への階段近くにはヒノキの大樹があり、目の高さの幹周り3.85mで、ヒノキとしては長門市油谷の「八幡人丸神社御旅所のヒノキ巨樹」(県指定)の4.7mに次ぐもので、樹高ではこれよりも高い。
正和元年(1312)に八幡宮が現在地に建てられた当時から、スギがあったとされ、その後も、社叢は神域として大切に保護され、現在に至っている。
シャクナゲの種類としてはホンシャクナゲで、ツツジ科の常緑低木。群生地は、錦町大原、広島との県境にある羅漢山の北側山腹(標高約600m)にあり、主として山腹上部のくぼ地から尾根筋にかけて群生する。群生地は20haの広い範囲に及び、自然状態がよく保たれている。ホンシャクナゲの中には、直径約10cmの老木も多数見られる。
ホンシャクナゲは、本州中部以西及び四国の低山帯に分布する。高さは4mに達しよく枝分かれする。四~五月にうす紅色または赤紫色の花をつける。
錦川が今津川と門前川に分かれる三角州の頂点に当る部分の堤塘敷及び河川敷に15本のクスノキが群生している。最も大きいもので、目通り5.65m、高さ30mに達する。おおむね目通り4~5mのものが多く、樹齢も300年を越えると思われる。このようなクスノキの巨樹が群生している例は県下でも稀に見られるものである。
万治2年(1659)に当時の領主吉川広正(1601~1666)が隠居のため別邸を中津(現在の楠町1丁目)に造営することとし、翌3年土手の石垣工事から着手、寛文元年(1661)新邸は完成し、広正はこれに移住した。
三角州頂部の内土手と外石垣の間にクスノキを植えたのは、この万治の堤防改修の時かその後まもなくと考えられる。また延宝4年(1676)中津の庄屋が植えたという伝承もある。
鉾八幡宮の末社である大歳神社の祠の前にあり、目通り約3.8m、高さ約16mという巨樹である。樹幹は縦に溝のある成長をし、その断面は凹凸になっている。樹勢は旺盛で枝を広く四方に張り、樹姿は整正である。樹齢は350年といわれるが明らかでない。イヌマキは雌雄異種の植物であるが、本樹は雄樹で、単木としては県下最大のものである。
この樹には、数本のノウゼンカズラの大茎がよじのぼっており、大形朱色の花をつける。このノウゼンカズラは中国原産であるが、このような大茎は稀である。
大歳神社の境内地は、周囲をハス田で囲まれた平坦地で、樹木はこの樹の他にはなく、自然のままよく保存されている。
ツツジ科・シャクナゲ属の常緑低木で、本州、四国、九州の山地に自生する。幹は直立のものは少なく、根元から十数本の枝に分かれて株を成す。幹の高さはおおむね2m程度、大きいもので4mを越えるものもある。葉は革質で太い葉柄をもち、長楕円形を呈する。表面は濃緑色で滑らか、裏面は赤褐色である。開花は5月上旬。色は淡紅色と白色の二種類ある。
群生地は、所有者宅背後の山(標高300m)にあり、特に北面の斜面(傾斜約40度)のものがよく生育している。株の数は2000本以上を数えることが出来るが、そのうち高さ5mを越えるものが約60株みられる。
山口県下では最高峰の寂地山(1337m)に源を発する宇佐川の上流に、18からなる滝をもった犬戻峡と呼ぶ峡谷があり、約3.5キロメートルにわたっている。また、同じく寂地山系に源をもつ龍ヶ岳峡と呼ぶ峡谷があって約1キロメートルにわたっている。寂地峡はこの両峡谷を総称するものである。この一帯は中世代に貫入した花崗岩類からなるが、これを切る宇佐川は大小様々な深い淵や滝、節理上に直立する断崖絶壁など特異な景観を展開している。また、渓流と岩壁が樹木の美しさとあいまって幽遠境を形成している。
藤生の卜院(ぼくいん)の地にある松巌院は、臨済宗天龍寺末であるが現在は単立で鍾秀山と号する。安政6年(1859)の今北洪川筆「松濤軒記」(しょうとうけんき)に本庭が月溪(天溪)和尚による作庭であると記されている。
月溪和尚は中谷月溪と称し、文久2年(1862)に85歳でこの世を去っている。
山門付近から本堂前にかけ、スギ苔が一面に敷きつめられ、その中にソテツの寄植えがある他は石組らしいものはない。前方は瀬戸内海が眼下に見下ろせ、その為に土塀を低くして眺望をよくしている。
本堂の南側に隠寮、松濤軒が建つ。一種の隠居部屋であるが、茶室でもある。この南面に広がるのが中心の景観である。裏山の斜面を利用し、築山を取り巻くように細長い池泉を穿った池泉観賞式庭園である。
庭園構成の中心は滝石組であるが、松濤軒から滝を望むことはできず、また本堂書院からも視界に入らない。庭に降りて池畔に立たなければ主景が望めないというのは、特殊な地割であり、回遊式の要素ももっている。その滝石組は、3石で水落石を形成して120㎝の高さを持つ。添石は、斜面に露出する岩盤をうまく利用し生かして組んでいる。右側には90㎝高の立石があって、石組の中心となっている。滝には豊かな水が落ち、流水式に蛇行しながら池泉へと注がれる。池泉には4か所に石橋が架かり、園内を回遊散策できる。
作庭時期、作者ともに明確な庭園として貴重である。
杉材の額板に隷書体で「八幡宮」と深く陰刻され、額縁も杉材で棟木を耳状、足柱を猫 棟木を含む足柱の高さ(総縦)103㎝、棟木の幅(総横)78.7㎝、厚さ2.1~2.2㎝。
裏に墨痕が認められるが、中央の「□尻傳右衛門」のみが判読出来る。制作者や製作の時期などは岩隈八幡宮の記録や岩国藩政史料などから寛文4~9年(1664~1669)に岩国に滞在した渡来僧独立性易(どくりゅうしょうえき 1596~1672)に揮毫を頼み、岩国藩士の井尻傳右衛門(?-1673)が再建された同宮のために製作、寄進したものと見られる。
独立性易は、中国浙江省の出身、能書家及び医者として知られ、承応2年(1653)、明末清初の戦乱を避けて来日し、同じ黄檗僧・隠元隆琦(いんげんりゅうき 1592-1673)にともに長崎に滞在した。岩国藩主第3代吉川広嘉の治療のため岩国に計5回招かれ、その際に名勝「錦帯橋」建造の着想を与えた人物としてよく知られる。
また、井尻傳右衛門は元々の岩隈八幡宮の所在地である祖生(そお)に給地があり、独立性易が長崎へ帰る際、同行した人物で、独立性易が作った漢詩に「別井尻傳右衛門」と題するものがある。
縦26.7~27.6㎝、横46.7㎝、厚さ1.6~1.7㎝。両面ともに版面となっており、表面に般若心経が18行、裏面には神馬図が彫られている。表面の右側に「明応八年己未七月吉日」、左側に「積善院常住」の文字が刻まれている。
禅寺で祈祷や盂蘭盆会などの際に般若心経と馬の図を摺った紙を「紙銭」とともに仏殿の柱に貼って鬼神に施す、「経馬」または「馬経」と呼ばれる行事に使用されたものと思われる。この行事は現在も京都府など一部の禅寺で行われているということであるが、板木そのものの遺存例はないようである。
版木の紀年銘である明応8年(1499)であり、同じ15世紀末の版木は、山口県内ではこれを含めて3例しかなく、大変貴重な資料である。
総高105.8cm、鐘身高81.0cm、口外径61.0cm、同内径49.2cm。上・下帯とも無文。乳は4段4列に配されている。撞座は撞きくずれてその形状は明らかでない。「周防国玖珂庄新寺 文永九年十一月日 大工依継 願主明真」の銘文があり、鎌倉時代の文永9年(1272)に製作されたものである。
いつの頃からか岩国の永興寺(ようこうじ 吉川家の菩提寺)にあったが、本来、新寺(極楽寺)のものだとして、天和4年(1684)岩国藩主第四代吉川広紀の命により極楽寺に戻されたと伝えられている。