大肩衝茶入の法量は口径4.0㎝、高さ8.8㎝、底径5.7㎝である。成形はロクロ成形であり、底部の切り離し形態は、板起こしである。形状は、口縁部のひねり返しがやや厚く、頸部は直線的だが、なだらかに肩を作る。胴部の側面は肩から胴部中央にかけてわずかに張り、裾に向ってすぼまっている。底部は平底で無釉である。製作年代は16世紀で、産地は中国南東部とされ、いわゆる唐物茶入の一類型である。
この茶入は、吉川広家が豊臣秀吉より与えられたもので、付である千利休書状から裏付けられる。千利休書状は紙本墨書の書状で、大きさは縦31.3㎝、横49.3㎝である。日付は、天正16年(1588)7月20日であり、この前日の7月19日に、吉広家は毛利輝元、小早川隆景とともに上洛していることから、その際に秀吉より贈られた茶入が大肩衝茶入である。
これら茶入と千利休書状は、茶入の美術工芸的価値のみならず、広家の茶の湯に対する造詣を知る資料としても重要なものであるといえる。
吉川元春とその子元長、広家、松寿丸の肖像画である。室町時代末期から江戸時代初期の間に描かれた肖像画であり、絵師および流派がそれぞれ異なるものの、作画技法が随所に看取出来、当時の画風を知る資料としても重要である。
そして、像主が吉川元春、元長、広家、松寿丸と中世から近世への移行期における吉川家当主およびその家族の肖像画であることも美術工芸的な価値だけでなく、歴史資料としての価値もそなえた資料であることが看取出来る。
また、賛についても吉川元長像には周伯恵雍による賛、吉川広家像には江月宗玩による賛があり、元長、広家の仏教に対する造詣や仏僧との交流関係を示す点においても歴史資料的価値は高いといえる。
箱書きによれば、室町時代の文安5年(1448)、福王寺(ふくおうじ)住持が願主となって制作されたことが確認できる。
仏像を始め絵画全般に至る精緻な描写、鋭い筆法、岩、土波の筆運びなどに時代相応のものが認められる。
絵本体の寸法は、縦119.5cm、幅55.4cmで、絹の布地の中央に釈迦如来、左右に文殊菩薩と普賢菩薩、その両側に玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)や深沙大将(じんじゃだいしょう)を含む九尊が極彩色で描かれている。
過去に享和2年(1802)、表装の修理が行われているが、近年、全体的に横折れが多く、絵本体の傷みが激しくなってきていたので、平成5年度(1993)に546年ぶりの全面修復を実施した。
岩国徴古館本「三重韻」は、内題に「聚分韻略」(しゅうぶんいんりゃく)とあり、巻末の跋文によれば天文8年(1539)3月、大内義隆の版行により、「周防大内版」として知られているものである。
「聚分韻略」は南北朝時代、五山の学僧虎関師錬が作詩用の辞書として漢字を平・上・去・入・の韻を以って分類し、同韻の字をさらに乾坤・時候・気形・支体・態芸・生植・食服・器財・光彩・数量・虚押・複用の十二門に分け、各語の下に、簡単な注を加えたものである。検索に便利なため禅林の間に大いに喜ばれ版を重ねたが、文明13年(1481)刊行の薩摩版に至って編修の体裁を改め、平・上・去の三韻を三段に重ね、入声の韻は別に末尾に付して、いわゆる「三重韻」とした。
この資料は、義隆の好学を示すとともに大内文化の遺産として珍重すべきものであるが、東洋文庫本のほか、伝本は少なく、県内に現存するのはこれのみで、貴重である。
この鉄燈籠は室町時代の天文15年(1546)8月に玖珂郡山代庄生見の豪族中村安堅が安芸廿日市の鋳物師綱家に鋳造させ、先祖菩提のために設立したものである。
宝珠、傘の降り棟先端の突起、火袋(ひぶくろ)の連子(れんし)、中台勾欄(ちゅうだいこうらん)の擬宝珠(ぎぼし)柱、中台と基礎の蓮弁文、基礎の下框座(かきょうざ)に鋳造年代、鋳工の明らかな鉄造燈籠として貴重である。
元々は、生見の観音堂に存置されていたが、錆による破損が激しかったので、平成4年(1992)度に保存修理を実施し、現在は美和歴史民俗資料館に展示している。
高さ13.4㎝、径は前後22.3㎝、左右20.7㎝で、錆漆を塗った64枚の台形の鉄板をはぎ合わせた部分が筋になっている兜鉢。眉庇(まびさし)は、当世眉庇と言われる戦国時代に流行したもので、中央には、三光鋲(眉庇を留める3つの鋲)の1つで、祓立(はらいたて)が固定されている。鉢裏正面の板に「宗家作」、後ろ中板に「天正六年十二月日」という銘がある。星兜の名残である四天の星が腰巻上の高い所にあること、また眉庇の固定のしかたなどが戦国時代以降の形式を帯びていることなどから判断して、安土桃山時代の作と考えられている。
宗家は明珍派宗家19代にあたり、名は久太郎で、近江国(現在の滋賀県)安土に住み、後に江戸へ移り住んだ。明珍は、平安時代に初代宗介が京都九条に住み、近衛天皇からその号を賜ったと言われ、甲冑師・鐔(つば)師としては名門である。
高さ13.2㎝、径は、前後が22.9㎝で、左右が19.6㎝で、12枚の台形の鉄板に錆漆を塗り、はぎ合わせの部分を金属で覆って筋状にした阿古陀形(あこだなり)という形式をした楕円形の兜鉢。頭頂部の八幡座は、金メッキの魚子地(ななこじ=粟粒を並べたように細かい粒を突起させたもの)に、唐草彫りの円座に裏菊の透かし彫りなどをした4重になっていて、中央の穴が極めて小さい。篠垂という細い筋金が、前に3条と後ろに2条据えられ、腰には神社等に見られる斎垣(いがき)がめぐらされている。眉庇(まびさし)はやや前に出る伏せ眉庇である。室町時代末期の特色が著しく表れている。
鉢の高さ13.3㎝、径は前後が22.2㎝、左右が20.7㎝で、38枚の台形の鉄板に黒漆を塗り、はぎ合わせの部分を金属で覆って筋状にした兜鉢。頭頂部の八幡座は、金メッキの魚子地(ななこじ=粟粒を並べたように細かい粒を突起させたもの)に枝菊を細い線で彫った円座に裏菊の透かし彫りなどをした5重になっている。篠垂(しのだれ)という細い筋金は、金メッキの菊座に小刻座を重ねた上に、正面中央に3条、後方中央に2条据えられ、腰には神社等に見られるような斎垣がめぐらされている。眉庇(まびさし)などはなくなっているが、室町時代中期から後期にかけての頃に作られたものと思われる。
中津居館跡の確認調査の際に出土した一括出土銭である。備前甕に入っていた状態で約50,000枚の銭が出土した。銭の出土量としては現在、県内第二位となる。
甕内に納められていた銭貨については、その多くを97枚でわら紐に通してまとめた緡銭(びんせん)をさらにまとめて、十貫文(銭10,000枚相当)や八貫文(銭8,000枚相当)と高額の流通単位に仕分けられて菰に巻かれて収納されていた。このほか一貫文(銭1,000枚相当)でまとめられているものも確認されている。
銭の大量埋納については中津居館跡の遺跡の性格も含めて経済的備蓄の側面が強いと考えられる。陶器製容器に納められた一括出土銭は地鎮などの祭祀的な埋納や戦乱等による私財の隠匿が想定されがちであるが、中津居館跡の一括出土銭はこうした性格を有さず、経済的性格が強い資料である。また、高額の流通単位にまとめられ菰で梱包された銭は中世の手形である割符(さいふ)に関係しているものと考えられる。割符には十貫文の定額が多く、ほかには五貫文の「半割符」が見られ、中津居館跡出土一括出土銭は十貫文でまとめられた銭が2組確認されており、割符という金融的な行為の実情も反映した出土状況であり、中津居館跡一括出土銭の出土状況が、中世の商取引のあり方を示す資料としても、貴重である。
棟札の寸法は、横14.5㎝、縦137.0㎝、厚さ2.0㎝、材質はヒノキである。棟札の末尾に「文亀三年癸亥四月二十八日 大工 平信家 願主 弘中右衛門尉源弘信 法名源忍同嫡男興輔」とあり、文亀三年(1503)に弘中弘信とその嫡男である興輔が願主となり、社殿を造営した際の棟札である。
棟札には白崎八幡宮の縁起をはじめ、清縄氏、弘中氏に関する歴史資料とともに、当社再建の事情と本社の興隆功徳などの記述もあり、岩国の中世を知るための史料としても重要である。
吉川家文書は、旧岩国藩主吉川家に所蔵されている古文書類の総称で、正治2年(1200)正月25日鎌倉将軍(頼家)家下文案(播磨国福井庄地頭職補任状)を上限として、江戸時代貞享年間(1684~1688)に至る総数2393点を収めている。
吉川家は、もと駿河国入江荘吉河の住人で、鎌倉時代に播磨国福井庄、安芸国大朝庄の地頭職を得て、正和2年(1313)の根拠を安芸国に移した。以来南北朝の内乱期を経て国人領主として発展し、経基の時に隆盛期をむかえている。室町時代の末に毛利氏に帰属し、毛利元就の二男元春が養子となるに及んで以後は毛利氏の一族として活躍した。
本文書は、こうした吉川氏の歴史を反映したもので、鎌倉、南北朝、室町各時代の文書は関東御家人、あるいは国人領主層の動向を伝えた文書として中世史上価値が高く、戦国・桃山時代のものは毛利氏の中国経営、ことに山陰攻略の仔細、あるいは大内・大友との交渉、豊臣秀吉の九州平定、朝鮮出兵などに関する根本文書として貴重である。文書中、特に注目すべき点は、歴代、殊に元春、元長、広家らの自筆書状の多いことで、毛利家文書と同じく一族の結束と領内経営に務めた戦国大名の姿を示して興味深い。中でも天正9年6月13日の元春、同夫人(熊谷氏)連署書状は、経言(広家)に対する教誡状で、元春の人柄を伝えて注目され、また、広家書状には関ヶ原の戦いをめぐる毛利氏の動向を窺わせるものが多い。この他、足利直冬に関する文書がまとまっていること、信長の運命を予言した安国寺恵瓊自筆書状のあることなど、中世史研究上重要な文書が含まれ、毛利家文書と並ぶ戦国大名家文書として貴重である。
元亨釈書は、わが国に仏教が伝来して以来鎌倉時代末元亨年間(1321~1324)に至るまでの高僧の事蹟、仏教の史実を記し、かつ概評を下したもので東福寺の僧虎関師錬の著。後醍醐天皇の元亨2年(1322)に完成したので元亨釈書という。
本書は、吉川経基が至徳元年(1384)の重刊本から転写したものを、安芸国新庄の洞仙寺に寄進したものである。写本には、経基自筆の部分もあるが、東福寺諸僧の助筆も混じっている。原表紙は厚手の白紙を用い、「元亨釈書并序目録一之ニ」と書し、更に中央には各冊に「洞仙寺常住 慶本之寄進也」(後筆)と墨書されている。慶本は経基の法名である。第四冊は、もと冊子装であったが、裏に文書を有するので横綴に改装されている。裏の文書の多くは書状であるが、中には延徳3年(1491)正月21日に行われた闘茶興行の記録もある。
経基は『吉川家譜』に、武事に長じ、又和歌を善くし且つ能書なりといわれている如く、好学の戦国武将であるが、本書もその点を示す一本として貴重である。
太平記は南北朝時代の争乱のいきさつを記した軍記物語である。文章は漢文調を交えて豪壮絢爛、文学作品として法師などにより講釈もせられたが、史書としても相当の価値を有し、また兵書として戦国時代の武人の間でひろく愛読されたものである。
本書は世にいう吉川太平記と呼ばれるものである。太平記が現在流布されている形に至るまでに若干の異本の存在が認められ、そのうち最も原作に近いと認められていたのは神田太平記であったが、神田本には14巻の欠失があった。本書は神田本に近い内容を有し、しかもほぼ全巻を完備していることから吉川太平記として文学史上に注目されるに至った。
この吉川本太平記は吉川元春が自ら書写したもので、奥書によれば永禄6年(1563)12月に筆を下し、同8年8月に完了した。この永禄7、8年は、出雲において尼子義久の軍を包囲攻撃の最中で、かかる軍陣の間に太平記を書写した元春の好学を看取出来る。
吉川元春は、享禄3年(1530)、毛利元就の第2子として生まれ、従兄吉川興経の養嗣子となった。豪邁でしかもよく文事を解し、文武兼備の名将として知られている。
法華経8巻を細字で1巻に書写したもの。白麻紙に金泥で罫線を引き、各行17字ずつ2段に墨書してある。本文の筆者は弘法大師と伝えられているが、確証があるわけではなく、平安初期の写経師の筆によるものと推測される。中国の唐代(618~907)の細字経は御物の他にも見受けられるが、平安初期に作成された細字経は皆無に近く、貴重である。
その後、中世に巻物を折本に改め、紺紙金泥絵の見返し、紺紙金銀泥絵の表紙を付けて装丁し、華麗な青貝蒔絵の箱に収められている。
この1帖は、もと仁和寺の寺宝であったものを、天正12年(1584)、門跡であった任助法親王から吉川元長に下賜せられたもので、同年6月21日付の譲状が附せられている。
吾妻鏡は、治承4年(1180)から文治3年(1266)に至る87年間の鎌倉幕府の記録で、曲筆の個所もないではないが、当時の事情がある程度詳細に記述されており、鎌倉時代研究の根本史料である。
袋綴の冊子本で、本文を47冊に収め、これに年譜1冊を加えて48冊としている。本文の末尾に大永2年(1522)9月5日安房前司弘詮の奥書があって、右田弘詮が文亀年間(1501~1504)に入手せる42帖の写本を底本とし、諸本を求めてその欠失を補い、新たに年譜1帖を加えて48帖とした旨を記している。伝来の諸写本には、脱落や誤写が多かったが、本書は書写年代が確実であるだけでなく、その内容に誤写欠文の少ない点において最も尊重されるべく、北条本とならんで古写本中の最も優れたもので、世に吉川本吾妻鏡としても、よく知られている。
右田弘詮は陶氏の出で、大内政弘の信任を得て、文明11年(1479)に筑前守護代となり、永正年間(1504~1521)に安房守となった人である。
安土桃山時代中期の天正15年(1587)九州征伐出陣の功により豊臣秀吉から吉川広家が拝領したものと伝えられている。
身幅が広く、広袖であるが振りはない。垂領で後は背割になっている。山道文を全面にして雪持芦、同笹、松樹、桐紋、鶴亀文の刺繍がなされ、さらに金摺箔が施されている。
その意匠技法とも豪華にして、しかも精緻。桃山時代の初期の形態を示す特色豊かな胴服で保存完好の優品である。大きさは身丈110㎝、裄51㎝である。
太刀は明治13年(1880)、吉香神社に池祠官が奉納したものである。刀身の長さ、75㎝。鎬造り庵棟(いおりむね)、地鉄は小板目(こいため)肌細かく練れて詰み、地沸え付き、映り有り。刃文は匂い出来の小五(こぐ)の目乱れ、匂い足盛んに入る。
刀工長則は小龍(こりゅう)の呼称があり、弘安、嘉元年間(1278~1306)頃に活躍した備前国(現在の岡山県)の刀工である。作風はこの太刀が典型的で、同銘の刀(備前国長船住人左兵衛長則 永仁三年十二月 日)とともに、福岡一文字派による刀とは作風が異なり、備前長船派と通ずる点が注目される。
縦26.7~27.6㎝、横46.7㎝、厚さ1.6~1.7㎝。両面ともに版面となっており、表面に般若心経が18行、裏面には神馬図が彫られている。表面の右側に「明応八年己未七月吉日」、左側に「積善院常住」の文字が刻まれている。
禅寺で祈祷や盂蘭盆会などの際に般若心経と馬の図を摺った紙を「紙銭」とともに仏殿の柱に貼って鬼神に施す、「経馬」または「馬経」と呼ばれる行事に使用されたものと思われる。この行事は現在も京都府など一部の禅寺で行われているということであるが、板木そのものの遺存例はないようである。
版木の紀年銘である明応8年(1499)であり、同じ15世紀末の版木は、山口県内ではこれを含めて3例しかなく、大変貴重な資料である。
総高105.8cm、鐘身高81.0cm、口外径61.0cm、同内径49.2cm。上・下帯とも無文。乳は4段4列に配されている。撞座は撞きくずれてその形状は明らかでない。「周防国玖珂庄新寺 文永九年十一月日 大工依継 願主明真」の銘文があり、鎌倉時代の文永9年(1272)に製作されたものである。
いつの頃からか岩国の永興寺(ようこうじ 吉川家の菩提寺)にあったが、本来、新寺(極楽寺)のものだとして、天和4年(1684)岩国藩主第四代吉川広紀の命により極楽寺に戻されたと伝えられている。
永享9年(1437)に造られた山口県最古の鉄燈篭で、笠・火袋・中台・基礎の四つの部分が現存し、宝珠と竿は欠失している。寛延3年(1750)に萩藩に提出された「八幡宮由来書」によると「永享九丁巳八月吉日山代庄宇佐村長兼大工藤原朝臣安信」の銘文があり、欠失している竿の部分に銘文があったと推測される。
この鉄燈篭は弘化年間(1844-1848)に宇佐八幡宮の社殿を再建した際に出土したもので、地震等により地中に埋没した際に部材が欠失したものと考えられる。
基礎に見られる花文(かもん)や高肉彫り(たかにくぼり)の獅子などは技工的に優れており、金工資料としても重要である。