祥雲寺の木造薬師如来座像ほか

祥雲寺の木造薬師如来座像ほか8躯うち7躯は、薬師如来座像を本尊とし、左に日光菩薩立像、右に月光菩薩立像が配置され、さらに日光菩薩立像の左前に増長天立像、後面に広目天立像、月光菩薩立像の右前に持国天立像、後面に多聞天立像がそれぞれ配置されて本尊を守っている。本尊木造薬師如来座像は、像高51.9㎝で平安時代末期(12世紀)の制作とされる。

本尊の台座、光背、脇侍の日光・月光菩薩は、すべて江戸時代のものである。本尊の薬師如来像、脇侍の日光・月光菩薩、四天王が揃っているのは県下でも有数であり、きわめて貴重である。

十一面千手観音座像は、寄せ木造り全面金箔張りであり、内面金箔張りの厨子に安置されている秘仏である。制作年代は、戦国時代から江戸時代初期にかけての逸品である。

地蔵菩薩立像は、江戸時代の制作で保存状態もよい逸品である。

木造三十三体観音像

観音菩薩が世の中の人々を救済するために、様々な姿、形を変えて現れると『法華経』(ほっけきょう)の中にある「観世音菩薩普門品」(かんぜおんぼさつふもんひん)で説かれている。そしてその姿は、楊柳(ようりゅう)、龍頭(りゅうず)、持経(じきょう)、円光(えんこう)、遊戯(ゆげ)、白衣(びゃくえ)、蓮臥(れんが)、滝見(たきみ)、施薬(せやく)、魚籃(ぎょらん)、徳王(とくおう)、水月(すいげつ)、一葉(いちよう)、青頸(しょうきょう)、威徳(いとく)、延命(えんめい)、衆宝(しゅほう)、岩戸(いわと)、能静(のうじょう)、阿耨(あのく)、阿摩提 (あまだい)、葉衣(ようえ)、瑠璃(るり)、多羅尊(たらそん)、蛤蜊(こうり)、六時(ろくじ)、普悲(ふひ)、馬郎婦(めろうふ)、合掌(がっしょう)、一如(いちにょ)、不二(ふに)、持蓮(じれん)、灑水(しゃすい)の三十三様である。

厨子にはこれら三十三の姿に変化した観音像が精巧緻密な造りで納められている。そして、厨子の寸法は縦71㎝、横42㎝である。製作年代は不明であるが作風から江戸時代初期の作とされている。

木造聖観音菩薩座像

ヒノキ材の寄木造で、像高52㎝、台座高48㎝、総高100㎝。蓮華座上に足の甲を交差させ、反対側の足の太ももの上に乗せて座る、結跏趺坐(けっかふざ)というポーズをとり、右手を屈して掌を前にして立て、左手に蓮華を持っている。

『防長社寺由来』では、「一観音堂一宇 但、本尊弘法大師の作の由ニ候、御長壱尺八寸座像」とあり、弘法大師作と伝えているが、技法や作風から江戸時代初期の作と推定される。

木造文殊菩薩騎獅像

ヒノキ材の寄木造で、像高35㎝、台座高38㎝、総高73㎝で、菩薩は獅子像の背上に足の甲を交差させ、反対側の足の太ももの上に乗せて座る、結跏趺坐(けっかふざ)というポーズをとり、右手に宝剣、左手に経巻を握っている姿であるが経巻の方は欠損している。

『防長社寺由来』では、「右本尊は文殊大士、行基菩薩作と申伝候」とあり、行基作との伝承があるが、像の技法等から室町時代の作と推定される。

古版木「牛王文殊宝印」

災厄除けの護符や起請文に押す印の版木で、牛王文殊宝印の文字が力強く浮き彫りしてある。護符として使用する場合は携帯したり、家の出入り口に貼ったりする。

制作者の氏名・年代・由来等未詳であるが天文年間(1532~1554)に作られたと推定されている。

鷺神社神楽面

翁(おきな)面、抵牾(もどき)面、鬼(おに)面、姫(ひめ)面の四面で、いずれも鷺神社に江戸時代末期ごろ奉寄進された神楽面である。

作者は、岩国藩の作事組に属する工人で、出目上満(でめじょうまん 本名は福屋弥惣左衛門)といわれ、寛政12年(1800)の作が三面、弘化2年(1845)の作一面と伝えられている。

これらの面は、神楽面として彫刻技術がすぐれており、非凡さが認められる。近世岩国の工人の作であり、保存状態も良好である。

釈迦牟尼如来座像・阿難・迦葉と十六羅漢

本堂の正面に釈迦牟尼如来座像(しゃかむににょらいざぞう)、その両側に釈迦の十大弟子である阿難(アーナンダ)、迦葉(マハーカーシヤパ)の立像、左右の棚には釈迦の弟子のなかで優秀な16人のである大阿羅漢(十六羅漢)の像を配している。

釈迦牟尼如来座像は高さ37㎝、阿難と迦葉の立像は高さ59㎝、十六羅漢像は45~46㎝の大きさであり、台座は岩座となっている。

作者は不明であるが、釈迦如来座像以外の18体は同一人の作で、6色の極彩色が施され、大和絵の流れを受けた江戸時代の手法である。

このような像は、市内では龍雲寺のほか、福田寺(錦町)のほかに安置されている寺院はなく、希少である。

木造力士像(蛙股)

ケヤキ造りで高さ32㎝、幅32㎝、重さ5㎏をはかる。岩国出身の工人、出目上満(でめじょうまん)作で像の背面に作者の墨書銘がある。力士像は梁や桁の上に置かれる部材、蛙股(かえるまた)として作られており、装飾として用いられ、金正院の向拝として掲げられている。金正院は、元々観音堂といい、享和から文化年間(1801~17)に改築が行われ、その際に奉納されたものである。

この像は、特異な意匠を有しており、その彫刻技術は力強さがあり、非凡なものである。作者の出目上満は本名を福屋弥惣左衛門(ふくややそうざえもん)といい、千石原の生まれで藩の作事組に属した工人で弘化2年(1845)に没している。近世岩国の工人の作品として貴重である。

木造薬師如来座像

総丈150㎝、膝張87㎝。製作は雲慶仏師と伝えられている。年代としては室町時代初期を下らないと推定される。巻子仕立て。像の右手は施無畏(せむい)印、左手は与願(よがん)印で薬壺(やっこ)を持つ。

伝承によれば、元和2年(1616)頃、この付近の海上に漂流していた像を堂宇に納めたと伝えられる。また、吉川広家がこの像に祈願して干拓工事を成功させた御礼として御鉢米1石6斗5升を贈り、伽藍を改めたと伝えられている。