像高91.3cmで、ヒノキ材の寄木造りである。頭部は巻髪で弁髪(べんぱつ)を左肩に垂らす。眼は右眼を大きく開き、左眼を半眼とする天地眼(てんちがん)、牙を上下に出している。右手に宝剣、左手に羂索(けんさく)を持つ。火焔を光背にして岩座の上に立つ。彩色はよく残っている。不動としては姿体がおとなしく、裳の衣紋は浅く流れるようである。制作は平安時代末期と考えられ、不動明王像としては、県下の秀作のひとつといえる。
昭和30年度(1955)に保存修理を実施している。
像高91.3cmで、ヒノキ材の寄木造りである。頭部は巻髪で弁髪(べんぱつ)を左肩に垂らす。眼は右眼を大きく開き、左眼を半眼とする天地眼(てんちがん)、牙を上下に出している。右手に宝剣、左手に羂索(けんさく)を持つ。火焔を光背にして岩座の上に立つ。彩色はよく残っている。不動としては姿体がおとなしく、裳の衣紋は浅く流れるようである。制作は平安時代末期と考えられ、不動明王像としては、県下の秀作のひとつといえる。
昭和30年度(1955)に保存修理を実施している。
この金銅如来形坐像は、その伝来について不明なところもあるが、日本に伝存する高麗時代の仏像として優れた作柄を示す作品である。
この像は、右手を胸前にあげ、左手を左膝上に差し伸べ、ともに第1指と第3指を捻じ、右脚を上に結跏趺坐(けっかふざ)する。肉髻部と地髪部を明確に区別せずにゆるやかに盛り上げた頭部には小粒の螺髪を整然とつくり、角張った大きめの顔面部には、すこしたるみのある髪際線、紐状の大きな耳、上下瞼がふくらんだ切れ目のある眼、太く鋭角的な鼻、厚い口唇などを大きく表現し、頸部に三道をもりあげてあらわす。鐘状を呈する太づくりの体部には通肩に法衣を着け、U字状に広く開いた胸部に裙を締めた紐の結び目をのぞかせ、新羅時代後期以来の伝統的な仏像表現を踏襲している。
地着部周縁に5個の孔があり、像底に底板を張った可能性が強く、かつて像内納入品を納めていたと推測できる。
大きな頭部をやや前方に傾けた形姿や台形状の膝部の表現などから本像の制作は、高麗時代後期(14世紀初期)ごろと考えられる。
優れた鋳造法や明快な表現などは、日本に伝来する30余点の高麗仏の中で佳品の1つとして挙げられ、貴重である。
像高は約72㎝、ヒノキ材の寄木造りである。像の顔立ちは彫眼で容貌はふくよかである。
江戸時代、キリシタン信徒が幕府の厳重な禁圧の目をくぐり観音様と称して密かに礼拝した聖母像と伝えられている。
像高66.5㎝(頂上から左足先まで)、頂上~顎14.0㎝、面巾12.0㎝、膝高8.7㎝(右足)、連座高17.5㎝、頭光直径36.0㎝、面奥12.5㎝、張り26.7㎝、台座総高40.5㎝。
ヒノキ材の一本造。頭体部を1材で造り、膝前及び両手、左足先を矧ぎつけている。頭は円頂で、白毫相をあらわす。(白毫は水晶を嵌入)彫眼、耳朶は環とし、三道を刻む。
右手は屈臂して斜め前方にたて、5指を握り、錫杖を執る。左手は屈臂し、掌を仰いで、そこに宝珠を捧持する。法衣を通肩に着け、左足を半跏(踏み下げ)して蓮座上にすわる。
台座の下方は四角で、框があり、その上に敷茄子を置き、その上方に蓮華座を置く。この蓮華の蓮弁は魚鱗葺である。下方の框のまわりに木の根でつくった雲形を置く。
頭光は宝珠輪光で、月輪光の上3か所に宝珠を付す。但し、この頭光及び蓮座の下方は後世の作と考える。
松月庵は『防長風土注進案』(ぼうちょうふうどちゅうしんあん)には、長徳寺本寺古跡松月庵とあり、長徳寺の跡地に建立されたとされる。
七観音は長徳寺に安置されていたものを松月庵に安置し、地元の人々により、手厚く守り続けられてきたものと考えられる。
七観音とは、衆生を救済するために、姿を七種に変える観音で、千手(せんじゅ)観音、馬頭(ばとう)観音、十一面(じゅういちめん)観音・聖(しょう)観音、如意輪(にょいりん)観音、準胝(じゅんでい)観音、不空羂索(ふくうけんじゃく)観音をさす。
像は中央の仏師により、作られたと推測され、保存状態もよい。おだやかな顔、流れるような衣紋、ふくよかな蓮弁、など室町時代の作品の特徴がよくでている。
本覚寺は本郷町にある徳門寺の末寺で、『防長風土注進案』(ぼうちょうふうどちゅうしんあん)によれば坂新五左衛門(さかしんござえもん)の菩提寺である。
仏像はヒノキの寄木造りで、肉髻(にくけい)、衲衣(のうい=僧尼が身につける袈裟)は墨彩で、肉身部は金箔彩色である。
保存状態は良好で台座がすべてそろっているのも極めて珍しい。
像はふくよかな慈愛に満ちた丸顔で、玉眼や白毫は水晶で造られており、衣文線などから仏体、台座とも、室町時代前期の作と考えられる。
東林寺の本尊、薬師如来座像は50年に一度開帳される秘仏である。像の右手は施無畏(せむい)印、左手は与願(よがん)印で薬壺(やっこ)を持つ。
像はヒノキの一木造りで、製作の形式から室町時代の作と推定されている。
いく度かの火災をくぐりぬけ、里人の厚い信仰に支えられて、今日に伝存した数少ない中世の仏像として貴重なものである。
次の開帳は2027年である。
随神像は本来神社の門である随身門の両脇に置かれるもので、俗に矢大臣、左大臣といい、剣を携帯し、矢を背負った衛門(えもん=門を守る兵士)の姿をしている。
随神像があることは、かつては随身門が存在していたことを示している。
これらの像は、ヒノキの一木造りであり、著名な彫刻師の作とは思われないが、桧の一木彫で、鬢(びん=耳際の髪)をもつ像には永享元年(1429)の墨書銘がかろうじて判読できる。
欠落部分が随所に見られるが、顔の相をはじめ、全体的によく整えられて制作されている。
狛犬は神社の入口や神殿の前におかれ、悪魔払いや災危防除の役目をしたといわれる。
この狛犬は木製のもので、胴体は一木造りで彫られたもので、尾の部分は枘(ほぞ)が付き、胴体に付された枘穴と合わさるようになっている。
狛犬の底面には墨書があり、貞治5年(1366)に神主教一(かんぬしきょういつ)が願主となって造進したと記載がある。
彫法は素朴であるが制作時期のわかる木製狛犬は少なく、貴重である。
阿難尊者立像は像高60.5㎝でヒノキ材の寄木造りである。迦葉尊者立像は像高60.0㎝である。
釈迦如来座像の両脇につかえる阿難尊者立像、迦葉尊者立像は彫法から室町時代の作と考えられる。
釈迦如来座像と制作時期が若干ことなるため、後の時期に一体のものとして付されている。
像高54.8㎝、臂張り37.0㎝、膝奥33.9㎝。
この像は一木造りとみられ、南北朝時代(14世紀中頃~末)に制作されたもので、彫りも良く、当地における臨済宗寺院創建の歴史を伝える貴重な遺産である。
座高158.8㎝。ヒノキ材、寄木造りの薬師如来立像である。
建立寺がかつて安養院といった頃の本尊であり、建立寺となってからは薬師堂に安置されてきた。
頭は螺髪(らほつ)を彫り出し、肉髻珠(にくけいじゅ)、白毫相(びゃくごうそう)があらわされ、耳朶(みみたぶ)は環状、首には三道が表現されている。
衲衣(のうい)を両肩からゆるやかに垂らし、両足をそろえて台座に立つ。右腕は肘を曲げ、掌を前にして指をゆるやかに開き、左腕は自然に下ろし、掌に薬壺を持っている。
全体の肉取が良く、また衣紋が浅いことから平安時代後期の製作と推定される。
十王(じゅうおう)とは、道教や仏教で、地獄において亡者の審判を行う存在で、秦広王(しんこうおう)・初江王(しょこうおう)・宋帝王(そうていおう)・五官王(ごかんおう)・閻魔王(えんまおう)・変成王(へんじょうおう)・泰山王(たいざんおう)・平等王(びょうどうおう)・都市王(としおう)・五道転輪王(ごどうてんりんおう)の10尊である。
浄円寺の「畧縁起」によれば、江戸時代の初め、寺が陽明庵の古跡に移ってきた時には、「今陽明庵残什物大般若経三箱、十王七躰、其外古仏数多並開山位牌等在之」とあり、十王の内七体が残存していたことがわかる。その後三体が失われ、現在、四体が残っている。
像底の墨書の判読により「広王」は秦広王、「江王」は初江王と見られ、それに都市王を加えて三体は尊名を知ることができるが、他の一体については手首から先を欠失しており、持物の特定もできないので、尊名を類推することはむつかしい。
像はいずれも損傷が著しいが、ヒノキ材の縦一材からの丸彫りとし、内刳りは施さない。素朴な彫法ながら円みをおびる面貌はおだやかで、躰部の張りのある形状もよく、小像ながらまとまりのよい均衡のとれた彫像で、室町時代の特色を見せている。特に初江王の像底に「二乙丑八月」、都市王の像底に「永正二乙丑十月日」の墨書が読みとれ、一連の十王像が永正二年(1505年)の製作であることが認められる。
県下に遺存する十王像で紀年銘のあるものは初見で、十王像の基準作として価値が高く、同時にこの地方の中世信仰史を知る上でも重要である。
顔貌が円形で、目鼻立ちの造作が大きく、面奥が深い。素朴な彫法であるが、力強く、その制作年代は鎌倉時代を下らぬものと見られる。
特に躰部・岩座共にノミ痕が歴然と残っていること、そして、背面の裾を彫出せずそのまま岩座に接続する仕方は、仕上げ前の小作の段階でノミを置いていることと考え合わせ、立木仏の可能性を示唆するものがあり注目に値する。
像高72.0cm。ヒノキ材の1木造りで、頭・躰部・左腕・足柄までを彫出し、右腕は肩から先を別材で組み合わせている。
内刳りは施していない。像容は円頂・彫眼・白毫相(びゃくごうそう)をあらわす(水晶嵌入)。右肩から右袖にかけては後世(江戸時代か)の改変とみられる。
しかし、全体的に地蔵菩薩立像としては古式のもので、制作年代としては鎌倉時代中頃とみられ、貴重である。
縦63.7cm、横30.0㎝、厚さ3.5cmのカヤ材の板の全面に地蔵菩薩の立像を陽刻している。
特に円光の中心に鍚杖の先を置くなど、全体の構図がまことに巧みである。鍚杖の形は鎌倉調で、複雑な衣褶は宋風(中国風)のようであり、全体的に写実的な表現である。
制作時期は鎌倉期を降らないと思われる。
像は総高46.1cm、ヒノキ材の一本造りで内刳りを施していない。
円頂で法衣の上に袈裟をつけ、袖や裳裾を前方に長く垂らし、曲隶上に安坐する、いわゆる頂相彫刻の形式である。制作時期は鎌倉時代と考えられている。
智者大師は天台宗の開祖である智顗(ちぎ 538-597)のことで、天台大師ともいう。
湖南省南部の華容に生まれ18歳で出家し、諸方で学んだのち、560年、光州の大蘇山で慧思に禅観をうけ、金陵(南京)瓦官寺で法華経や大智度を講じ、禅を教えて陳帝の信任をえたが、575年、浙江省の天台山に籠り、天台教学を確立したとされる。
二井寺山極楽寺の本尊を安置する厨子の中に、いっしょに納められているが、その伝来は詳らかでない。
鋳銅製で像高29.6cmと小型の座像である。頭部・躰部・膝前を一鋳とする。
ただし頂上仏面をはじめ頭上面はすべて別鋳して差込みとする。ふくよかな面相の中にも、ひきしまった感じがあり、肩もがっしりと張りがある。
宝髻が高く、裳先が前に流れていること、さらには木型のアリ柄技法などから、その造形は鎌倉時代中期とみられる。
右肩部にかなり大きな亀裂があること、頭上面、光背の欠失など、保存は必ずしも良好とはいえないが、県下における鎌倉時代の鋳造仏の優作として注目すべきものである。
二井寺山極楽寺の本尊である。
像高65.3cm。像容は宝髻上に仏面を、頭上に10面の菩薩面を配したと思われるが、すべて欠失している。
天冠台下の前面の地髪(じはつ)をマバラ彫り(細部を省略して大まかに刻む彫り方)とし、その他を平彫りとする。金銅製の冠飾りを天冠台の前面につける。下ぶくれのふくよかな面相で、眉・目・鼻・口などの造作が比較的大きく、彫法はするどいものがある。
しかし、やや面長で四角ばったところがあり、裳の折返し部や背面の裳の下辺に見られる文文線のあつかいなどから、その造形は南北朝時代と思われる。
一木造りのがっしりとしたボリューム感豊かな像であり、優品である。
長宝寺境内にある観音堂の本尊である。徳治2年(1307)に造建した厨子があったが、損壊したので明暦元年(1653)に現在の厨子を再建した。像高79.5cmで、台座を含めての総高は98.7cmである。
像容は髻頂に仏面(欠失)、天冠台上に一列に十一面(二面欠失)をのせる。天冠台下前面の地髪(じはつ)はマバラ彫り(細部を省略して大まかに刻む彫り方)となっている。低目の垂髻、豊かで円満な相好、特に横に切れ長な眼、小鼻の張った高めの鼻、めくれるような口辺部の彫法、彫りの浅い流麗な衣文線など、いずれも平安時代の特徴をよく示している。
ヒノキ材の三重の蓮華座、同じくヒノキ材の舟光背(いわゆる板光背)も当初のものをよく遺しており貴重である。