山代白羽神楽

山代神楽は、岩国市北部の山代地方に古くから伝わる神楽の総称である。

山代白羽神楽は、二ツ野地区(岩国市美和町)で古くから伝承されたもので、主に集落の中心にある白羽神社の秋の祭典(毎年11月2日)などで奉納されてきた。

創始の時期について正確なことは明らかになってはいないが、寛政6年(1794)の善秀寺年代記(ぜんしゅうじねんだいき)や、安政5年(1858)3月に行われた生見八幡宮御鎮座千年祭の記録から、江戸時代中期にはすでに舞われていたと記されている。また、江戸時代に相次いだ飢饉や疫病の流行に悩まされた農民が、五穀豊穣と悪疫退散の祈願をこめた神事として始めたものである、とも伝えられている。

山代白羽神楽は、12演目で構成されていた神事舞であったと伝えられている。しかし、天保10年(1839)白羽神社社殿改築の際の落成興行に招いた芸州佐伯郡明石村(現在の広島県廿日市市)の神楽から鑑賞的な舞を取り入れ24演目に改められ、その後、大正時代に大江山(おおえやま)という演目が追加されるなどの変遷を経て、現在では主に禊神楽(みそぎかぐら)、一人神楽(ひとりかぐら)、湯立神楽(ゆたてかぐら)、猿田彦(さるたひこ)、諸神(しょしん)、恵比寿(えびす)、小太刀(こだち)、芝鬼人(しばきじん)、三鬼(さんき)、天の岩戸(あまのいわと)、大江山(おおえやま)、八岐乃遠呂智(やまたのおろち)、天大将軍(てんだいしょうぐん)の13演目が舞われている。

岩国南条踊

南条踊は、中世の末期に端を発する風流の踊りである。吉川元春と、伯耆の羽衣石城(うえしじょう)主南条元続との交渉に由来する伝説が数々伝えられている。その由来のひとつに次のようなものがある。
吉川元春が南条方の城を攻め落とした時のこと。南条家の捕虜を雲州平田(現在の島根県出雲市)の陣中に抑留していたが、折から盆のころで、つれづれなるままに、南条家伝来の盆踊のことを物語った。これを番人らが習い覚え、元春の許しを受けて朋輩に伝え、平田の鰐淵山で踊ったのが始まりという。
慶長5年(1600)に吉川氏が岩国に移封するとともに、城下に伝えられてももっぱら藩士の子弟により踊られた。藩初の記録は洪水のため現存しないが、わずかに残る1630年代の記録の断片にもその行事が見出され、毎年7月15日(旧暦)前後に横山の館で催されている。
南条踊は、武家の踊りとして質朴ながら勇壮活発である。入端(いりは)、座免喜(ざめき)、走踊(はしりおどり)、由利踊(ゆりおどり)、芋踏(いもふみ)、引揚(ひきあげ)の6つの部分から構成されており、それぞれの部分は独立して変化があり、しかも全体として調和がある。昭和49年12月「記録作成等の措置を構ずべき無形民俗文化財」に選択された。

下の神楽

毎年4月初旬、下の集落内である愛宕神社の境内で奉納されるこの神楽は、室町時代以降に畿内で発生し、西進して伝えられたという、錦川対岸の「岩国行波の神舞」と同系統で、これを伝えた社家(三上家)には、慶長11年(1606)の記録が現存する。

同家の記録によれば、明治3年(1870)9月の年限神楽は社家によって奉納されているが、明治7年11月には里神楽として奉納されている。

以来この神楽は、明治、大正を経て昭和28年11月まで舞われて来たが、戦争や災害等により一時中断、昭和55年4月再興された。

荘厳(そうごん)・六色幸文祭(ろくしきこうぶんさい)・諸神勧請(しょしんかんじょう)・注連灑水(ちゅうれんしゃすい)・三宝鬼人(さんぽうきじん)・荒霊豊鎮(こうれいぶちん)・弓箭将軍(きゅうせんしょうぐん)・眞榊対応内外(まさかきたいおうないがい)・日本記(にほんぎ)・愛宕八幡(あたごはちまん)・五龍地鎮(ごりゅうじちん)・天津岩座(あまついわざ)の12座の他、湯立(ゆだて)・火鎮(ひしずめ)が行われる。

古式をよく伝え、信仰・芸能史上貴重である。

周防祖生の柱松行事

周東町祖生の中村(8月15日)、山田(8月19日)、落合(8月23日)の3地区で行われる。祖生中村地区にある新宮神社にある「産土社諸控早採略記(うぶすなしゃしょひかえそうさいりゃくき」には、1734年(享保19)に、この行事が行われたという記録があるので、それ以来、伝承されてきたと考えられる。

寄せ太鼓を合図に夜8時頃から開始する。柱松行事は、柱の頂上に、ハギの小枝とキリの葉で編んだ「ハチ(鉢)」と呼ばれる笠を置いて、その上にさした御幣(長旗)をめざしてタイ(松明)を投げ上げて点火を競う。また、同時に豊穣を占う、「年占い」としての性格も有している。

岩国行波の神舞

この神舞は、室町時代以後、京都地方において発生し、西進して当地方に伝えられたといわれているが、一説によれば荒神神楽で豊後国(現在の大分県)から大島郡を経て瀬戸内の山間を北上したものの一つともいわれている。もともと、神官が主体の社人神楽であったが、明治維新の世襲制度の廃止により里人に伝授されたものである。行波における神舞の奉納は1791年から始まり7年目ごと絶えることもなく今日に伝わっている。

演目は、荘厳(そうごん)・六識幸文祭(ろくしきこうぶんさい)・諸神勧請(しょしんかんじょう)・注連灑水(ちゅうれんしゃすい)・荒霊武鎮(こうれいぶちん)・真榊対応内外(まさかきたいおうないぎ)・日本紀(にほんぎ)・天津岩座(あまついわと)・弓箭将軍(ゆみやしょうぐん)・三宝鬼神(さんぽうきじん)・五龍地鎮(ごりゅうじちん)・愛宕八幡(あたごはちまん)の12座からなる。また、毎年10月中旬には荒玉社境内で演目の一部を奉納する。

7年目ごとの神舞年には、河川敷に四間四方の神殿を組み、前夜に湯立(ゆだて)、火鎮(ひおさめ)および一部種目を奉納し、当日は早朝から12座を演ずるほか八関(はっせき)を奉納する。これに要する時間は15時間にも及ぶ。

この神楽は、古式をよく守り、その形態を変えることなく伝承されてきた点で、全国でも貴重である。

笠塚神楽

出雲流の神楽で、どのようにしてこの地に伝わったかは明らかでないが旧日積村(現在の柳井市日積)から伝えられたとも言われる。
江戸末期と伝わる神楽面・神楽衣装・採物(とりもの)等を保持し、囃子の楽器は大太鼓・神楽笛・合鉦の三種類を用いる。
神楽の曲目は、1、湯立ちの舞 2、六神の舞 3、砂水の舞 4、勧請の舞 5、式太刀 6、日本紀の舞 7、三鬼の舞 8、内外の舞 9、地鎮の舞 10、将軍の舞 11、武鎮の舞 12、岩戸の舞 と、俗にいわれる「十二の舞」からなり、別に祈願神楽の際には「安鎮神舞」と「八幡神定」の2曲目が加えられる。

生見中村ねんぶつ行事

この行事は毎年旧暦7月1日に生見中村観音堂で行われる行事で、地区の住民からは「ねんぶつ」と呼ばれる行事である。
概要を簡単に説明すると、まず観音堂に納められている大般若経全600帖(県指定文化財)を地区住民によって転読し、その後大きな数珠を車座で繰っていく行事である。

ただ、この行事に関する過去の記録は知られておらず、往古の状況はもとより、往古の状況がどこまで現在に伝わっているかも確認できない。

行事の流れは、午後4時頃、地元中村地区の人たちが観音堂に集まりはじめ参加者が集まったころを見計らって、世話役がお堂の仏壇下に納められている計3合の唐櫃を1合(20帙入り)ずつ取り出すと、10名余の参加者は早速転読に取りかかる。この際題目などは読まれない。誰がどの帖をめくるかも決まっていない。

唐櫃一合分が終わると、次も同じように行われる。

600帖すべての転読が終了すると、次は大きな数珠が取り出され、10名余の参加者全員が車座になって数珠をもち、ねんぶつを唱えながら繰り始める。ある程度回すと、今度は逆方向に繰る。数珠の珠数は201個でそのうち1個が大きい。この大きい珠が自分の所に来たら、数珠を頭上に持ち上げる。

なお、お堂を飾る特別な幕などはなく、僧侶による読経や釈迦十六善神像の画を掲げることもない。

中村地区の住民は、この「転読」と「数珠繰り」の両者をひっくるめて「ねんぶつ」と呼んでおり、これに参加すると夏病みを防げると言い伝えられている。

釜ヶ原神楽

釜ヶ原地区は美和町北東部の広島県境沿いに位置しており、釜ヶ原と大三郎の二つの集落から構成される地区である。
両集落にそれぞれ河内神社があり、秋の大祭(10月9日夜)には、毎年交互に奉納舞が行われ、どちらも6年ごとの年祭には「大将軍」が舞われる。

現在、伝承されている釜ヶ原神楽の原形は、明治末期から大正にかけて旧本郷村から伝わったとされているが、それ以前から何らかの神舞(かんまい)が存在していたようである。

一時、停滞期があったが昭和45年(1970)ごろ、青壮年十数人が健在だった数人の長老の指導を頼りに、村おこしの一環として神楽保存会を結成した。
当時保存会は、衣裳を購入する費用などを捻出するために「持ち株組織」で運営されており、株を持った者以外は神楽を舞うことはできなかった。
しかしその後、地域全体で神楽を保存していこうという気運が高まり、「持ち株組織」を廃止して全戸に呼びかけを行い、現在の「釜ヶ原神楽団」の基盤が確立された。

釜ヶ原神楽の舞の特色は、楽士の笛や太鼓のリズムが「八調子」とよばれる速いテンポであることが特徴であり、おもな演目は湯立て(ゆたて)・すすはき・七五三(しめぐち)・柴鬼神(しばきじん)・三刀(さんとう)・さすい・恵比寿(えびす)・三鬼(さんき)・姫取り・金時・五郎納寿(ごろうのうじゅ)・天岩戸(あまのいわと)・御神楽(おかぐら)・大江山・八岐大蛇(やまたのおろち)・大将軍(だいしょうぐん)である。

由宇町清水の山ノ神祭り

清水地区の人々によって五年に一度行われ、無病息災、五穀豊穣を祈願する。
清水地区南側の鎮守の森を祭壇にして、島田川の源流を挟み向かい合う、男神(樫の木)と女神(杉の木)をご神体として藁蛇(わらへび)と呼ばれる長いしめ縄を幾重にも巻きつけて祭事が行われる。
祭りは前夜祭と本祭に別れており、前夜際は前回の神事の際に籤により決められた当屋(とうや)で神事を行い、本祭は、当屋で獅子舞が行われた後、御神幸(ごしんこう)の列が当屋から鎮守の森まで進む。
到着の後、注連縄が巻かれた神木に供物を備えて、それぞれの神木の前で神官による祝詞の奏上がなされる。
神事の後は、次の当屋を籤で決めてから、餅まきが行われる。

山代本谷神楽舞

山代神楽は、岩国市北部の山代地方に古くから伝わる神楽の総称である。
山代本谷神楽舞は、本谷地区(岩国市本郷町)で古くから伝承されてきたもので、源流は出雲の流れをくむ安芸十二神祗系神楽(あきじゅうにじんぎけいかぐら)に「五行」を骨子とした備後神楽が強く影響していると考えられ、その起源は享保年間(1716~36)に遡るといわれるが、言い伝えによると安政年間(1855~60)に山代一帯に疫病が流行した際、平癒祈願として奉納されたとされ、それ以来100年以上の間、毎年10月の第2土曜日に地区の氏神様である河内神社で奉納神楽として舞い続けられてきた。

谷津神楽舞

谷津神楽舞の由来は、江戸時代後期に行波の神舞から伝わったものといわれる。
江戸時代後期から明治時代までの谷村(現在の谷津と上市)には、里神楽の集団が二つあり、谷津上地区の舞子舞と谷津下地区の大夫舞が継承されてきた。

嘉永2(1849)年初秋に、玖珂本郷村の藤井百次郎が神楽面を谷村の氏神さまの山王宮へ奉納して神楽舞を行ったといわれている。この神楽面が、現在まで伝えられており、この面をつけて神楽舞を奉納している。現在では、舞子舞は途絶えてなくなり、大夫舞は保存会により継承され、後継者の育成とともに神楽舞が奉納されている。祭祀前夜の「湯立の神事」立舞、当日の「太鼓の口開け」から「太刀かえり」までの12演目が次第により奉納される。

 

長野神楽舞

寛永16年(1639)に創設され、享保5年(1720)より七年期となる。
七年期神楽舞の由来は享保年間(1716~1736)に、数年続いた大飢饉で凶作、虫害に苦しみに対し、生業発展・五穀成就・百難消滅を三地区(上・中・東長野、下長野、鳴川・中島)で蛆ヶ森(うじがもり)河内神社及び秋葉山に祈願するために七年毎に神楽舞を奉納することになった。

以来、七年を期として三区の輪番により、長野神楽舞世話人と舞子・楽師および地区住民によって続けられてきた。

 

上沼田神楽

起源は、享保2年(1717)以前と伝えられているが詳細は不明である。途中、広島県の湯来(広島市佐伯区湯来町)から来た石工職人から新しい神楽を伝えられ、現在に至る。基本的な舞は出雲系である。

神楽の演目は「天神地祇」(てんしんちぎ)、「火の神」(ひのかみ)、「大国主神」(おおくにぬしのかみ)、「事代主神」(ことしろぬしのかみ)、「芝鬼人」(しばきじん)、「薙刀舞」(なぎなたのまい)、「五郎王子」(ごろうのおうじ)、「黄泉醜女」(よもつしこめ)、「天の斑駒」(あまのぶちこま)、「天孫降臨」(てんそんこうりん)、「八岐の大蛇」(やまたのおろち)の十二の舞がある。

向峠神楽

この神楽の起源は安政年間(1854~1859)と伝えられ、天保の大飢饉を憂えていた時の庄屋山田利左衛門が、十数年にわたる水路工事を完成させた記念に神楽を習得させ、地区の若者に教えて秋祭りに奉納したのが始まりとされる。大正時代には石見神楽を取り入れ現在に至っている。

神楽の演目は「潮祓」(しほはらい)、「真榊」(まさかき)、「塵倫」(じんりん)、「八幡」(はちまん)、「猿」(さる)、「熊襲」(くまそ)、「天神」(てんじん)、「黒塚」(くろづか)、「鐘馗」(しょうき)、「岩戸」(いわと)、「大江山」(おおえやま)、「八岐の大蛇」(やまたのおろち)、「貴船」(きふね)、「女神」(じゅうら)の十四の舞がある。