祈年宮扁額 付 祈年宮記

山代祈祷所として元禄年間に建てられた祈年宮(伊勢春日白鳥神祠)の社殿に掲げられていた扁額である。建立当初のものではないが文政七年に製作されたものである。

扁額の法量は長さ75.5㎝、幅55.5㎝である。素材はケヤキとみられる。表面には「祈年宮」と文字の外側を彫り込み文字を浮き出せている。文字は胡粉を用いて白色で彩色し、縁は四方を唐草文で彫りだし、黒漆で着色している。

裏面には「奉納 文政七甲申正月吉辰 防州玖珂郡山代御茶屋役人中 草場謙謹書」の墨書が記されている。文政七年の正月に山代御茶屋(宰判)の役人達がこの扁額を奉納したことを草場謙が書いたとあり、「祈年宮」の揮毫は草場謙によるものである。草場謙は晋水の号をもち、萩明倫館の教授であった人物である。

付の祈年宮記については、木の板に祈年宮の縁起を墨書したもので、法量は縦37.4㎝、横115.0㎝、厚さ1.9㎝である。書は文化元年(1804)に山代宰判楮植付仕組方並勘場検使であった有田伝左衛門(祚胤)が記したものである。

これらの資料は岩国市域とくに北部の山代地域の近世の製紙業とこれにまつわる民間信仰のあり方、そして萩藩の宗教政策といったことを考える上でも重要な資料である。

錦帯橋架替図

江戸時代に作成された錦帯橋の図面である。図面は和紙を貼り継いで必要な大きさをとり、裏打をして補強した紙に箆(へら)で痕をつけ、墨を入れる方法で描かれている。紙面は小さく折り畳まれている。1橋1枚が原則であったと思われるので、架替えた橋の数だけ絵図も作られたと思われるが、残存絵図は反橋のみで13枚である。13枚すべて10分の1の縮尺で描かれており、担当責任者の棟梁が描いたものと思われる。製作年代は元禄12年(1699)から文政11年(1828)の間である。

錦帯橋は、数百年間、同じ技術で架け続けられてきた歴史をもち、また、特殊な構造の木造橋は世界的にも希有である。橋の創建・維持・管理に岩国藩が全面的に関わってきた歴史がそうした状況を作りだした背景となっているが、この資料の存在が錦帯橋そのものの文化財的価値を非常に高めているといえる。架替ごとに作られる絵図面そのものが技術の伝承の役割も果たしており、長い間、架け伝えられてきた技術の証明であり、貴重でもある。

吉香神社棟札

吉香神社の棟札のうち、明治18年(1885)のもの2枚、大正2年(1913)のもの1枚ものである。吉香神社は、岩国藩主吉川氏歴代の神霊を祀っている神社で重要文化財に指定されている吉香神社の建物群や付(つけたり)の棟札とともに、吉香神社自身の歴史や建造物の修理の歴史を知る上で不可欠なものである。特に明治18年の棟札については、明治4年からの吉香神社創建、合祀の経緯、現社殿を遷座した記録としても貴重である。

 

白崎八幡宮の御神殿棟札

棟札の寸法は、横14.5㎝、縦137.0㎝、厚さ2.0㎝、材質はヒノキである。棟札の末尾に「文亀三年癸亥四月二十八日 大工 平信家 願主 弘中右衛門尉源弘信 法名源忍同嫡男興輔」とあり、文亀三年(1503)に弘中弘信とその嫡男である興輔が願主となり、社殿を造営した際の棟札である。

棟札には白崎八幡宮の縁起をはじめ、清縄氏、弘中氏に関する歴史資料とともに、当社再建の事情と本社の興隆功徳などの記述もあり、岩国の中世を知るための史料としても重要である。

木造扁額「八幡宮」(独立性易筆)

杉材の額板に隷書体で「八幡宮」と深く陰刻され、額縁も杉材で棟木を耳状、足柱を猫                                                                 棟木を含む足柱の高さ(総縦)103㎝、棟木の幅(総横)78.7㎝、厚さ2.1~2.2㎝。

裏に墨痕が認められるが、中央の「□尻傳右衛門」のみが判読出来る。制作者や製作の時期などは岩隈八幡宮の記録や岩国藩政史料などから寛文4~9年(1664~1669)に岩国に滞在した渡来僧独立性易(どくりゅうしょうえき 1596~1672)に揮毫を頼み、岩国藩士の井尻傳右衛門(?-1673)が再建された同宮のために製作、寄進したものと見られる。

独立性易は、中国浙江省の出身、能書家及び医者として知られ、承応2年(1653)、明末清初の戦乱を避けて来日し、同じ黄檗僧・隠元隆琦(いんげんりゅうき 1592-1673)にともに長崎に滞在した。岩国藩主第3代吉川広嘉の治療のため岩国に計5回招かれ、その際に名勝「錦帯橋」建造の着想を与えた人物としてよく知られる。

また、井尻傳右衛門は元々の岩隈八幡宮の所在地である祖生(そお)に給地があり、独立性易が長崎へ帰る際、同行した人物で、独立性易が作った漢詩に「別井尻傳右衛門」と題するものがある。

般若心経並びに神馬図板木

縦26.7~27.6㎝、横46.7㎝、厚さ1.6~1.7㎝。両面ともに版面となっており、表面に般若心経が18行、裏面には神馬図が彫られている。表面の右側に「明応八年己未七月吉日」、左側に「積善院常住」の文字が刻まれている。

禅寺で祈祷や盂蘭盆会などの際に般若心経と馬の図を摺った紙を「紙銭」とともに仏殿の柱に貼って鬼神に施す、「経馬」または「馬経」と呼ばれる行事に使用されたものと思われる。この行事は現在も京都府など一部の禅寺で行われているということであるが、板木そのものの遺存例はないようである。

版木の紀年銘である明応8年(1499)であり、同じ15世紀末の版木は、山口県内ではこれを含めて3例しかなく、大変貴重な資料である。

宇佐八幡宮の棟札

宇佐八幡宮の棟札は、天文十二年御神体彩色御縁起棟札(1543)、天文二十二年八幡宮御再建棟札(1553)、宝暦二年御再建棟札(1752)、安永二年御再建棟札(1773)、万延元年正遷宮棟札(1860)の五枚が現存する。その記述内容は宇佐八幡宮に係る縁起や状況・関係役人・関係者等が記載されており当時の状況を知ることができる貴重な資料である。