慈眼寺 鰐口

この鰐口は原銘により應仁元年(1467)四月廿四日に豊後州富来柳迫に所在した地蔵菩薩に奉懸されたことがわかる。
「富来」は豊後国国東半島の北東部周防灘に望む地域で豪族富来氏の本拠であった。鰐口が豊後から周防国差川の地に移されたかの由来は明らかでない。
追銘に見える「慈眼寺」は寛保元年(1714)に差川村の小都合庄屋田中十右エ門が萩藩に報告した『地下上申』によれば「杉が原と申ハ差川村之内ニ有之小名ニて御座侯、比所ニ先年杉原山慈眼寺と申禅宗有之、只今ハ観音堂ニていづれ之時か絶破仕候、観音堂山号を小名ニ申伝、杉原と申伝ニ御座侯事」と見えている。すなわち寺は寛保元年当時には廃寺になっており、その時期もはっきりしない位以前のことであったのである。この鰐口ははじめ慈限寺に懸げられ、廃絶後はその旧跡である観音堂に伝えられたのであって、このことは天保年間(1830~1843)に編集された『防長風土注進案』に記載されている。

小型の素朴な鰐口で工芸品として特に作域の優れたものとはいい難いが、製作の時代も古く、その伝来の経緯、特に古跡慈眼寺の唯一の遺品であることから貴重である。

短刀 周防国杉森住二王清綱

住所銘「杉森」は高森の古名で、刀工「二王清綱」(におうきよつな)発祥の地が周東町であることを資料的に裏付ける貴重な一刀である。

平造で刄長八寸四分五厘、反りなし、中心孔二つ。元身幅七分三厘、先身幅五分弱、重ね四分二厘。元重ねが四分を越え、重ねの重いがっしりした鎧通しの姿である。
清綱の住所銘が刻まれたものに、「玖珂庄」、「玖珂住」のものがあるが、この短刀にみられる「杉森住」は唯一のものと言える。
周東町域の大半は、かつて中世玖珂庄の庄域であり、玖珂、杉森の地名から推測して二王清綱は恐らく周東町の字千束小字道徳に伝承された清綱屋敷あたりで鍛刀したものと思われる。

脇差 二王清□作

鎬造りの庵棟(いおりむね)で、刄渡り一尺六寸七分、反り四分五厘、目釘乳二つ、銘は心中に二王清□作と刻む(清の下の一字は判読不明)。
鍛えはよくつんだ板目、刄文は匂本位の中直刄、刄中の働きに、いま一つというところがあるが、鋩子は焼詰め心に味よくおさまり品がある。生ぶ心中で尋常にてよく、二王伝統の古風を残し、心中尻の味が特によろしい。
以上全体的に見て室町時代末期の二王刀工の代表的作風を具えている。

木造当国三十三番観音順礼手引

由来ならびに序が2面、本文36面、後書1面、及び未使用の原板一面、合計四十面が伝存している。材は、いずれもサクラ材と思われる。
大きさは版木によって若干の差異はあるが、おおよそ縦11.6cm、横33.4cm、厚さ1.2cm程度である。板面の文字はかなり角がとれているので、相当数の版行があったものと思われる。しかし、今なお文字は明瞭で、小虫喰いのため若干の欠字箇所があるが、保存は概して良好である。手引の版行は江戸時代の札所巡拝の盛行を物語るものであり、このような案内書は順拝者の要望に応えるものでもあった。同時にこの手引書は周防国における三十三観音の信仰資料としても重要である。いま版木が完全な形で揃って極楽寺に伝存したことは貴重である。

光明寺 鰐口

鼓面径18.6cmの小型の鰐口である。表面銘帯の左右に次のような銘文を陰刻している。左側「奉施入鰐口一口」、右側「応永二十五年正月八日施主安信敬白」と読まれる。「奉施入」とだけで、どこに施入されたか不明である。施主安信としては特に施入先を記入するまでもなく、身近なことなのでその必要を認めなかったのかも知れない。伝来によれば、祖生の光明寺に懸けられていたものという。防長の鰐口には撞座文のないものが多い中で、片面だけでもこれを持っていることが注目される。
また、蓮華文も小型であるが、形式化されない時代相応のよさを持っている。表面左右の目から銘帯にかけて小亀裂があるほかは、保存も概して良好である。

制作年代は銘文にある応永25年(1418)で、貴重な資料である。

具足

この具足七領は関ヶ原合戦後、久原村に来住した天野元嘉(あまのもとよし)の子孫の家に伝世したもので、明治維新後、天野氏がこの地を去るに際し、同村の住民、木村納蔵氏に保管を依頼し、のちに河内神社に奉納されたものである。

これらの具足は戦国時代末期から江戸時代初期(16世紀末から17世紀初頭)に造られたものと考えられる。将領二領・軽卒用五領とまとまっており、郷土での伝来が明らかな点を考えると貴重なものである。

梵鐘

鐘は通高93.2㎝、口径54.5㎝センチメートルの中型で一区内4段4列の乳を持ち、鐘座は2ヶ所で共に単弁の蓮華座で尖頭の細長い花弁は特色がある。銘は一区から三区の前半にわたって文明17年(1485)に刻まれた原銘が13行107字、三区の後半と四区に天文2年(1533)に刻まれた追銘が17行193字陰刻されている。

銘によると文明17年(1485)に、大工信吉が伊予国越智郡桜井郷(現今治市)の伊予国分寺のために鋳造したもので、その後、天文2年(1533)に深龍寺の開基、藤原朝臣胤兼(ふじわらのあそんたねかね)が深龍寺のためにその鐘を寄進したものである。また銘文にある藤原朝臣胤兼は、深川胤兼(ふかがわたねかね)とみられ、当時深川の地を治めていた国人と推測される。

色々威腹巻 付 負櫃

岩国六代藩主吉川経永(きっかわつねなが)が岩国明珍家の祖である甲冑師明珍又ヱ門宗性に命じて、寛保2年(1740)に製作させた、華美で豪華な甲冑である。

金属類には、繊細で見事な彫刻(浮彫・透彫・毛彫・魚々子)が多く用いられている。この他、漆、糸の染色、布帛といった素材についても上品なものである。

全体的に古式に則ってはいるが、江戸期の明珍派の特色を良く伝え、当世具足的要素を加味し、取付式の弦走革を用いるなど、独創的な手法を用いた甲冑として貴重である。

 

鉄錆地百廿間筋兜鉢 銘 明珍宗家作

兜は、鉢高13.8㎝、前後径22.7㎝、左右径19㎝で、枚張は118枚である。

この筋兜は、薄い鉄板を縦に矧合せ、筋と筋との間の数が120間あって鉄鋲で平留にして形成している。表面は、錆地で腰巻を周らせた鉢で、眉庇や𩊱(しころ)など付属品はない。裏には、「明珍宗家作」と刻銘がある。作者である明珍宗家は、明珍宗家(みょうちんそうけ)の19代目で桃山時代に活躍した甲冑師である。その宗家の作品は、いずれも前後に長く脹らみをもたせて技巧的になっている。現存する筋兜では200間(京都国立博物館蔵)が最も多く、120間は明珍家や根尾家の甲冑師作に見ることができるがその多くは江戸時代の作である。そのため、この兜鉢は桃山時代の作として資料的価値が高い。

桐・九曜紋蒔絵挾箱 付 目録

大きさは横幅58.1㎝、奥行39.8㎝、高さは箱38.8㎝、蓋7.8㎝である。

挾箱は外出に際し、具足や着替用の衣服などを中に入れ、棒を通して従者にかつがせた箱で、江戸時代には定紋をつけて武家の格式を示した。

造りは印籠造りで、身に比べて蓋が浅く、垂直、水平線の組み合わせにより構成されている器形は整然として、厳正な印象を与えている。各面の対角線には鍍金桐唐草文毛彫金物をはめて、鋭さがいっそう強調され、それが蒔絵と金具の桐・九曜紋と金梨地に松・橘文蒔絵の意匠に和している。

派手な図様を器面全体に描いた蒔絵の技法などから製作期は江戸中期から後期と考えられる。保存状態も良く、加えて吉川家伝来であることも目録から判明している。

紺糸素懸威黒板札菱縫二枚胴具足

江戸時代後期の作で製作者は岩国藩の甲冑師春田家第4代の春田正栄である。特色として、眉庇(まびさし)が微塵青貝に赫銅覆輪の出眉庇であること、前立が鍍金の鍬形及び丸ニ酢漿紋となっていること、吹返し、胴の胸板、胴のうしろの押付板にも丸ニ酢漿紋をつけていること、立挙、衡胴とも上重ねになっていることが看取できる。

全体的には、菱縫いの板が金漆雛で亀甲文様となっている他随所に上級武士が着用したと思われる特色を見ることが出来るほか、全体が製作当時のままで、後世の改変もない、完全な一領である。

元々は家老職の吉川家所有の甲冑で、明治初期に吉香神社に奉納されたものである。漆の剥落等もなく、保存状態はきわめて良好である。

刀剣

刀身の長さ69cm。反り2cm。銘文は、表に「防州岩国住国俊」、裏に「昭和三十五年五月日 於長野県坂城町宮入昭平内」とある。作者国俊は、現代刀工で鍛冶名を国俊と号した藤村松太郎(1887~1965)で、宮入昭平(長野県の刀工 1913~1977)は現代刀工で人間国宝。この刀は、宮入昭平の工房において国俊が鍛錬し、昭平が焼刃入れをした合作である。両刀工の技量の高さを伺える名品で貴重な一口である。

黒韋肩白紅威大袖

この大袖は、射向(いむけ)(左手)側の大袖だけで、馬手(めて)(右手)はない。上下の幅は39㎝と35㎝で、南北朝時代の作である。作りは黒漆塗の革小札と鉄小札を一枚ずつ交互に交えて、赤、白の糸を用いて段々に威(おど)している。

中世の甲冑に付属した大袖は南北朝時代から室町時代にかけて盛んに用いられているが南北朝時代の大袖の残存例は少く貴重である。

刀剣拵付

刀身の長さ69.2㎝。反り1.5㎝。銘文は、表に「神武周防岩国藩青龍軒盛俊造之」、

裏に「文久(四)年甲子正月日」とある。文久4年(1864)に、青龍軒と称し岩国藩の刀工であった岩本清左衛門盛俊(1802-1867)作で、伯耆流居合道の始祖といわれる岩国藩片山家に伝えられてきたものである。また、鐔(つば)の作者片岡忠義は、岩国に住んだ優れた鐔工である。

刀身は、拵(こしらえ)とともに極めて良好な状態で保存されている。刀身、刀鐔(かたなつば)とも傑作で、伝来の由緒正しさと合わせて誠に貴重な存在である。郷土の刀工盛俊の傑作の一口に、同藩の鐔工の傑作が拵につくものは他に存在しないと思われる。

紺糸寄素懸威百二十二間筋兜

この兜は岩国藩家老職であった香川家に伝来するもので、高さ16.5cm、径は前後25.4cm、左右20.9cm。銘文には、「防州住藤原正晨作」とある。銘文にある防州住藤原正晨は春田正晨(はるたまさあき 1657-1738)のことである。正晨は通称を次郎三郎といい、奈良の甲冑師春田正信(はるたまさのぶ)に師事し、のちに、岩国藩の甲冑師春田家の初代となる。

兜は筋兜といわれるもので兜本体を形成する鉄板を接ぎ留める鋲を見せず、鉄板の縁を捩(あお)り立て、接ぎ目を筋状に見せたものである。筋兜の筋は春田派の兜で120間となるものは珍しい。

また、これ程多くの細い筋が入った兜を何の乱れもなく作り上げた技術は高く評価され、美術的価値も高い。

銅製梵鐘

銅鋳の梵鐘で釣手は双龍頭を鋳出し、頂部は宝珠形になっている。鐘身は上部外面に乳を鋳出す。法量は鐘身の高さ86.0㎝、釣手の高さ20.0㎝、口の外径65.5㎝、口部の厚さ6.0㎝である。

鐘身に「貞治五年丙午十月十五日大願主比丘尼慧通大工沙門釈阿」と陰刻の銘があり、願主、造主の名及び紀年銘がある。願主である比丘尼慧通(びくにえつう)は、岩国地域の領主であった弘中良兼(ひろなかよしかね)の妻とされる人物である。紀年銘の貞治5年(1366)は北朝の年号で、大内弘世(おおうちひろよ)が貞治元年(1363)に南朝側から北朝側に鞍替えし、室町幕府二代将軍足利義詮(あしかがよしあきら)より長門国、周防国の守護職を認められたことから、以降、周防国内では北朝年号を使用することになった。梵鐘は、南北朝時代のものであり、当時の時代的特徴を表わしている点からも貴重なものである。

色々威腹巻

胴の高さ27.8㎝、胴廻り91.5㎝、草摺(くさずり=胴の下にさがっていて、足の太股を守る部分)の長さ24.5㎝の大きさである。小札(こざね 甲冑の部位をつくる短冊状の板)は黒漆塗の革小札と鉄小札を一枚ずつ交互に交えて、赤、白、紫の三色を用いて段々に威している。威す(おどす)とは小札の穴に糸を通すことを言い、色々糸威とは複数の色の糸で威すことを言う。

腹巻とは、軽装の防具である腹当が進化したもので、体の正面の防御だけでなく、背後に引き合わせを設けて背中にも武装を拡張したもので、南北朝時代から室町時代にかけて盛行した。

この時期のものは遺品が比較的少ないが、この腹巻は、保存状態が良好であるため貴重である。

太刀銘【表】防州白崎八幡宮御剣願主源兼胤【裏】貞和三年丁亥十月日守吉作 付 太刀(同銘無焼刃)一口

鎬造りで、庵棟(いおりみね 刀の背となる頂点が鋭角になるようにした形状)で仕上げられており、刃部の地肌が、よく鍛えられている太刀である。長さ83.0㎝、反りの中心点が刀身の中ほどにある高い中反り で2.6㎝ある。身幅が広く、鎬の幅が狭いもので切先は猪首(いくび)となり、ふくらと呼ばれる刃先部は丸味をもっている。

この太刀は白崎八幡宮創建の前年にあたる貞和3年(1347)の10月に刀工の守吉によって製作され、同銘の無焼刃のものが一口あり、付(つけたり)となっている。

刀工の守吉は備前畠田(現在の岡山県備前市畠田)の刀工で、北朝の貞和・貞治年間(1345-68)頃に活躍した。奉納者である願主源兼胤は、弘中兼胤のことであり、白崎八幡宮を創建した人物である。弘中氏は中世において岩国庄、岩国本庄を支配していた領主であった。

太刀 銘 安吉

長さ70.6㎝の太刀。刀身は、鎬造、庵棟、鍛板目、刃文は湾れごころの乱れとなっている。作者である刀工安吉は南北朝時代、正平年間(1346~70)の人物で筑前国(福岡県)の刀工である筑前左(筑前左衛門安吉)の子とされる。

安吉作の太刀は例が少ないので、この作品はその点から珍しいと言われている。

 

刀〈金象嵌天正十三十二月日江本阿弥磨上之花押/所持稲葉勘右衛門尉(名物稲葉江)〉

南北朝時代に越中国松倉郷(現在の富山県魚津市)の刀工郷義弘(ごうのよしひろ)が製作した刀である。義弘は相模国(現在の神奈川県)の刀工政宗の弟子と伝えられている。義弘の作品は銘が刻まれたものがなく、刀剣の鑑定や研磨を業とする本阿弥家によって鑑定を受けた11振が現存するのみである。その中でも、とくに優品であるのが加賀前田家伝来の「富田郷」(国宝 前田育徳会蔵)と「稲葉江」である。

「稲葉江」の名は所持者であった稲葉勘右衛門尉(重通 しげみち)の名にちなんでおり、稲葉江の江は、「郷」の字をくずした草書体に由来する。刀の茎(なかご)には、本阿弥家九代の本阿弥光徳が天正13年(1585)12月に、太刀を磨り上げ(すりあげ)たこと、稲葉勘右衛門尉の所持品である旨を金象嵌で記している。その後、「稲葉江」は徳川家康によって買い上げられ、家康の次男である結城秀康、越前松平家(福井藩)、作州松平家(津山藩)へと伝来した。

刀の特徴としては、本来は太刀として作られたものであるが、大磨上(おおすりあげ)によって刀として仕上げられているが、身幅が広く、重ねが厚く、切先が延びるという、豪壮さを残している。