岩国市横山二丁目に所在する岩国藩家老香川家の表門である。17世紀末、元禄年間の当主、香川正恒(かがわまさつね)のとき、大工大屋某によって建てられたものと伝える。
桁行23.29m、梁間4.85mで、屋根は入母屋造りで本瓦葺きである。正面に向かって左寄りに出入り口があり、大小の扉をしつらえている。門の左側は茶屋が設けられ、右側は三部屋に分かれ、仲間部屋、武道場(板敷)、厩に当てられていたという。
岩国市内の木造建造物として最古級のものの一つで、岩国城下町の風情を残す建物である。
岩国市横山二丁目に所在する岩国藩家老香川家の表門である。17世紀末、元禄年間の当主、香川正恒(かがわまさつね)のとき、大工大屋某によって建てられたものと伝える。
桁行23.29m、梁間4.85mで、屋根は入母屋造りで本瓦葺きである。正面に向かって左寄りに出入り口があり、大小の扉をしつらえている。門の左側は茶屋が設けられ、右側は三部屋に分かれ、仲間部屋、武道場(板敷)、厩に当てられていたという。
岩国市内の木造建造物として最古級のものの一つで、岩国城下町の風情を残す建物である。
鮎原剣神社の参道橋として、現在の県道130号・本郷周東線から対岸の神社境内へ渡るために、川上川に架橋されたのが穹崇橋である。完成は大正6年(1917)で、山口県内に現存する数少ない石アーチ橋の一つである。また、信仰上の理由から曲線を描いたアーチ形(あくまでも形のみ)が採用されることが多い寺社の参道橋の中で、山口県内では唯一、隣り合う迫石(もしくは輪石)同士の圧縮応力によって構造体を支える石アーチ橋である。穹崇橋は、橋長7.195mに対して、アーチ径間(スパン)は7.055m、拱矢は2.903mで、極めて半円に近い欠円アーチとなっており、35個の迫石でアーチが構成されている。なお、地上(人間界)と天上(神界)を結ぶために神社参道の社頭近くに架けられる橋は、参道に位置することから「参道橋」と呼ばれることが多く、またその形態から「太鼓橋」と名付けられたり、宗教的な意味合い(神が通る橋で、通常、人間は通れないこと)から「神橋」と呼称されたりするが、穹崇橋の場合は、空に向かって弓を張っている形から名付けられたと言われる。
付の『神苑ニ関スル経費明細簿』は、支払いの明細を通じて、事前の準備をはじめ、石工や工事関係者、基礎工事の方法、建設資材の種類・数量・価格まで、すべての事項が時系列でわかる極めて貴重な資料である。
『神社昇格願書』の「社殿並工作物之部」には、「神橋 穹崇橋 石造無脚半圓形」「大正六年二月一日 建築 新」の記載があり、穹崇橋の構造、形態とともに竣工日が分かる。また、添付されている「鮎原劔神社全景見取圖」には社殿、参道、神橋(穹崇橋)の他、神苑も描かれており、昭和26(1951)年頃の水害で大部分が流出してしまった神苑の様子も伺い知ることができる。なお、それほどの被害が出た洪水でも穹崇橋は流されなかったということを意味している。
事務所、倉庫、便所の3棟からなる。事務所は、木造、寄棟造、2階建、桟瓦葺、床面積234.28㎡。倉庫は、木造、切妻造、2階建、桟瓦葺、床面積79.52㎡。便所は、木造、切妻造、平屋建、桟瓦葺、床面積14.30㎡(渡り廊下を含める)。
この建物は、昭和6年(1931)、吉川家岩国事務所として建設された。昭和45年頃から平成20年まで「岩国市青年の家」として使用され、現在は岩国徴古館の付属施設である。設計は堀口捨己(1895~1984)で、外部・内部ともに、ほぼ建設当時の姿をとどめている。
事務室の開口部のデザインや室の雰囲気などに初期の堀口の作風がよく出ていること、サッシュも含めて当初のものがよく残っていること、堀口の初期の作品で現存するのはいずれも洋風のものであるので、彼の系譜をたどる上で、特に和室研究の過程を知るうえで重要である。
この建物は、堀口が西洋建築を学んだあと、日本建築の研究を開始し、日本的なものを建築作品に反映させようと考え始めたころの作品にあたる。特に目立った建物ではないが、平面・構造が簡素明快であること、左右非相称、無装飾、素材の美の尊重など、建物全体に堀口の考えた日本的なものが現れている。
仙鳥館(仙鳥御屋形)は、元禄11年(1698)、岩国藩5代藩主吉川広逵(きっかわひろみち)の住居として建設された。同年11月20日、2歳の広逵は母と共に完成した屋形に移居している。
以後、主として、藩主吉川家の子女を養育するとともに、その母親(夫人)が共に生活する建物として利用された。明和5年(1768)から7年にかけて、書院の改築など大規模な改造が行われている。現在の建物は、弘化3年(1846)建築のものであり、既存の建物を解体し、その跡に本建物を建設したされる。その後は大きな改変がなく、江戸時代後期の姿をよくとどめている。江戸時代の大名関連の遺構としても貴重である。
構造は、桁行8間半、梁間5間、木造2階建、入母屋造、棧瓦葺。
広瀬八幡宮は、旧広瀬村・野谷村・中ノ瀬村の総鎮守で、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を祭神とする。大同2年(807)に豊前国の宇佐八幡宮から勧請を受け、創建されたと伝えられているが由緒沿革などに関する記録や社宝等は火災のため焼失し詳細な事項が判明しない。
神殿は、三社造りで屋根は鉄板葺である。棟札から天保6年(1835)の建立である。手挟・蟇股・支輪(たばさみ・かえるまた・しりん)に装飾彫刻を多用し、妻飾の二重虹梁(こうりょう)は出組斗栱(でぐみときょう)により身舎(もや)側柱筋から二段に持ち出される。
拝殿は、入母屋造で屋根は桟瓦葺である。中央に馬道をとる割拝殿形式で、広瀬八幡宮ではこれを横町と呼んでいる。棟札から弘化4年(1847)の建立である。かつての礼祭の際は、名主が裃に着替え、神事に臨む前の控えの場所として横町は使われた。錦川を挟んで西側の名主と東側の名主各十二人、計二十四人の座が建物内で定められている。
三間社流造・鉄板葺の建物で、棟札によると弘化元年(1844年)手斧始め(ちょうなはじめ)を行い、16年後の万延元年(1860)清祓(きよはらい)並びに遷宮(せんぐう)の儀式を行っている。
建物の特色として妻飾を虹梁(こうりょう)、両脇に叉首棹(さすさお)を備えた太瓶束(たいへいつか)とし、斗供(ときょう)は平三ッ斗、隅連三ッ斗で全体としては古式を保つが縁は腰組として三手先(みてさき)の挿肘木でうける。また蟇股(かえるまた)・木鼻の絵様、繰形彫刻にはやや稚拙な趣があり、時代相をうかがわせる。庇の繋虹梁が身舎柱上で大斗と組み合って持ち出されている手法は珍しい。正面の飛檐垂木(ひせんたるき)を新材としているが、外に大きな改造がなく、年代の明らかな幕末期の作例として評価できる。
昌明館は寛政5年(1793)に七代藩主吉川経倫(きっかわつねとも)の隠居所として建造され、経倫の死後は八代藩主経忠(つねただ)の夫人喬松院(きょうしょういん 柏原藩主織田信憑の次女悌 てい)が居住した。
明治に入ると一時、岩国県庁が置かれた。その後、吉川家の家職を司る用達所が設けられ、近代吉川家の岩国における拠点となっている。
敷地内の建物群は解かれて現在は吉川史料館の敷地となっているが、長屋2棟と門が現存する。長屋は現在までに幾度かの改変をうけているがその外観は当時の姿をよくとどめている。
構造は、桁行7間、梁行2間、入母屋造、出桁造、両袖瓦葺。東側庇付き、北端2間中二階付、南端東側2間に下屋付きである。