明治41年(1908)に、現在地に遷座した際に、この本殿も移築されており、大正13年(1924)に銅板葺に改められている。
江戸時代の伝統的な、三間社流造りの手法によって建立され、よく時代の特色が残されている。流造とは前面の屋根が前に大きく張り出した様式で、その屋根を支えるために柱の数が4本で柱間が3つになるものが三間社流造である。
明治41年(1908)に、現在地に遷座した際に、この本殿も移築されており、大正13年(1924)に銅板葺に改められている。
江戸時代の伝統的な、三間社流造りの手法によって建立され、よく時代の特色が残されている。流造とは前面の屋根が前に大きく張り出した様式で、その屋根を支えるために柱の数が4本で柱間が3つになるものが三間社流造である。
文化10年(1813)に大雨による社殿大破のため改築されたもので、伝統的な木造の三間社流造(さんげんしゃながれづくり)の建物である。流造とは前面の屋根が前に大きく張り出した様式で、その屋根を支えるために柱の数が4本で柱間が3つになるものが三間社流造である。
改築後は建物本体の一部、屋根裏の補修が行われたのみで当時の特色を残したまま保存されている。
陸軍元帥長谷川好道の邸宅跡に昭和2年(1926)に建てられた。寄棟造桟瓦葺、桁行24m梁間10m、妻入で正面中央に唐破風造の玄関を付す。外部は下見板張とし、内部は演技場の東面に師範台、南面に観覧席と支度室を下屋で設けている。
この収蔵庫は吉川家の土蔵として明治24年(1891)に建設され、昭和26年(1951)に岩国徴古館とともに吉川報效会から岩国市に寄贈された。木造二階建、切妻造、桟瓦葺で、太い小屋梁など堅固な造りである。建築当初は、吉川家の美術品や資料を収めていたと思われる。石積み三段の背の高い基礎や広い戸前に外観上の特色がある。高い基礎は錦川の氾濫や湿気に備えたもので、内部中央に設けられた幅の広い階段などとともに資料の保管・搬出入などに適した造りとなっている。
徴古館第一収蔵庫及び他の吉川家の土蔵と同一形式であり、吉川家に共通した仕様に基づいて建設されたものであると推測される。
昭和19年(1944)、吉川家の別邸である仙鳥館から移築した土蔵である。木造二階建、切妻造、桟瓦葺で、外壁には漆喰壁上に焼杉板が張られており、石積み三段の背の高い基礎や、西側全面に差し掛けられた広い戸前に外観上の特色がある。高い基礎は錦川の氾濫や湿気に備えたもので、内部中央に設けられた幅の広い階段などとともに、資料の保管・搬出入などに適した造りとなっている。
仙鳥館からの移築のため、軸部、小屋組などに不自然な点もあるが、徴古館第二収蔵庫及び他の吉川家の土蔵と同一形式であり、吉川家に共通した仕様に基づいて建設されたものであると推測される。
小説家宇野千代の生家で、建築時期は明治初期と言われ、木造二階建、平入、入母屋造、桟瓦葺、真壁造で、正面は真壁造であるものの、出格子、軒下の出し桁、猫足の腕木など岩国の町屋に共通した外観となっている。内部は土間の玄関に、時計の間、客間、仏間、鏡の間などと名付けられた和室が配置されている。
明治25年(1892)、千代の父宇野俊次が建物を取得し、昭和49年(1974)、千代によりに損傷の激しかった建物を昔の形で修復された。現在は「NPO法人宇野千代生家」が管理・運営し、公開や展示などを行っている。
昭和4年(1929)4月、岩徳線の一部開通にともない、岩国駅として開業した。昭和17年(1942)に麻里布駅を岩国駅と改称した際に、西岩国駅に改称した。
木造平屋建、寄棟造、桟瓦葺、外壁モルタル仕上げで、正面入口上部に設けられた、アーチ窓と柱形(ピラスター)からなる表現派風の大きな切妻と、錦帯橋をイメージさせる5連アーチの入口車寄に特色がある。
明治25年(1892)、旧岩国藩主吉川経健が建設した吉川邸の長屋門である。桁行30mと長大で、西を正面とし、石積基壇上に建つ。南寄りに門口を構え、外壁漆喰とし、要所に横連子窓を設けている。屋根は寄棟造、桟瓦葺きで、小屋組は一部に変形トラスを用いている。伝統的な形式を保ちながら洋風のデザインを取り入れており、近代の大邸宅の様子を今に伝えている。
國安家住宅は、江戸時代より鬢付油(『梅が香』)を製造販売していた松金屋又三郎によって建てられたものである。客座敷床の間の座板裏面に「嘉永三年庚戌之初秋七月十一日、十世満喬代調之、三代目大工五兵衛作」の墨書銘があり、この頃の建築と伝えられているが、それ以前に遡る可能性もある。建築後、幾度か改造されているが、全体的には旧状をよく保持していると言える。
太い梁を縦横に架け渡した豪壮な構成は岩国城下を代表した町家建築の面影をよくとどめている。
明治18年(1885)、租税検査員派出所として発足した岩国税務署の新庁舎として、横山地区から現地に移築された、木造モルタル塗り総2階建ての庁舎建築。
中央正面に玄関を配置、玄関を中心に左右対称とし、両翼部を薄く張り出して切妻屋根をのせるルネサンス様式的な建築構成が特徴的である。
関東大震災後の大正末から昭和の始めにかけて多く建設された、人造石やモルタルで外装された洋風建築で、県内に現存する戦前の税務署建築の唯一のものといわれる。
設計監督は税務監督局技手田中俊郎、当時の官庁営繕組織設計による地方公共建築の一端を窺い知ることができる。
旧岩国藩主吉川家の新邸が完成するまでの間利用していた仮住居であり、井上馨や皇室関係者を迎えたこともある由緒ある建物である。
明治19年に建設され、明治21年吉川邸完成後は吉川家の接客所としての役割を担った。
昭和25年頃に岩国市の所有となり、現在は貸室や集会所などとして活用されている。
1階は15畳の座敷2室と畳敷の縁が廻り、2階は30畳の大広間に板敷の縁を廻らせて、座敷を中心とした構成をとっている。北に正面を向け、城山や現在、錦川の土手で隠れて見えない錦帯橋も河原の向こうに見渡すことのできた風流な邸宅である。
明治18年9月9日、旧岩国藩主吉川家歴代の神霊を祭る吉香神社の絵馬堂として建築されたもので、桁行5間、梁間3間の入母屋造の楼閣風建築である。同地には元々、3階建ての南矢倉が建っていた。
階下の外観は外周腰部までを板壁、中間部を吹き放し、上部は漆喰壁仕上げとし、階上は四囲に高欄付きの縁側を巡らせている。
階下の内部は全面土間で、絵馬を懸けるために天井が高く、絵馬を鑑賞するための腰掛縁が設けられており、階上の床は全面板張りとなっている。
旧岩国藩主吉川家が寄附した美術工芸品や歴史資料を展示・保管するため、財団法人吉川報效会により建設され、昭和20年3月に竣工した。設計は早稲田大学教授で岩国中学校出身の佐藤武夫が実施した。
煉瓦造2階建で、ドイツ古典主義の影響がみられる意匠は、低く抑えた外観、正面の角柱の列柱、内部の裾広がりの柱に特徴がある。
吉香神社は、旧藩主吉川氏歴代を祀る神社で、元は横山の白山神社境内にあったものを明治18年(1885)に現在地である御土居跡に遷座している。指定されている建物は、享保13年(1728)に造営された神門、拝殿及び弊殿、本殿、鳥居の三棟、一基である。
神門は、左右に脇門付袖塀をもつ小型の四脚門で、冠木中央に吉川家の家紋がついている。拝殿は、切石積壇上に建ち、入母屋造で背面に幣殿が張り出している。本殿は、切石積二重基壇上に建つ三間社流造で、正面に軒唐破風、千鳥破風が付されている。
また、「享保13年戊申年9月25日上棟」の記載のある棟札も残されており、18世紀前半期の社殿建築の代表作としても貴重である。
旧目加田家住宅は、18世紀後半頃の建築とみられる中流武家の住宅である。木造一部二階建て、屋根は入母屋造りである。
旧目加田家住宅の内部には様々な部屋があり、江戸時代岩国の武家住居の様相を残している。正面玄関は住宅の南側にあって、手前に板敷の式台が設けられている。武家住宅では居住者より身分の高い人物の出入り口として使用され、居住者は普段は北側と東側の土間のある入口から出入りしていた。
座敷は客を迎え入れる表座敷と内々のことで利用する裏座敷があり、表座敷の前には次の間と呼ばれる控えの部屋がある。このほかにも、台所や、主人の身の回りの世話をする中間がつめる中間部屋などがある。
屋根は瓦葺きで、その葺き方は両袖瓦と平瓦を利用した「二平葺き(にびらぶき)」と呼ばれるもので岩国地域でしか残っていない独特の葺き方で、岩国では18世紀初頭にこの瓦や「二平葺き」が完成されていたようである。
こうした特徴をもつこの住宅は総体的に用材が小さく簡素で以ありながらも端正な意匠であり、250年近く経ちながらも当時のままの姿がよく保存されており、建築史上たいへん貴重である。
安山岩製で、低平な基壇の上に背の高い軸があり、その上に屋根と軸部を一石で掘った笠が五つ乗っている。
上方にあったと思われる相輪は失われている。5つの笠は上方にゆくにつれて大きさを小さくしている。
軒は厚さも充分であり、両端にいって少し厚みをまし上方にゆるやかに反っている。軸部には正面中央部に蓮華を刻し、その上の月輪のなかにタラーク(宝生如来)梵字がある。
この面に縦に3行、下記の刻銘がある。
刻銘には天文15年(1546)の紀年銘が刻まれている。軸部にはこのタラークに向かって右の面にウーン(阿閦如来)、左面にキリーク(阿弥陀如来)背面にアク(不空成就如来)の金剛界四仏の梵字が彫ってある。
山口県内の石造の層塔のなかでも古い部類であり、貴重である。
旧栄福寺の古跡とされ、県指定文化財大般若経全600帖付唐櫃(からひつ)3合が納められている観音堂である。
観音堂は「辻堂」としての性格も持ち、吹き抜けの建物で、仏像や大師像を安置し、集落の信仰の場や休憩の場でもあった。
また、ここでは毎年旧暦7月1日に、地区住民により大般若経を転読し、数珠を繰る「生見中村ねんぶつ行事」(市指定文化財)も催されている。
門の形式は三間一戸楼門(上階 桁行三間、梁行二間)、入母屋造、本瓦葺である。細部では次のような二つの特色がある。
一つ目は、上階の西より2本目の柱上に前後(南・北側)とも台輪状長押(ながおし)が頭貫のようにくい込む。
二つ目は、下階の中央間が西側に片寄るため、西側柱間が東側柱間より小さい。
部材は、東北隅の柱のみケヤキ材で、他の柱はスギ材を使用している。
建立年代は、記録によると元禄2年(1689)で、享保21年(1736)、享和2年(1802)、昭和49年(1974)と三度の修理履歴がある。
17世紀代の楼門建築は類例が少なく、貴重である。
極楽寺は『新寺縁起』(にいでらえんぎ)によると秦皆足(はたのみなたり)によって天平16年(744)に創建されたと伝えられている寺であり、平安時代末期に成立した仏教説話集の『今昔物語』(こんじゃくものがたりしゅう)、鎌倉時代に編纂された仏教の通史である『元亨釈書』(げんこうしゃくしょ)にも観音霊場としての記述がある寺院である。
薬師堂はその境内にあり、桁行3間(5.75m)、梁間3間(5.74m)、重層屋根、方形造り、本瓦葺、全体は素木造りの建物である。万治3年(1660)に梅枝薬師堂(ばいしやくしどう)として岩国横山の白山比咩神社(しらやまひめ)境内にあったものを、元文4年(1739)同じ横山地内の寺谷に移し、さらに明治6年(1873)に極楽寺に移築したものである。
岩国学校は、明治3年(1870)岩国藩主が藩中の青少年を教育するため学制の大改革を行い、旧兵学校と文学校を公中学・公小学に組織を改めて現在地の近くに新築、翌4年2月に開校したものである。校舎は上層を教員詰所、下層を教室にした二階建てであったが、学制発布の明治5年に三階を増築した。
当初の部分はほぼ和風様式であるが、増築した三階は屋根鉄板葺きアーチ窓、ヨロイ戸付、しっくい大壁造りの洋風である。
この和洋を混淆した手法は、明治初年の教育制度の激しい変革と文明開化の気運を象徴するもので、全国に現存する明治初年の学校建築の中においても様式の特異性において他に例を見ない。昭和47年8月に解体修理を実施している。