岩屋観音窟

今から約2億130万年前から約1億4550万年前に形成された地層にある石灰岩によって形成された洞窟で、奥行13m、幅約2mから5m、高さ約11mの規模で比較的小さなものであるが、鍾乳石や石筍が良く発達している。

また、洞内には木造の観音像に炭酸カルシウムを多く含む水滴が滴下し木仏が石仏と化したと伝えられる仏像が安置されている。伝承では弘法大師の作と言われ、近世には萩藩主第二代毛利綱広が観音像の存在を知り、根笠山ノ内にあった受恩庵を洞窟のそばに移し、岩屋山護聖寺と命名した以降、多くの参詣者で賑わったという。

範囲としては観音窟とその周囲1,034㎡が指定されている。

 

南桑カジカガエル生息地

カジカガエルは、本州・四国・九州に生息するアオガエル科のカエルである。体色は濃いこげ茶色で、雌は雄に比べるとかなり大きく、体長は雄3.5~4cm、雌5~7cmである。前足には4指があり、吸盤をもつが、水かきはほとんど認められない。後足は長く、跳躍力に優れている。

カジカガエルは河原の石の間やコケのはえた岩の上などで生活し、5月上旬から7月下旬にかけての繁殖期には石の上でさわやかな鳴き声を発し、6月下旬から7月下旬にかけて、よどみの石の間や草の根などに寒天質におおわれた卵塊を産み落とす。

そして、国指定のカジカガエル生息地としては当地と岡山県真庭市の「湯原のカジカガエル生息地」の2ヶ所のみである。また、指定範囲としては錦川中流にかかる高野橋(たかのばし)の上流約900mから下流1,944mの範囲となっている。

岩国のシロヘビ

天然記念物「岩国のシロヘビ」は、岩国市の限られた地域にだけ生息している世界的にも珍しいヘビである。ヘビの白色変種が安定した遺伝形質を維持して特定の地域に集中的に生息している例は、世界的にみても他に例のないもので、学術的にも極めて貴重な存在である。

元々は大正13年(1924)12月、岩国市を縦走する錦川をはさんだ今津、麻里布地区と川下地区が「白ヘビ生息地」として天然記念物に指定されたが、昭和47年(1972)8月「岩国のシロヘビ」へと指定替えされた。

しかし、近年生息地域の都市化が進み、餌となるネズミ等の動物相も変化するなど環境の変化により、その生息数は減少しつつある。このため岩国市では、一般財団法人岩国白蛇保存会とともに官民一体の保護保存活動を進めている。

錦帯橋

古い歴史と美しい環境、珍しい形状と巧みな構造をもつのが錦帯橋の特色である。
背後に連なる城山の緑、その下を流れる錦川の清流、山紫水明の景色が橋と調和して美しい。橋の上下流各60間(108m)の地点から上流350間(637m)下流230間(418m)以内の堤塘敷及び河川敷が名勝錦帯橋として指定されている。

錦帯橋は延宝元年(1673)第三代藩主吉川広嘉によって創建されたが、翌年の延宝2年春に流失。その年のうちに直ちに再建され、以来、276年間秀麗な姿を誇っていたが、昭和25年9月のキジア台風により惜しくも流失した。その後、昭和28年1月再建され、現在の橋は、平成13年度から平成15年度にかけて行われた架替工事によるものである。

橋の長さは、210m、直線で193.3m、幅約5mである。

 

周防祖生の柱松行事

周東町祖生の中村(8月15日)、山田(8月19日)、落合(8月23日)の3地区で行われる。祖生中村地区にある新宮神社にある「産土社諸控早採略記(うぶすなしゃしょひかえそうさいりゃくき」には、1734年(享保19)に、この行事が行われたという記録があるので、それ以来、伝承されてきたと考えられる。

寄せ太鼓を合図に夜8時頃から開始する。柱松行事は、柱の頂上に、ハギの小枝とキリの葉で編んだ「ハチ(鉢)」と呼ばれる笠を置いて、その上にさした御幣(長旗)をめざしてタイ(松明)を投げ上げて点火を競う。また、同時に豊穣を占う、「年占い」としての性格も有している。

岩国行波の神舞

この神舞は、室町時代以後、京都地方において発生し、西進して当地方に伝えられたといわれているが、一説によれば荒神神楽で豊後国(現在の大分県)から大島郡を経て瀬戸内の山間を北上したものの一つともいわれている。もともと、神官が主体の社人神楽であったが、明治維新の世襲制度の廃止により里人に伝授されたものである。行波における神舞の奉納は1791年から始まり7年目ごと絶えることもなく今日に伝わっている。

演目は、荘厳(そうごん)・六識幸文祭(ろくしきこうぶんさい)・諸神勧請(しょしんかんじょう)・注連灑水(ちゅうれんしゃすい)・荒霊武鎮(こうれいぶちん)・真榊対応内外(まさかきたいおうないぎ)・日本紀(にほんぎ)・天津岩座(あまついわと)・弓箭将軍(ゆみやしょうぐん)・三宝鬼神(さんぽうきじん)・五龍地鎮(ごりゅうじちん)・愛宕八幡(あたごはちまん)の12座からなる。また、毎年10月中旬には荒玉社境内で演目の一部を奉納する。

7年目ごとの神舞年には、河川敷に四間四方の神殿を組み、前夜に湯立(ゆだて)、火鎮(ひおさめ)および一部種目を奉納し、当日は早朝から12座を演ずるほか八関(はっせき)を奉納する。これに要する時間は15時間にも及ぶ。

この神楽は、古式をよく守り、その形態を変えることなく伝承されてきた点で、全国でも貴重である。

吉川家文書

吉川家文書は、旧岩国藩主吉川家に所蔵されている古文書類の総称で、正治2年(1200)正月25日鎌倉将軍(頼家)家下文案(播磨国福井庄地頭職補任状)を上限として、江戸時代貞享年間(1684~1688)に至る総数2393点を収めている。

吉川家は、もと駿河国入江荘吉河の住人で、鎌倉時代に播磨国福井庄、安芸国大朝庄の地頭職を得て、正和2年(1313)の根拠を安芸国に移した。以来南北朝の内乱期を経て国人領主として発展し、経基の時に隆盛期をむかえている。室町時代の末に毛利氏に帰属し、毛利元就の二男元春が養子となるに及んで以後は毛利氏の一族として活躍した。

本文書は、こうした吉川氏の歴史を反映したもので、鎌倉、南北朝、室町各時代の文書は関東御家人、あるいは国人領主層の動向を伝えた文書として中世史上価値が高く、戦国・桃山時代のものは毛利氏の中国経営、ことに山陰攻略の仔細、あるいは大内・大友との交渉、豊臣秀吉の九州平定、朝鮮出兵などに関する根本文書として貴重である。文書中、特に注目すべき点は、歴代、殊に元春、元長、広家らの自筆書状の多いことで、毛利家文書と同じく一族の結束と領内経営に務めた戦国大名の姿を示して興味深い。中でも天正9年6月13日の元春、同夫人(熊谷氏)連署書状は、経言(広家)に対する教誡状で、元春の人柄を伝えて注目され、また、広家書状には関ヶ原の戦いをめぐる毛利氏の動向を窺わせるものが多い。この他、足利直冬に関する文書がまとまっていること、信長の運命を予言した安国寺恵瓊自筆書状のあることなど、中世史研究上重要な文書が含まれ、毛利家文書と並ぶ戦国大名家文書として貴重である。

元亨釈書 吉川経基筆十五冊

元亨釈書は、わが国に仏教が伝来して以来鎌倉時代末元亨年間(1321~1324)に至るまでの高僧の事蹟、仏教の史実を記し、かつ概評を下したもので東福寺の僧虎関師錬の著。後醍醐天皇の元亨2年(1322)に完成したので元亨釈書という。

本書は、吉川経基が至徳元年(1384)の重刊本から転写したものを、安芸国新庄の洞仙寺に寄進したものである。写本には、経基自筆の部分もあるが、東福寺諸僧の助筆も混じっている。原表紙は厚手の白紙を用い、「元亨釈書并序目録一之ニ」と書し、更に中央には各冊に「洞仙寺常住 慶本之寄進也」(後筆)と墨書されている。慶本は経基の法名である。第四冊は、もと冊子装であったが、裏に文書を有するので横綴に改装されている。裏の文書の多くは書状であるが、中には延徳3年(1491)正月21日に行われた闘茶興行の記録もある。

経基は『吉川家譜』に、武事に長じ、又和歌を善くし且つ能書なりといわれている如く、好学の戦国武将であるが、本書もその点を示す一本として貴重である。

 

太平記 吉川元春筆四十冊 付 太平記目録

太平記は南北朝時代の争乱のいきさつを記した軍記物語である。文章は漢文調を交えて豪壮絢爛、文学作品として法師などにより講釈もせられたが、史書としても相当の価値を有し、また兵書として戦国時代の武人の間でひろく愛読されたものである。

本書は世にいう吉川太平記と呼ばれるものである。太平記が現在流布されている形に至るまでに若干の異本の存在が認められ、そのうち最も原作に近いと認められていたのは神田太平記であったが、神田本には14巻の欠失があった。本書は神田本に近い内容を有し、しかもほぼ全巻を完備していることから吉川太平記として文学史上に注目されるに至った。

この吉川本太平記は吉川元春が自ら書写したもので、奥書によれば永禄6年(1563)12月に筆を下し、同8年8月に完了した。この永禄7、8年は、出雲において尼子義久の軍を包囲攻撃の最中で、かかる軍陣の間に太平記を書写した元春の好学を看取出来る。

吉川元春は、享禄3年(1530)、毛利元就の第2子として生まれ、従兄吉川興経の養嗣子となった。豪邁でしかもよく文事を解し、文武兼備の名将として知られている。

 

紙本墨書細字法華経八巻 付 仁和寺任助法親王御譲状一通

法華経8巻を細字で1巻に書写したもの。白麻紙に金泥で罫線を引き、各行17字ずつ2段に墨書してある。本文の筆者は弘法大師と伝えられているが、確証があるわけではなく、平安初期の写経師の筆によるものと推測される。中国の唐代(618~907)の細字経は御物の他にも見受けられるが、平安初期に作成された細字経は皆無に近く、貴重である。

その後、中世に巻物を折本に改め、紺紙金泥絵の見返し、紺紙金銀泥絵の表紙を付けて装丁し、華麗な青貝蒔絵の箱に収められている。

この1帖は、もと仁和寺の寺宝であったものを、天正12年(1584)、門跡であった任助法親王から吉川元長に下賜せられたもので、同年6月21日付の譲状が附せられている。

紙本墨書吾妻鏡四十七冊並びに年譜一冊

吾妻鏡は、治承4年(1180)から文治3年(1266)に至る87年間の鎌倉幕府の記録で、曲筆の個所もないではないが、当時の事情がある程度詳細に記述されており、鎌倉時代研究の根本史料である。

袋綴の冊子本で、本文を47冊に収め、これに年譜1冊を加えて48冊としている。本文の末尾に大永2年(1522)9月5日安房前司弘詮の奥書があって、右田弘詮が文亀年間(1501~1504)に入手せる42帖の写本を底本とし、諸本を求めてその欠失を補い、新たに年譜1帖を加えて48帖とした旨を記している。伝来の諸写本には、脱落や誤写が多かったが、本書は書写年代が確実であるだけでなく、その内容に誤写欠文の少ない点において最も尊重されるべく、北条本とならんで古写本中の最も優れたもので、世に吉川本吾妻鏡としても、よく知られている。

右田弘詮は陶氏の出で、大内政弘の信任を得て、文明11年(1479)に筑前守護代となり、永正年間(1504~1521)に安房守となった人である。

山道草花鶴亀文繍箔胴服

安土桃山時代中期の天正15年(1587)九州征伐出陣の功により豊臣秀吉から吉川広家が拝領したものと伝えられている。

身幅が広く、広袖であるが振りはない。垂領で後は背割になっている。山道文を全面にして雪持芦、同笹、松樹、桐紋、鶴亀文の刺繍がなされ、さらに金摺箔が施されている。

その意匠技法とも豪華にして、しかも精緻。桃山時代の初期の形態を示す特色豊かな胴服で保存完好の優品である。大きさは身丈110㎝、裄51㎝である。

 

太刀 銘 備前国福岡住左兵衛尉長則 嘉元(以下不明)

太刀は明治13年(1880)、吉香神社に池祠官が奉納したものである。刀身の長さ、75㎝。鎬造り庵棟(いおりむね)、地鉄は小板目(こいため)肌細かく練れて詰み、地沸え付き、映り有り。刃文は匂い出来の小五(こぐ)の目乱れ、匂い足盛んに入る。

刀工長則は小龍(こりゅう)の呼称があり、弘安、嘉元年間(1278~1306)頃に活躍した備前国(現在の岡山県)の刀工である。作風はこの太刀が典型的で、同銘の刀(備前国長船住人左兵衛長則 永仁三年十二月 日)とともに、福岡一文字派による刀とは作風が異なり、備前長船派と通ずる点が注目される。

吉香神社本殿・拝殿及び弊殿・神門・鳥居 付 棟札

吉香神社は、旧藩主吉川氏歴代を祀る神社で、元は横山の白山神社境内にあったものを明治18年(1885)に現在地である御土居跡に遷座している。指定されている建物は、享保13年(1728)に造営された神門、拝殿及び弊殿、本殿、鳥居の三棟、一基である。

神門は、左右に脇門付袖塀をもつ小型の四脚門で、冠木中央に吉川家の家紋がついている。拝殿は、切石積壇上に建ち、入母屋造で背面に幣殿が張り出している。本殿は、切石積二重基壇上に建つ三間社流造で、正面に軒唐破風、千鳥破風が付されている。

また、「享保13年戊申年9月25日上棟」の記載のある棟札も残されており、18世紀前半期の社殿建築の代表作としても貴重である。

旧目加田家住宅

旧目加田家住宅は、18世紀後半頃の建築とみられる中流武家の住宅である。木造一部二階建て、屋根は入母屋造りである。

旧目加田家住宅の内部には様々な部屋があり、江戸時代岩国の武家住居の様相を残している。正面玄関は住宅の南側にあって、手前に板敷の式台が設けられている。武家住宅では居住者より身分の高い人物の出入り口として使用され、居住者は普段は北側と東側の土間のある入口から出入りしていた。

座敷は客を迎え入れる表座敷と内々のことで利用する裏座敷があり、表座敷の前には次の間と呼ばれる控えの部屋がある。このほかにも、台所や、主人の身の回りの世話をする中間がつめる中間部屋などがある。

屋根は瓦葺きで、その葺き方は両袖瓦と平瓦を利用した「二平葺き(にびらぶき)」と呼ばれるもので岩国地域でしか残っていない独特の葺き方で、岩国では18世紀初頭にこの瓦や「二平葺き」が完成されていたようである。

こうした特徴をもつこの住宅は総体的に用材が小さく簡素で以ありながらも端正な意匠であり、250年近く経ちながらも当時のままの姿がよく保存されており、建築史上たいへん貴重である。

錦川下流域における錦帯橋と岩国城下町の文化的景観

本文化的景観は、江戸時代の岩国城下町に由来するもので、錦川、城山、横山地区、岩国山、岩国地区から構成される。

岩国城下町は、藩主居館や諸役所、重臣の屋敷等が置かれる横山地区と、中下級の家臣屋敷や町人町等が置かれる岩国地区からなり、両地区を錦川が大きく隔てる。
これらの城下町には、護岸や水路、河川氾濫や内水氾濫に対する建造物の備え等が残されており、川と密接に関わった人々の工夫に富んだ暮らしを窺い知ることができる。

横山地区と岩国地区を繋ぐ錦帯橋(国指定名勝)は、その代表的なもので、延宝元年(1673)に当時の建築土木技術の粋を集めて架橋されたもので、その独特の構造美から、江戸時代中頃から名所として知られ、物見の賑わいにより経済的・文化的発展をもたらした。それにより、城下町の趣を伝える町並みに、木造三階建の旅館、時代の特徴を示す店舗、桜並木等の新たな景観が調和的に生み出され、現在まで良好に引き継がれている。

自然の特性を踏まえた開発が都市の個性を生み、往来の賑わいを生み、産業を育むという連関を示す独特な事例として貴重である。

色々威腹巻

胴の高さ27.8㎝、胴廻り91.5㎝、草摺(くさずり=胴の下にさがっていて、足の太股を守る部分)の長さ24.5㎝の大きさである。小札(こざね 甲冑の部位をつくる短冊状の板)は黒漆塗の革小札と鉄小札を一枚ずつ交互に交えて、赤、白、紫の三色を用いて段々に威している。威す(おどす)とは小札の穴に糸を通すことを言い、色々糸威とは複数の色の糸で威すことを言う。

腹巻とは、軽装の防具である腹当が進化したもので、体の正面の防御だけでなく、背後に引き合わせを設けて背中にも武装を拡張したもので、南北朝時代から室町時代にかけて盛行した。

この時期のものは遺品が比較的少ないが、この腹巻は、保存状態が良好であるため貴重である。

太刀銘【表】防州白崎八幡宮御剣願主源兼胤【裏】貞和三年丁亥十月日守吉作 付 太刀(同銘無焼刃)一口

鎬造りで、庵棟(いおりみね 刀の背となる頂点が鋭角になるようにした形状)で仕上げられており、刃部の地肌が、よく鍛えられている太刀である。長さ83.0㎝、反りの中心点が刀身の中ほどにある高い中反り で2.6㎝ある。身幅が広く、鎬の幅が狭いもので切先は猪首(いくび)となり、ふくらと呼ばれる刃先部は丸味をもっている。

この太刀は白崎八幡宮創建の前年にあたる貞和3年(1347)の10月に刀工の守吉によって製作され、同銘の無焼刃のものが一口あり、付(つけたり)となっている。

刀工の守吉は備前畠田(現在の岡山県備前市畠田)の刀工で、北朝の貞和・貞治年間(1345-68)頃に活躍した。奉納者である願主源兼胤は、弘中兼胤のことであり、白崎八幡宮を創建した人物である。弘中氏は中世において岩国庄、岩国本庄を支配していた領主であった。

太刀 銘 安吉

長さ70.6㎝の太刀。刀身は、鎬造、庵棟、鍛板目、刃文は湾れごころの乱れとなっている。作者である刀工安吉は南北朝時代、正平年間(1346~70)の人物で筑前国(福岡県)の刀工である筑前左(筑前左衛門安吉)の子とされる。

安吉作の太刀は例が少ないので、この作品はその点から珍しいと言われている。

 

刀〈金象嵌天正十三十二月日江本阿弥磨上之花押/所持稲葉勘右衛門尉(名物稲葉江)〉

南北朝時代に越中国松倉郷(現在の富山県魚津市)の刀工郷義弘(ごうのよしひろ)が製作した刀である。義弘は相模国(現在の神奈川県)の刀工政宗の弟子と伝えられている。義弘の作品は銘が刻まれたものがなく、刀剣の鑑定や研磨を業とする本阿弥家によって鑑定を受けた11振が現存するのみである。その中でも、とくに優品であるのが加賀前田家伝来の「富田郷」(国宝 前田育徳会蔵)と「稲葉江」である。

「稲葉江」の名は所持者であった稲葉勘右衛門尉(重通 しげみち)の名にちなんでおり、稲葉江の江は、「郷」の字をくずした草書体に由来する。刀の茎(なかご)には、本阿弥家九代の本阿弥光徳が天正13年(1585)12月に、太刀を磨り上げ(すりあげ)たこと、稲葉勘右衛門尉の所持品である旨を金象嵌で記している。その後、「稲葉江」は徳川家康によって買い上げられ、家康の次男である結城秀康、越前松平家(福井藩)、作州松平家(津山藩)へと伝来した。

刀の特徴としては、本来は太刀として作られたものであるが、大磨上(おおすりあげ)によって刀として仕上げられているが、身幅が広く、重ねが厚く、切先が延びるという、豪壮さを残している。