中津居館跡

錦川河口部に形成された三角州上に立地する遺跡で、平成20年度から平成27年度までの試掘確認調査、平成28年度から令和元年度に行われた都市計画道楠中津線建設に伴う調査等、岩国市内で20次にわたる調査が実施されている。
これまでの成果では中世前半、13世紀後半から14世紀前半の港湾に関連する集落跡と中世後半、16世紀代の居館跡と考えられている。中世前半の集落跡では礎石建物のほか、土師器を一括廃棄した土坑のほか、推定40,000~50,000枚の渡来銭が甕に埋納されていた一括出土銭も見つかっている。このほか、多くの木製品も出土している。
中世後半は、石垣で囲繞された居館跡とされ、海側には船着き場遺構が確認された。

祖生城跡

城域は東西80m、南北50mである。主郭の東から南側に帯曲輪を付け、北東部と東側に三段にわたって小曲輪を付す。北側には竪堀が確認出来る。

向田山城跡

城域は北東‐南西方向に270m、北西‐南東方向に約90mである。鞍掛山城がある鞍掛山の南側に位置する向田山の山頂部の尾根稜線に長さ160m、幅6~10mの屈曲する帯状の曲輪があり、南西側に主郭が設けられ、その主郭の西側と南側に連続的に曲輪を設けている。北東側には、竪堀等が設けられている。

成君寺山城跡

城域は南北約170m、東西約75mである。成君寺山の山頂部に主郭を設け、主郭の西側に曲輪が取り付いており、その南側にも曲輪が付く。山頂部の北西側に二条の堀切を、南西側には土塁状の高まりに尾根筋を遮断する堀切が付く。

 

朝霞城跡

城域は東西約330m、南北約27mである。丘陵性山地の山頂部に主郭および東西に曲輪が付き、両側の堀切によって尾根筋を遮断している。このほか、西側には土塁状の高まりも確認出来る。

今要害

城域は長さ103m、幅41mの小規模な城館である。蓮華山城がある蓮華山の南西尾根上に立地する。尾根の高位に平坦面があり、その東西に曲輪が付く。さらに東側には三方に石垣が築かれた曲輪があり、その先には尾根を遮断するように堀切が二条設けられている。

同じ山中にある蓮華山城との関係性については、時期差があると考え、関係性はないと思われる。

冷泉氏館跡

祖生盆地の中央に位置する独立丘陵上に立地する。規模は長さ約130m、幅65mである。頂部の平坦面に西側に曲輪群が付く。

昭和62年(1987)、頂部南側にある冷泉社の改築の際に発掘調査が行われ、宝篋印塔や備前が出土している。13~14世紀の間は城館ではなく、墳墓として使われていた可能性がある。付近には冷泉北遺跡があり、館に関連する集落と考えられている。

倉重城跡

由宇川下流の丘陵地上に立地する。城域は南北200m、東西150mである。主郭は頂部に配し、その周りには帯曲輪を巡らせている。主郭の南側には不整形の曲輪が付き、周囲には竪堀が配されている。

高森城跡

生見川中流域の谷底平野の西側の山地に立地する。城域は南北約390m、東西約280mである。山頂部の主郭を中心とした曲輪群と西側の曲輪群、北側の尾根先にある曲輪群と三つの曲輪群で構成されている。

主郭を中心とした曲輪群は山頂部に主郭を配し、南側に伸びる尾根と北東方向に伸びる尾根に沿って曲輪が連続する。尾根の両側には石垣を築いた曲輪もあり、急斜面となる箇所には土留め的に石垣を設けている。

 

蓮華山城跡

玖西盆地の北側に位置する蓮華山の山頂に立地する。城域は東西550m、南北430mである。山頂部の主郭を中心とした曲輪群のほか、北東側の曲輪群、南西側の尾根に展開する五つの曲輪群と合わせて七つの曲輪群で構成されている。これらの曲輪群は楕円形の曲輪を中心に斜面に沿って段状の曲輪をする構造である。

城は大規模のわりには堀切の構築が少なく、竪堀や土塁も限定的である。このことからも陣城としての性格が強いと考える。

北方古墳

昭和34年(1959)に周東町教育委員会が主体として、小野忠熈氏の指導のもと、発掘調査が行われ、古墳時代後期(6世紀後半)の横穴式石室が確認され、副葬品が出土した。

横穴式石室は玄室部と羨道部の境に袖石を有する両袖式で、石室の全長は7.5mで、玄室長は4.2m、幅1.8~2.0mで、羨道長は3.25m、幅1.1mの規模である。

遺物は、須恵器、鉄製品(刀・鏃・馬具)、装身具(耳環・ガラス製勾玉・ガラス製小玉)

が出土した。

渋前積石塚

発掘調査によって18世紀後半の供養塚と推定された。

冠遺跡

西中国山地の中央部にある冠高原とその周辺部に立地する遺跡で、後期旧石器時代前半期から縄文時代前期にかけての石器類や安山岩の原石等が多く分布している。この安山岩は宇佐平遺跡や用田遺跡等で出土する石器の石材であり、岩国市内の遺跡だけでなく、かなりの広範囲に広がっている。

遺跡の調査は広島県側で調査が行われており、多くの成果があるが、岩国市側の遺跡範囲では広島県教育委員会によってわずかな試掘が行われたのみである。

建立寺遺跡

昭和28年(1953)に完形の弥生土器壺が発見された、時期は弥生時代後期のもので土器棺に使われたと考えられている。

松原遺跡

昭和28年(1953)に旧広瀬高校本郷分校の敷地造成のための道路工事の際に竪穴住居跡および弥生土器が出土した。

阿品遺跡

岩国市史では、西ヶ尾遺跡と記述されている。平成5年(1993)に試掘調査が行われ、竪穴住居跡、土坑跡が確認された。出土した押型文土器から縄文時代早期後半(約7,000年前)の遺跡と考えられる。

また出土した石器や剥片の多くは安山岩製で、冠高原から採取された石材である。

横山遺跡

令和2年、3年度(2020、21)に試掘調査が行われた。近代の学校等により近世以前の遺構は削平を受けていたが、中世土師器、近世陶磁、瓦などが見つかっている。また、中世の段階では錦川の氾濫原であったと考えられており、洲状の砂層堆積を確認した。

近世期に、吉川広家によって氾濫原であった当遺跡を城下町建設時に堤防の築堤と並行して造成を行ったとみられる。

柳井田遺跡

発掘調査は行われていないが、土器棺で使われたと考えられる大型壺が見つかっている。

大型壺は口縁端部に鋸歯文を配し、喇叭状にひらいた口縁部内側には渦文や十字形に巡らせた浮文を付している。

 

上丈遺跡

昭和25年(1950)に土師器片が採取されている。

岡丈遺跡

昭和25年(1950)に土師器片が採取されている。