奥ヶ原遺跡

弥生時代、古墳時代後期の竪穴住居が23棟、弥生時代の墓が12基、確認されている。遺物は弥生土器、土師器、須恵器等の土器をはじめ、石鏃、紡錘車などの石製品や鉄製品も多く出土している。また、小片であるが、弥生時代の鏡片も出土している。

四割遺跡

弥生時代後期の竪穴住居や掘立柱建物等が確認されている。奥ヶ原遺跡とともに、祖生地域の弥生時代の状況がわかる遺跡である。

冷泉北遺跡

13世紀から16世紀にかけての集落であり、隣接する冷泉氏館跡と存続期間が重なっていることから、大内氏、毛利氏の被官であり、祖生に領地をもっていた冷泉氏に関連する集落であったと考えられる。また、出土した陶磁器のうち、高麗青磁の出土がある。

用田古墳群

古墳時代中期の古墳4基が確認された。とくに3号墳からは把手付碗が出土しており、県内初の出土事例である。

大元古墳

横穴式石室の玄室の一部が確認された。石室とその周辺から土師器、須恵器が見つかっている。

河池遺跡

昭和53年(1978)の調査では貯蔵穴が確認された。昭和62年(1987)の調査では竪穴住居5棟をはじめとする弥生時代中期の遺構が見つかっている。また、遺構は伴わないが旧石器や縄文時代の石器も見つかっている。

上久宗遺跡

弥生時代の集落に伴う、竪穴住居跡、段状遺構のほか、平安時代の蔵骨器が出土した墓などが見つかっている。

祖生城跡

城域は東西80m、南北50mである。主郭の東から南側に帯曲輪を付け、北東部と東側に三段にわたって小曲輪を付す。北側には竪堀が確認出来る。

今要害

城域は長さ103m、幅41mの小規模な城館である。蓮華山城がある蓮華山の南西尾根上に立地する。尾根の高位に平坦面があり、その東西に曲輪が付く。さらに東側には三方に石垣が築かれた曲輪があり、その先には尾根を遮断するように堀切が二条設けられている。

同じ山中にある蓮華山城との関係性については、時期差があると考え、関係性はないと思われる。

冷泉氏館跡

祖生盆地の中央に位置する独立丘陵上に立地する。規模は長さ約130m、幅65mである。頂部の平坦面に西側に曲輪群が付く。

昭和62年(1987)、頂部南側にある冷泉社の改築の際に発掘調査が行われ、宝篋印塔や備前が出土している。13~14世紀の間は城館ではなく、墳墓として使われていた可能性がある。付近には冷泉北遺跡があり、館に関連する集落と考えられている。

蓮華山城跡

玖西盆地の北側に位置する蓮華山の山頂に立地する。城域は東西550m、南北430mである。山頂部の主郭を中心とした曲輪群のほか、北東側の曲輪群、南西側の尾根に展開する五つの曲輪群と合わせて七つの曲輪群で構成されている。これらの曲輪群は楕円形の曲輪を中心に斜面に沿って段状の曲輪をする構造である。

城は大規模のわりには堀切の構築が少なく、竪堀や土塁も限定的である。このことからも陣城としての性格が強いと考える。

北方古墳

昭和34年(1959)に周東町教育委員会が主体として、小野忠熈氏の指導のもと、発掘調査が行われ、古墳時代後期(6世紀後半)の横穴式石室が確認され、副葬品が出土した。

横穴式石室は玄室部と羨道部の境に袖石を有する両袖式で、石室の全長は7.5mで、玄室長は4.2m、幅1.8~2.0mで、羨道長は3.25m、幅1.1mの規模である。

遺物は、須恵器、鉄製品(刀・鏃・馬具)、装身具(耳環・ガラス製勾玉・ガラス製小玉)

が出土した。

上丈遺跡

昭和25年(1950)に土師器片が採取されている。

岡丈遺跡

昭和25年(1950)に土師器片が採取されている。

宮源遺跡

昭和25年(1950)に土師器片が採取されている。『島田川』では、祭祀遺跡の可能性も示唆している。

高森皿山窯跡

連房式の窯の基底部らしき痕跡があり、その周辺に窯道具等が散布している。

平畑遺跡

昭和25年(1950)に調査が行われ、竪穴住居跡とみられる遺構と弥生土器が確認されている。遺跡は標高180mの地点で確認されており、高地性集落と考えられる。

用田遺跡

旧石器から古墳時代にかけての複合遺跡であるが、発掘調査が行われていないため、詳細は不明である。旧石器時代の遺物としては有舌尖頭器が見つかっている。縄文時代の遺物としては晩期の土器が多く、石器は掻器や削器、石鏃などが見つかっている。

久田遺跡

弥生時代中期の土器が採集されている。その中には、伊予系の凹線紋期の高坏がある。