表面遺跡

古代から中世にかけての掘立柱建物や柱穴などが確認された。

中津居館跡

錦川河口部に形成された三角州上に立地する遺跡で、平成20年度から平成27年度までの試掘確認調査、平成28年度から令和元年度に行われた都市計画道楠中津線建設に伴う調査等、岩国市内で20次にわたる調査が実施されている。
これまでの成果では中世前半、13世紀後半から14世紀前半の港湾に関連する集落跡と中世後半、16世紀代の居館跡と考えられている。中世前半の集落跡では礎石建物のほか、土師器を一括廃棄した土坑のほか、推定40,000~50,000枚の渡来銭が甕に埋納されていた一括出土銭も見つかっている。このほか、多くの木製品も出土している。
中世後半は、石垣で囲繞された居館跡とされ、海側には船着き場遺構が確認された。

阿品遺跡

岩国市史では、西ヶ尾遺跡と記述されている。平成5年(1993)に試掘調査が行われ、竪穴住居跡、土坑跡が確認された。出土した押型文土器から縄文時代早期後半(約7,000年前)の遺跡と考えられる。

また出土した石器や剥片の多くは安山岩製で、冠高原から採取された石材である。

阿品窯跡

近世末から明治前半にかけて操業されていた窯であり、明治期には石見系の瓦窯として操業していたとみられる。また、エドワード・モースが岩国を訪れた際にも、錦帯橋のほか、この窯も訪問しており、数点に陶器を購入している。

令和3年(2022)度に試掘調査を実施した。窯跡自体の発見はなかったが、明治期の窯の窯体や窯道具等の散布を確認している。

皿山窯跡

18世紀後半に開窯された窯で、肥前系磁器に類似する染付を生産していた。19世紀に入ると磁土が不足し、若干陶器質気味のものが焼かれるようになる。

遺跡内では、陶磁器や窯道具が採集されている。

北河内遺跡

発掘調査は行われていないが、弥生時代中期の無頸壺などが採取されている。

錦見遺跡

国道2号線のトンネル工事の際に、入口付近から弥生時代中期の無頸壺が出土した。

多田窯跡

元禄13年(1700)に京都の陶工丹波屋安兵衛を招いて、多田の地で開窯したのが、多田窯である。以降、19世紀の初頭まで岩国藩の御用窯として機能していた。窯跡自体は見つかっていないが、匣鉢などの窯道具が採集されている。

大円寺山遺跡・亀ヶ尾城跡

昭和41年(1966)に大規模工事際に貝塚を発見、その後山本一朗氏が調査を行い、弥生土器等の出土があった。土器の時期は弥生時代中期に位置づけられる。

また、弘中氏の居城と考えられている亀尾城も遺跡内にあったされるが、宅地開発によって明確な遺構は確認されていない。

本呂尾遺跡

遺跡範囲内には、吉川広家の隠居所跡や海前寺跡と推測される平坦面が残る。

小瀬砲台群

四境戦争の際に小瀬から和木にかけて小瀬川沿いを中心に設営された砲台陣地の跡である。大砲を据える陣地とみられる平坦面が確認出来る。

小瀬番所・一里塚跡

近世山陽道が周防国に入った際の最初の一里塚を設けた場所であり、また芸防国境にあたることから、出入国を見張る番所が置かれていた。試掘調査では番所時代と思われる、瓦が出土した。

石丸古墳(猿ヶ谷古墳)

明治26年(1893)に水落簡、長谷川友之助の両名によって、発見され発掘がなされた。石室とみられる箇所から須恵器や装飾品、武具、馬具等が出土している。