全長7.5~22.6cm程度の小さな木質の仏像で、795体と多数残っていることから千体仏と呼ばれているとみられる。保存状態は概ね良好である。
正徳5年(1715)ごろ静間彦右衛門たちの篤い信仰と悲願により、桂雲寺に寄進されたものと伝えられている。この千体仏は、信仰の対象物であって、信者が寺に詣でて、法要仏事を営む際、お堂の中にある千体仏の中から亡き人の顔に似た仏像を選び出し、これを本堂に移し、位牌とともに仏壇に飾り、読経をお願いし、帰りに再び元の位置に納めて退出したと伝えられており、民俗資料としての価値が高いといえる。
柱野古宿にかつてあった桂雲寺は錦見の大円寺の末寺といわれ、正徳5年に堂宇を建立し、享保6年(1721)に寺号を申請している。開基は静間彦右衛門と言われている。
江戸時代に作成された錦帯橋の図面である。図面は和紙を貼り継いで必要な大きさをとり、裏打をして補強した紙に箆(へら)で痕をつけ、墨を入れる方法で描かれている。紙面は小さく折り畳まれている。1橋1枚が原則であったと思われるので、架替えた橋の数だけ絵図も作られたと思われるが、残存絵図は反橋のみで13枚である。13枚すべて10分の1の縮尺で描かれており、担当責任者の棟梁が描いたものと思われる。製作年代は元禄12年(1699)から文政11年(1828)の間である。
錦帯橋は、数百年間、同じ技術で架け続けられてきた歴史をもち、また、特殊な構造の木造橋は世界的にも希有である。橋の創建・維持・管理に岩国藩が全面的に関わってきた歴史がそうした状況を作りだした背景となっているが、この資料の存在が錦帯橋そのものの文化財的価値を非常に高めているといえる。架替ごとに作られる絵図面そのものが技術の伝承の役割も果たしており、長い間、架け伝えられてきた技術の証明であり、貴重でもある。
吉香神社の棟札のうち、明治18年(1885)のもの2枚、大正2年(1913)のもの1枚ものである。吉香神社は、岩国藩主吉川氏歴代の神霊を祀っている神社で重要文化財に指定されている吉香神社の建物群や付(つけたり)の棟札とともに、吉香神社自身の歴史や建造物の修理の歴史を知る上で不可欠なものである。特に明治18年の棟札については、明治4年からの吉香神社創建、合祀の経緯、現社殿を遷座した記録としても貴重である。
棟札の寸法は、横14.5㎝、縦137.0㎝、厚さ2.0㎝、材質はヒノキである。棟札の末尾に「文亀三年癸亥四月二十八日 大工 平信家 願主 弘中右衛門尉源弘信 法名源忍同嫡男興輔」とあり、文亀三年(1503)に弘中弘信とその嫡男である興輔が願主となり、社殿を造営した際の棟札である。
棟札には白崎八幡宮の縁起をはじめ、清縄氏、弘中氏に関する歴史資料とともに、当社再建の事情と本社の興隆功徳などの記述もあり、岩国の中世を知るための史料としても重要である。
陸軍元帥長谷川好道の邸宅跡に昭和2年(1926)に建てられた。寄棟造桟瓦葺、桁行24m梁間10m、妻入で正面中央に唐破風造の玄関を付す。外部は下見板張とし、内部は演技場の東面に師範台、南面に観覧席と支度室を下屋で設けている。
この収蔵庫は吉川家の土蔵として明治24年(1891)に建設され、昭和26年(1951)に岩国徴古館とともに吉川報效会から岩国市に寄贈された。木造二階建、切妻造、桟瓦葺で、太い小屋梁など堅固な造りである。建築当初は、吉川家の美術品や資料を収めていたと思われる。石積み三段の背の高い基礎や広い戸前に外観上の特色がある。高い基礎は錦川の氾濫や湿気に備えたもので、内部中央に設けられた幅の広い階段などとともに資料の保管・搬出入などに適した造りとなっている。
徴古館第一収蔵庫及び他の吉川家の土蔵と同一形式であり、吉川家に共通した仕様に基づいて建設されたものであると推測される。
昭和19年(1944)、吉川家の別邸である仙鳥館から移築した土蔵である。木造二階建、切妻造、桟瓦葺で、外壁には漆喰壁上に焼杉板が張られており、石積み三段の背の高い基礎や、西側全面に差し掛けられた広い戸前に外観上の特色がある。高い基礎は錦川の氾濫や湿気に備えたもので、内部中央に設けられた幅の広い階段などとともに、資料の保管・搬出入などに適した造りとなっている。
仙鳥館からの移築のため、軸部、小屋組などに不自然な点もあるが、徴古館第二収蔵庫及び他の吉川家の土蔵と同一形式であり、吉川家に共通した仕様に基づいて建設されたものであると推測される。
小説家宇野千代の生家で、建築時期は明治初期と言われ、木造二階建、平入、入母屋造、桟瓦葺、真壁造で、正面は真壁造であるものの、出格子、軒下の出し桁、猫足の腕木など岩国の町屋に共通した外観となっている。内部は土間の玄関に、時計の間、客間、仏間、鏡の間などと名付けられた和室が配置されている。
明治25年(1892)、千代の父宇野俊次が建物を取得し、昭和49年(1974)、千代によりに損傷の激しかった建物を昔の形で修復された。現在は「NPO法人宇野千代生家」が管理・運営し、公開や展示などを行っている。
昭和4年(1929)4月、岩徳線の一部開通にともない、岩国駅として開業した。昭和17年(1942)に麻里布駅を岩国駅と改称した際に、西岩国駅に改称した。
木造平屋建、寄棟造、桟瓦葺、外壁モルタル仕上げで、正面入口上部に設けられた、アーチ窓と柱形(ピラスター)からなる表現派風の大きな切妻と、錦帯橋をイメージさせる5連アーチの入口車寄に特色がある。
明治25年(1892)、旧岩国藩主吉川経健が建設した吉川邸の長屋門である。桁行30mと長大で、西を正面とし、石積基壇上に建つ。南寄りに門口を構え、外壁漆喰とし、要所に横連子窓を設けている。屋根は寄棟造、桟瓦葺きで、小屋組は一部に変形トラスを用いている。伝統的な形式を保ちながら洋風のデザインを取り入れており、近代の大邸宅の様子を今に伝えている。
國安家住宅は、江戸時代より鬢付油(『梅が香』)を製造販売していた松金屋又三郎によって建てられたものである。客座敷床の間の座板裏面に「嘉永三年庚戌之初秋七月十一日、十世満喬代調之、三代目大工五兵衛作」の墨書銘があり、この頃の建築と伝えられているが、それ以前に遡る可能性もある。建築後、幾度か改造されているが、全体的には旧状をよく保持していると言える。
太い梁を縦横に架け渡した豪壮な構成は岩国城下を代表した町家建築の面影をよくとどめている。
明治18年(1885)、租税検査員派出所として発足した岩国税務署の新庁舎として、横山地区から現地に移築された、木造モルタル塗り総2階建ての庁舎建築。
中央正面に玄関を配置、玄関を中心に左右対称とし、両翼部を薄く張り出して切妻屋根をのせるルネサンス様式的な建築構成が特徴的である。
関東大震災後の大正末から昭和の始めにかけて多く建設された、人造石やモルタルで外装された洋風建築で、県内に現存する戦前の税務署建築の唯一のものといわれる。
設計監督は税務監督局技手田中俊郎、当時の官庁営繕組織設計による地方公共建築の一端を窺い知ることができる。
旧岩国藩主吉川家の新邸が完成するまでの間利用していた仮住居であり、井上馨や皇室関係者を迎えたこともある由緒ある建物である。
明治19年に建設され、明治21年吉川邸完成後は吉川家の接客所としての役割を担った。
昭和25年頃に岩国市の所有となり、現在は貸室や集会所などとして活用されている。
1階は15畳の座敷2室と畳敷の縁が廻り、2階は30畳の大広間に板敷の縁を廻らせて、座敷を中心とした構成をとっている。北に正面を向け、城山や現在、錦川の土手で隠れて見えない錦帯橋も河原の向こうに見渡すことのできた風流な邸宅である。
明治18年9月9日、旧岩国藩主吉川家歴代の神霊を祭る吉香神社の絵馬堂として建築されたもので、桁行5間、梁間3間の入母屋造の楼閣風建築である。同地には元々、3階建ての南矢倉が建っていた。
階下の外観は外周腰部までを板壁、中間部を吹き放し、上部は漆喰壁仕上げとし、階上は四囲に高欄付きの縁側を巡らせている。
階下の内部は全面土間で、絵馬を懸けるために天井が高く、絵馬を鑑賞するための腰掛縁が設けられており、階上の床は全面板張りとなっている。
旧岩国藩主吉川家が寄附した美術工芸品や歴史資料を展示・保管するため、財団法人吉川報效会により建設され、昭和20年3月に竣工した。設計は早稲田大学教授で岩国中学校出身の佐藤武夫が実施した。
煉瓦造2階建で、ドイツ古典主義の影響がみられる意匠は、低く抑えた外観、正面の角柱の列柱、内部の裾広がりの柱に特徴がある。
今から約2億130万年前から約1億4550万年前に形成された地層にある石灰岩によって形成された洞窟で、奥行13m、幅約2mから5m、高さ約11mの規模で比較的小さなものであるが、鍾乳石や石筍が良く発達している。
また、洞内には木造の観音像に炭酸カルシウムを多く含む水滴が滴下し木仏が石仏と化したと伝えられる仏像が安置されている。伝承では弘法大師の作と言われ、近世には萩藩主第二代毛利綱広が観音像の存在を知り、根笠山ノ内にあった受恩庵を洞窟のそばに移し、岩屋山護聖寺と命名した以降、多くの参詣者で賑わったという。
範囲としては観音窟とその周囲1,034㎡が指定されている。
カジカガエルは、本州・四国・九州に生息するアオガエル科のカエルである。体色は濃いこげ茶色で、雌は雄に比べるとかなり大きく、体長は雄3.5~4cm、雌5~7cmである。前足には4指があり、吸盤をもつが、水かきはほとんど認められない。後足は長く、跳躍力に優れている。
カジカガエルは河原の石の間やコケのはえた岩の上などで生活し、5月上旬から7月下旬にかけての繁殖期には石の上でさわやかな鳴き声を発し、6月下旬から7月下旬にかけて、よどみの石の間や草の根などに寒天質におおわれた卵塊を産み落とす。
そして、国指定のカジカガエル生息地としては当地と岡山県真庭市の「湯原のカジカガエル生息地」の2ヶ所のみである。また、指定範囲としては錦川中流にかかる高野橋(たかのばし)の上流約900mから下流1,944mの範囲となっている。
天然記念物「岩国のシロヘビ」は、岩国市の限られた地域にだけ生息している世界的にも珍しいヘビである。ヘビの白色変種が安定した遺伝形質を維持して特定の地域に集中的に生息している例は、世界的にみても他に例のないもので、学術的にも極めて貴重な存在である。
元々は大正13年(1924)12月、岩国市を縦走する錦川をはさんだ今津、麻里布地区と川下地区が「白ヘビ生息地」として天然記念物に指定されたが、昭和47年(1972)8月「岩国のシロヘビ」へと指定替えされた。
しかし、近年生息地域の都市化が進み、餌となるネズミ等の動物相も変化するなど環境の変化により、その生息数は減少しつつある。このため岩国市では、一般財団法人岩国白蛇保存会とともに官民一体の保護保存活動を進めている。
古い歴史と美しい環境、珍しい形状と巧みな構造をもつのが錦帯橋の特色である。
背後に連なる城山の緑、その下を流れる錦川の清流、山紫水明の景色が橋と調和して美しい。橋の上下流各60間(108m)の地点から上流350間(637m)下流230間(418m)以内の堤塘敷及び河川敷が名勝錦帯橋として指定されている。
錦帯橋は延宝元年(1673)第三代藩主吉川広嘉によって創建されたが、翌年の延宝2年春に流失。その年のうちに直ちに再建され、以来、276年間秀麗な姿を誇っていたが、昭和25年9月のキジア台風により惜しくも流失した。その後、昭和28年1月再建され、現在の橋は、平成13年度から平成15年度にかけて行われた架替工事によるものである。
橋の長さは、210m、直線で193.3m、幅約5mである。
周東町祖生の中村(8月15日)、山田(8月19日)、落合(8月23日)の3地区で行われる。祖生中村地区にある新宮神社にある「産土社諸控早採略記(うぶすなしゃしょひかえそうさいりゃくき」には、1734年(享保19)に、この行事が行われたという記録があるので、それ以来、伝承されてきたと考えられる。
寄せ太鼓を合図に夜8時頃から開始する。柱松行事は、柱の頂上に、ハギの小枝とキリの葉で編んだ「ハチ(鉢)」と呼ばれる笠を置いて、その上にさした御幣(長旗)をめざしてタイ(松明)を投げ上げて点火を競う。また、同時に豊穣を占う、「年占い」としての性格も有している。