周防祖生の柱松行事

周東町祖生の中村(8月15日)、山田(8月19日)、落合(8月23日)の3地区で行われる。祖生中村地区にある新宮神社にある「産土社諸控早採略記(うぶすなしゃしょひかえそうさいりゃくき」には、1734年(享保19)に、この行事が行われたという記録があるので、それ以来、伝承されてきたと考えられる。

寄せ太鼓を合図に夜8時頃から開始する。柱松行事は、柱の頂上に、ハギの小枝とキリの葉で編んだ「ハチ(鉢)」と呼ばれる笠を置いて、その上にさした御幣(長旗)をめざしてタイ(松明)を投げ上げて点火を競う。また、同時に豊穣を占う、「年占い」としての性格も有している。

銅鐘

総高105.8cm、鐘身高81.0cm、口外径61.0cm、同内径49.2cm。上・下帯とも無文。乳は4段4列に配されている。撞座は撞きくずれてその形状は明らかでない。「周防国玖珂庄新寺 文永九年十一月日 大工依継 願主明真」の銘文があり、鎌倉時代の文永9年(1272)に製作されたものである。

いつの頃からか岩国の永興寺(ようこうじ 吉川家の菩提寺)にあったが、本来、新寺(極楽寺)のものだとして、天和4年(1684)岩国藩主第四代吉川広紀の命により極楽寺に戻されたと伝えられている。

木造不動明王立像

像高91.3cmで、ヒノキ材の寄木造りである。頭部は巻髪で弁髪(べんぱつ)を左肩に垂らす。眼は右眼を大きく開き、左眼を半眼とする天地眼(てんちがん)、牙を上下に出している。右手に宝剣、左手に羂索(けんさく)を持つ。火焔を光背にして岩座の上に立つ。彩色はよく残っている。不動としては姿体がおとなしく、裳の衣紋は浅く流れるようである。制作は平安時代末期と考えられ、不動明王像としては、県下の秀作のひとつといえる。

昭和30年度(1955)に保存修理を実施している。

絹本着色釈迦十六善神像

縦83.8cm、横45.0cm。掛幅装。釈迦如来(しゃかにょらい)を中心に下辺に玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)と深沙大将(じんじゃだいしょう)を配し、左右に善神16尊が立つ。絹地に裏彩色を施した彩色画で、見事な彩色技法と明確な描線で描かれた鎌倉時代末期の制作と推定される優品である。

箱書と寄進状によると岩国藩が高野山より入手して、正徳元年(1711)の再建にあたり寄進した。昭和61年度(1986)に保存修理を行っている。

木造十王坐像

十王(じゅうおう)とは、道教や仏教で、地獄において亡者の審判を行う存在で、秦広王(しんこうおう)・初江王(しょこうおう)・宋帝王(そうていおう)・五官王(ごかんおう)・閻魔王(えんまおう)・変成王(へんじょうおう)・泰山王(たいざんおう)・平等王(びょうどうおう)・都市王(としおう)・五道転輪王(ごどうてんりんおう)の10尊である。

浄円寺の「畧縁起」によれば、江戸時代の初め、寺が陽明庵の古跡に移ってきた時には、「今陽明庵残什物大般若経三箱、十王七躰、其外古仏数多並開山位牌等在之」とあり、十王の内七体が残存していたことがわかる。その後三体が失われ、現在、四体が残っている。

像底の墨書の判読により「広王」は秦広王、「江王」は初江王と見られ、それに都市王を加えて三体は尊名を知ることができるが、他の一体については手首から先を欠失しており、持物の特定もできないので、尊名を類推することはむつかしい。
像はいずれも損傷が著しいが、ヒノキ材の縦一材からの丸彫りとし、内刳りは施さない。素朴な彫法ながら円みをおびる面貌はおだやかで、躰部の張りのある形状もよく、小像ながらまとまりのよい均衡のとれた彫像で、室町時代の特色を見せている。特に初江王の像底に「二乙丑八月」、都市王の像底に「永正二乙丑十月日」の墨書が読みとれ、一連の十王像が永正二年(1505年)の製作であることが認められる。
県下に遺存する十王像で紀年銘のあるものは初見で、十王像の基準作として価値が高く、同時にこの地方の中世信仰史を知る上でも重要である。

木造毘沙門天立像

顔貌が円形で、目鼻立ちの造作が大きく、面奥が深い。素朴な彫法であるが、力強く、その制作年代は鎌倉時代を下らぬものと見られる。
特に躰部・岩座共にノミ痕が歴然と残っていること、そして、背面の裾を彫出せずそのまま岩座に接続する仕方は、仕上げ前の小作の段階でノミを置いていることと考え合わせ、立木仏の可能性を示唆するものがあり注目に値する。

木造地蔵菩薩立像

像高72.0cm。ヒノキ材の1木造りで、頭・躰部・左腕・足柄までを彫出し、右腕は肩から先を別材で組み合わせている。
内刳りは施していない。像容は円頂・彫眼・白毫相(びゃくごうそう)をあらわす(水晶嵌入)。右肩から右袖にかけては後世(江戸時代か)の改変とみられる。
しかし、全体的に地蔵菩薩立像としては古式のもので、制作年代としては鎌倉時代中頃とみられ、貴重である。

木造地蔵菩薩立像板木

縦63.7cm、横30.0㎝、厚さ3.5cmのカヤ材の板の全面に地蔵菩薩の立像を陽刻している。
特に円光の中心に鍚杖の先を置くなど、全体の構図がまことに巧みである。鍚杖の形は鎌倉調で、複雑な衣褶は宋風(中国風)のようであり、全体的に写実的な表現である。
制作時期は鎌倉期を降らないと思われる。

木造智者大師坐像

像は総高46.1cm、ヒノキ材の一本造りで内刳りを施していない。
円頂で法衣の上に袈裟をつけ、袖や裳裾を前方に長く垂らし、曲隶上に安坐する、いわゆる頂相彫刻の形式である。制作時期は鎌倉時代と考えられている。

智者大師は天台宗の開祖である智顗(ちぎ 538-597)のことで、天台大師ともいう。
湖南省南部の華容に生まれ18歳で出家し、諸方で学んだのち、560年、光州の大蘇山で慧思に禅観をうけ、金陵(南京)瓦官寺で法華経や大智度を講じ、禅を教えて陳帝の信任をえたが、575年、浙江省の天台山に籠り、天台教学を確立したとされる。

 

銅造十一面観音坐像

二井寺山極楽寺の本尊を安置する厨子の中に、いっしょに納められているが、その伝来は詳らかでない。
鋳銅製で像高29.6cmと小型の座像である。頭部・躰部・膝前を一鋳とする。
ただし頂上仏面をはじめ頭上面はすべて別鋳して差込みとする。ふくよかな面相の中にも、ひきしまった感じがあり、肩もがっしりと張りがある。
宝髻が高く、裳先が前に流れていること、さらには木型のアリ柄技法などから、その造形は鎌倉時代中期とみられる。

右肩部にかなり大きな亀裂があること、頭上面、光背の欠失など、保存は必ずしも良好とはいえないが、県下における鎌倉時代の鋳造仏の優作として注目すべきものである。

 

木造十一面観音立像

二井寺山極楽寺の本尊である。
像高65.3cm。像容は宝髻上に仏面を、頭上に10面の菩薩面を配したと思われるが、すべて欠失している。
天冠台下の前面の地髪(じはつ)をマバラ彫り(細部を省略して大まかに刻む彫り方)とし、その他を平彫りとする。金銅製の冠飾りを天冠台の前面につける。下ぶくれのふくよかな面相で、眉・目・鼻・口などの造作が比較的大きく、彫法はするどいものがある。
しかし、やや面長で四角ばったところがあり、裳の折返し部や背面の裳の下辺に見られる文文線のあつかいなどから、その造形は南北朝時代と思われる。
一木造りのがっしりとしたボリューム感豊かな像であり、優品である。

木造十一面観音菩薩立像

長宝寺境内にある観音堂の本尊である。徳治2年(1307)に造建した厨子があったが、損壊したので明暦元年(1653)に現在の厨子を再建した。像高79.5cmで、台座を含めての総高は98.7cmである。
像容は髻頂に仏面(欠失)、天冠台上に一列に十一面(二面欠失)をのせる。天冠台下前面の地髪(じはつ)はマバラ彫り(細部を省略して大まかに刻む彫り方)となっている。低目の垂髻、豊かで円満な相好、特に横に切れ長な眼、小鼻の張った高めの鼻、めくれるような口辺部の彫法、彫りの浅い流麗な衣文線など、いずれも平安時代の特徴をよく示している。

ヒノキ材の三重の蓮華座、同じくヒノキ材の舟光背(いわゆる板光背)も当初のものをよく遺しており貴重である。

絹本着色光明曼荼羅

縦85.0cm、横36.0cmの比較的小さい掛幅である。
上部に光明真言二十三字を金泥でそれぞれ小円の中に書き、これを右から円形に並べた、いわゆる字輪の内部に、智拳印(ちけんいん)を結ぶ金剛界(こんごうかい)の大日如来の坐像を描き、中央に開敷蓮華(かいしきれんげ)の華台に定印を結ぶ胎蔵界(たいぞうかい)の大日如来の坐像をあらわし、八葉の蓮弁に、上部から向かって右廻りに宝幢如来(ほうどうにょらい)・普賢菩薩(ふげんぼさつ)・開敷華王如来(かいしきかおうにょらい)・文殊菩薩・無量寿如来(むりょうじゅにょらい)・観世音菩薩・天鼓電音如来・弥勒菩薩の八尊を配した、胎蔵界曼荼羅の中台八葉院を描き、さらに下部に蓮台を描いている。
幅の裏面に光明曼荼羅の墨書があるが、その図柄推して光明真言曼荼羅と、金剛界・胎蔵界曼荼羅とを合体したものと見られる。
光明真言曼荼羅は光明真言破地獄曼荼羅とも称し、光明真言二十三字を右から円形に書いた字論をいう。これはこの真言の一つ一つの字から放つところの光明が遍く衆生界を照らして無明煩悩の暗黒を破るという意味があり、字論から四方に放射線状に細い線を無数に墨書しているのは、これを表すものと思われる。細めの絹に金泥彩の極彩色で描いている。
下方の蓮台、殊にその蓮弁の描法等から、制作の時代は江戸初期ごろのものと見られるが、筆致はまことに精緻である。

本幅は先にも述べたように、おそらく光明真言に金・胎両部曼荼羅の中尊をいれて両界の意味を持たしたもので、光明真言両界曼荼羅とでも呼ぶべきものと考えられ、珍しいものである。

松林山受光寺鐘楼門

門の形式は三間一戸楼門(上階 桁行三間、梁行二間)、入母屋造、本瓦葺である。細部では次のような二つの特色がある。
一つ目は、上階の西より2本目の柱上に前後(南・北側)とも台輪状長押(ながおし)が頭貫のようにくい込む。
二つ目は、下階の中央間が西側に片寄るため、西側柱間が東側柱間より小さい。

部材は、東北隅の柱のみケヤキ材で、他の柱はスギ材を使用している。
建立年代は、記録によると元禄2年(1689)で、享保21年(1736)、享和2年(1802)、昭和49年(1974)と三度の修理履歴がある。
17世紀代の楼門建築は類例が少なく、貴重である。

鮎原剣神社社叢

鮎原剣神社の社殿に向かって登る石段の両側と、東斜面に広がるシイノキを優先種とする、うっそうとした森林が本件の社叢である。
森林内の一部を方形調査によって示すと、高木層においては林冠の占有面積はシイノキが全体の75%以上を占め、タブノキ・ヤブツバキ・クロキが小面積を覆う。
亜高木層ではヤブツバキ・ヤブニッケイが小面積を覆う。低木層はよく発達し、シイノキが75%以上の面積を、ネズミモチ・アリドウシが25%から50%の面積を占め、そのほかにアラカシ・クロキ・シイモチ・サカキ・ナンテン・アオキが見られる。草本層(林床)はテイカカズラが最も多く、そのほかに、ヤブコウジ・ヤブラン・ベニシダ・イタビカズラ・マンリョウ(幼苗)・シイノキ(幼苗)などが見られる。

以上に代表されるように、この社叢は、植物社会学上の典型的なスダジイ-ヤブコウジ群集ということができる。また、この社叢には、目通り周囲3mのコジイ、樹幹下部の周囲3mのアラカシ、その他タブノキなどの巨樹も見られる。
スダジイ-ヤブコウジ群集は、暖帯の極相の典型で、特にこの社叢では下層にシイノキを多生して、次代の優占種が用意されている模式的な群落として貴重である。
外観上これに似たシイ群落が神社に残存している例は時に見られるが、多くは林内に多少の人手が加わり、典型群落の種組成とは異なる場合が多いだけにこの社叢は貴重である。

河内神社社叢

社殿を囲む境内林は、植栽のスギの老木が多く、最大のものは目通り5.6mもある。
林中には、ツクバネガシの大樹を交えて、サカキ、クロキ、アカガシ、ウラジロガシが亜高木層を形成し、低木層にはヤブツバキ、ネズミモチ、モチノキ、ヒサカキ、ハイノキ、ソヨゴなどが見られ、林床にはヤブコウジ、ナガバジャノヒゲ、ベニシダなどがある。
この社叢の特徴は、前記の目通り5.6mにも及ぶ老杉に代表される多数のスギの大樹と、その林中に長年月かけて成立したツクバネガシを主とする常緑広葉樹林にある。
常緑広葉樹林は、この地域の極盛群落の一端を示すもので、鮎原剣神社に見られるシイ群落と対比して学術上の意義が高い。

通化寺庭園

黄檗宗通化寺は、寺伝によると大同2年(807)弘法大師が唐からの帰途創建したと伝えられている。

庭園は本堂の北側にあり、庭園の作庭時期を示す記録は無いが、寺伝によると雪舟作と伝わっている。

庭園は裏山の山裾を取り入れ、手前に池泉を作り大黒山を借景とした池泉観賞様式庭園である。築山を構成する石組の大半は裏山に露出している奇岩巨石大小さまざまの自然右をそのまま利用したり、一部人工を加えて修景したりしている。石組の多くは、露出する自然石そのままの状態を生かした形での石組構成や築山構成といえる。

このように山裾を利用して築山とし、自然石を生かした庭園は自然風でスケールの大きな庭作であり、重要である。

北方古墳

この古墳は、昭和34年(1959)3月、北方在住の河付和人氏による巨石(古墳の天井石)の発見が端緒となり、文化財保護委員会の許可を得て、山口大学小野忠熙(おのただひろ)教授の指導のもと、山口大学学生、地元関係者、土地所有者(杉本法彦氏)の献身的奉仕と協力によって発掘された。

全長7.5mの横穴式石室をもつ古墳で、古墳時代後期(6世紀頃)の玖西盆地を支配した豪族の墳墓と推定される。副葬品として、鉄製の武器・馬具・工具・装身具・須恵器が出土した。

井上豊後守就正墓

墓は大歳原の丘陵地上に立地する。
凝灰岩製の宝筐印塔で、総高158cm、基礎の正面中央に「前豊州齢岳宗松居士」、向かって右に「于時慶長十七年」、左に「壬子十二月十一日」と陰刻している。天野隆重・元嘉の墓と同様、近世初期様式の典型的な宝筐印塔である。

天野元嘉墓 付 天野元嘉夫人墓

天野元嘉は天野隆重の五男である。
隆重の没後、その跡を元嘉が継ぎ、関ヶ原の戦いの後、吉川広家の組下として毛利輝元から椙杜900石(のち500石)の地を宛がわれ、久田に移り住んだ。慶長17年(1612)11月20日没。墓は通化寺の境内地にあり、元嘉夫人の墓も並んで建っている。凝灰岩(俗に平野石)製の宝筐印塔で、基台・基礎・塔身・笠・相輪(露盤・請花・宝珠)と積み上げているが、ずんぐりとした相輪、隅飾りが外に張り出し軒の厚い笠、基礎の銘文の刻みよう、線彫りの丈長の反花を配する基台など、近世初期の特色をよく示している。

また、基礎の正面に次の陰刻がある。元嘉墓(総高177.4cm)は中央に「大円宗覚居士」、右に「于時慶長十七壬子季」、左に「十一月念日」と刻まれており、元嘉夫人墓は中央に「寂孤円原珠大姉」、中央下に「需覚生」、右に「慶長十年己巳」、左に「十月十四日」と刻まれている。