宇佐八幡宮のスギ巨樹群

宇佐八幡宮の境内社叢には、スギの大樹が多く、一部ヒノキを交える。目の高さの幹周り2m以上のスギ20本と、それには及ばないが伸び盛りの木を多数交えて社叢が営まれている。

社殿に向かって左前方の通称大杉と呼ばれるスギは、目の高さの幹周り7.5m、高さ58mにも及び、県下有数のスギの巨木である。また、社殿への階段近くにはヒノキの大樹があり、目の高さの幹周り3.85mで、ヒノキとしては長門市油谷の「八幡人丸神社御旅所のヒノキ巨樹」(県指定)の4.7mに次ぐもので、樹高ではこれよりも高い。

正和元年(1312)に八幡宮が現在地に建てられた当時から、スギがあったとされ、その後も、社叢は神域として大切に保護され、現在に至っている。

大原のシャクナゲ群生地

シャクナゲの種類としてはホンシャクナゲで、ツツジ科の常緑低木。群生地は、錦町大原、広島との県境にある羅漢山の北側山腹(標高約600m)にあり、主として山腹上部のくぼ地から尾根筋にかけて群生する。群生地は20haの広い範囲に及び、自然状態がよく保たれている。ホンシャクナゲの中には、直径約10cmの老木も多数見られる。

ホンシャクナゲは、本州中部以西及び四国の低山帯に分布する。高さは4mに達しよく枝分かれする。四~五月にうす紅色または赤紫色の花をつける。

寂地峡

山口県下では最高峰の寂地山(1337m)に源を発する宇佐川の上流に、18からなる滝をもった犬戻峡と呼ぶ峡谷があり、約3.5キロメートルにわたっている。また、同じく寂地山系に源をもつ龍ヶ岳峡と呼ぶ峡谷があって約1キロメートルにわたっている。寂地峡はこの両峡谷を総称するものである。この一帯は中世代に貫入した花崗岩類からなるが、これを切る宇佐川は大小様々な深い淵や滝、節理上に直立する断崖絶壁など特異な景観を展開している。また、渓流と岩壁が樹木の美しさとあいまって幽遠境を形成している。

般若心経並びに神馬図板木

縦26.7~27.6㎝、横46.7㎝、厚さ1.6~1.7㎝。両面ともに版面となっており、表面に般若心経が18行、裏面には神馬図が彫られている。表面の右側に「明応八年己未七月吉日」、左側に「積善院常住」の文字が刻まれている。

禅寺で祈祷や盂蘭盆会などの際に般若心経と馬の図を摺った紙を「紙銭」とともに仏殿の柱に貼って鬼神に施す、「経馬」または「馬経」と呼ばれる行事に使用されたものと思われる。この行事は現在も京都府など一部の禅寺で行われているということであるが、板木そのものの遺存例はないようである。

版木の紀年銘である明応8年(1499)であり、同じ15世紀末の版木は、山口県内ではこれを含めて3例しかなく、大変貴重な資料である。

宇佐の鉄燈籠

永享9年(1437)に造られた山口県最古の鉄燈篭で、笠・火袋・中台・基礎の四つの部分が現存し、宝珠と竿は欠失している。寛延3年(1750)に萩藩に提出された「八幡宮由来書」によると「永享九丁巳八月吉日山代庄宇佐村長兼大工藤原朝臣安信」の銘文があり、欠失している竿の部分に銘文があったと推測される。

この鉄燈篭は弘化年間(1844-1848)に宇佐八幡宮の社殿を再建した際に出土したもので、地震等により地中に埋没した際に部材が欠失したものと考えられる。

基礎に見られる花文(かもん)や高肉彫り(たかにくぼり)の獅子などは技工的に優れており、金工資料としても重要である。

向畑の左近桜

樹高19.5m、根本周囲5.8m、枝張り26.5mのサクラで、平家の落人で向畑の集落を開いたとされる広実左近頭にちなんで名付けられたという。

品種はエドヒガンである。伝承では樹齢700年以上となっている。

大原明神社の大スギ

明神社の本殿裏に生える胸高周囲6m、樹高26m、幹は三本に分かれたスギの大樹である。樹齢は推定で300年以上。

明神社は治承4年(1180)11月8日厳島神社の沖合より車輪のような龍灯が飛んできてこの地に落ちたと『防長風土注進案』で伝えられている。

宇佐玉蔵寺のコウヤマキ

根本周囲4.27m、胸高周囲3.25m、樹高21mの大樹である。コウヤマキは我が国特産の常緑高木で紀伊半島以南に自生しているが、庭園にも多く栽培されている。

この木は植えられたものと思われる。樹齢は推定で200年以上である。

向畑のカツラの木

根本周囲8m、樹高32m、枝張り20m、幹10本の巨樹である。カツラ科の落葉高木で、秋に黄色く色づいた葉は山で目立つ。

樹皮は灰褐色で、葉は対生、雌雄異株で4~5月葉の出る前にがくも花弁もない花が咲く。

木谷の宮モミジ

紅葉の名所である木谷峡のモミジのなかでひと際大きいもので香椎神社の御神木ともなっている。

樹高15.5m、胸高周囲2.1m根本周囲5.0m。『山口県植物誌』によるとモミジの種はハウチワカエデである。

権現山巨樹群

旧錦町で最古の神社と伝えられている白山神社の社叢で、権現山と呼ばれる広瀬盆地を一望できる場所で群生する。

胸高周囲5m、樹高31mのイチイガシをはじめ、クロガネモチ、ツクバネガシ、アカガシなどの巨樹がある。

寂地の満州菩提樹群生地

満州菩提樹は朝鮮半島や中国東北部で生育するシナノキ科の植物で、高さ14m、径70㎝にも達する落葉高木である。

この群生地は今のところ日本列島において唯一の自生地といわれている。朝鮮半島・旧満州から飛んでこの地に遠隔分布をすることは日本列島が大陸と陸続きであった寒冷期時代の遺存と考えられ、植物分布上注目すべきものである。

上須川河内神社の大杉

上須川河内神社は『防長寺社由来』によると永保2年(1082)讃井清原兼道(さぬいが河内国大懸郡(大県郡の誤記か、大県郡は現在の大阪府八尾市、柏原市)より勧請したと伝えられている。境内の大杉は通称「おきぬ様」と呼ばれており、御神木として祀られている。樹齢300年以上。胸高周囲5.5m、樹高65mである。

 

渡辺飛騨守宝篋印塔及び関係宝篋印塔

渡辺飛騨守は本名を渡辺長(わたなべはじめ)といい、毛利元就、輝元に仕えた武将である。天文24年(1555)の厳島合戦のほか、永禄4年(1561)の第四次門司城の戦いなどに従軍し活躍した。慶長5年(1600)の関ケ原の戦いのあと、周防国に移り、広瀬村、湯野村(現 周南市)、高泊村(現 山陽小野田市)で計2923石4斗の地を与えられ、広瀬村の朝霞城(あさがすみじょう)を居城とした。慶長17年(1612)2月24日死去、79歳。妻は元和元年(1615)死去。長子は元(もと)で五郎右衛門と称していたが、後に土佐守を賜った。元和4年(1618)7月12日死亡。67歳。

宝篋印塔は渡辺飛騨守(長)と夫人、子の元の3基である。

早尾坂漆ヶ坪一里塚

一里塚は、旅人の目印として街道の側に1里(約3.927㎞)毎に設置した塚である。この一里塚は山代街道沿いに設置されたものの一つである。山代街道は萩から安芸国(広島県)に接する秋掛村亀尾川をつなぐ江戸時代の街道であった。

一里塚は盛土とした塚の周囲に自然石を積み上げ貼石としたもので、上部には樹木が宇植えられていたとされる。製作年代は、寛永18年(1641)とみられる。

上沼田神楽

起源は、享保2年(1717)以前と伝えられているが詳細は不明である。途中、広島県の湯来(広島市佐伯区湯来町)から来た石工職人から新しい神楽を伝えられ、現在に至る。基本的な舞は出雲系である。

神楽の演目は「天神地祇」(てんしんちぎ)、「火の神」(ひのかみ)、「大国主神」(おおくにぬしのかみ)、「事代主神」(ことしろぬしのかみ)、「芝鬼人」(しばきじん)、「薙刀舞」(なぎなたのまい)、「五郎王子」(ごろうのおうじ)、「黄泉醜女」(よもつしこめ)、「天の斑駒」(あまのぶちこま)、「天孫降臨」(てんそんこうりん)、「八岐の大蛇」(やまたのおろち)の十二の舞がある。

向峠神楽

この神楽の起源は安政年間(1854~1859)と伝えられ、天保の大飢饉を憂えていた時の庄屋山田利左衛門が、十数年にわたる水路工事を完成させた記念に神楽を習得させ、地区の若者に教えて秋祭りに奉納したのが始まりとされる。大正時代には石見神楽を取り入れ現在に至っている。

神楽の演目は「潮祓」(しほはらい)、「真榊」(まさかき)、「塵倫」(じんりん)、「八幡」(はちまん)、「猿」(さる)、「熊襲」(くまそ)、「天神」(てんじん)、「黒塚」(くろづか)、「鐘馗」(しょうき)、「岩戸」(いわと)、「大江山」(おおえやま)、「八岐の大蛇」(やまたのおろち)、「貴船」(きふね)、「女神」(じゅうら)の十四の舞がある。

府谷三本松治水功績碑

この功績碑は弘化2年(1845)に山代(芸州)街道(萩~亀尾川)の府谷村内の改修および、水路の敷設、新田の開墾を庄屋森田杢左衛門(もりたもくざえもん)以下村民の努力で完成した功績を称えるため、時の藩主毛利敬親(もうりたかちか)が学者近藤芳樹(こんどうよしき)に命じて書かせた碑文である。

宇佐八幡宮の棟札

宇佐八幡宮の棟札は、天文十二年御神体彩色御縁起棟札(1543)、天文二十二年八幡宮御再建棟札(1553)、宝暦二年御再建棟札(1752)、安永二年御再建棟札(1773)、万延元年正遷宮棟札(1860)の五枚が現存する。その記述内容は宇佐八幡宮に係る縁起や状況・関係役人・関係者等が記載されており当時の状況を知ることができる貴重な資料である。

 

出師の檄及び長州征伐の記録

出師の檄は慶応2年(1866)の幕府軍による長州征伐に備え、当時長州軍が他の藩に進出した際、これを各所に掲げその領地の住民に「この度の長州藩出兵の意図を釈明して協力を求めるため」の高札で、縦88㎝、横120㎝の一枚板でつくられている。

当時、山代口の本陣であった大原の讃井家で発見されたもので、藩の出兵の意義と民衆への治安宣撫を忘れない周到な配慮をうかがうことのできる貴重な資料である。

長州征伐の記録は「防長運話(ぼうちょううんわ)」と呼ばれるもので、讃井家十六代当主、知喬(ともたか)の命により、隅昌武(すみまさたけ)の書いたものである。当時長州藩は挙藩一致総ぐるみで郷土死守の決意を固めたもので、当時の国内外の動きや、これに対処する防長士民の熱意をうかがうことのできる貴重な資料である。特に山代大原口の陣容、猟銃隊結成状況、応援隊の状況、芸州口の戦闘状況、偕行団との紛争事件などを記録している。