絹本着色十六善神像

箱書きによれば、室町時代の文安5年(1448)、福王寺(ふくおうじ)住持が願主となって制作されたことが確認できる。
仏像を始め絵画全般に至る精緻な描写、鋭い筆法、岩、土波の筆運びなどに時代相応のものが認められる。

絵本体の寸法は、縦119.5cm、幅55.4cmで、絹の布地の中央に釈迦如来、左右に文殊菩薩と普賢菩薩、その両側に玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)や深沙大将(じんじゃだいしょう)を含む九尊が極彩色で描かれている。

過去に享和2年(1802)、表装の修理が行われているが、近年、全体的に横折れが多く、絵本体の傷みが激しくなってきていたので、平成5年度(1993)に546年ぶりの全面修復を実施した。

速田神社本殿

明治41年(1908)に、現在地に遷座した際に、この本殿も移築されており、大正13年(1924)に銅板葺に改められている。

江戸時代の伝統的な、三間社流造りの手法によって建立され、よく時代の特色が残されている。流造とは前面の屋根が前に大きく張り出した様式で、その屋根を支えるために柱の数が4本で柱間が3つになるものが三間社流造である。

生見八幡宮本殿

文化10年(1813)に大雨による社殿大破のため改築されたもので、伝統的な木造の三間社流造(さんげんしゃながれづくり)の建物である。流造とは前面の屋根が前に大きく張り出した様式で、その屋根を支えるために柱の数が4本で柱間が3つになるものが三間社流造である。

改築後は建物本体の一部、屋根裏の補修が行われたのみで当時の特色を残したまま保存されている。

弥栄峡

広島県と山口県の境界線になっている小瀬川の上流にあり、奇岩怪岩に富み、急流と深い淵がその間を縫っている風光明媚な峡谷である。

岩質は黒雲母花崗岩で、その節理の美しさ、風化浸蝕による形態が景勝を成している。弥栄ダムの完成により、指定地域の河川部分を主とする、約三分の一は水没し、帯岩、かんす岩、石小屋などの奇岩名石は見ることが出来なくなったが上流部分の亀岩、屏風岩、甌穴現象などは残存している。

中ノ川山一里塚

この一里塚は、藩政初期、萩城下唐樋札場(からひさつば)を基点として防長両国内の主要街道に一里おきに築造されたうちの一つで、安芸境秋掛村亀尾川(美和町秋掛)に通じる山代街道沿いに設置された25基の一里塚の内の一つに当たる。

萩から数えて24番目、安芸国境からは2番目のもので、塚木には「萩松本より弐拾三里 安芸境亀尾川より壱里十六丁」と記されていた。自然石を積み上げた角の丸い四角形をなしており、上部はほぼ平らである。正面右側の石組みが一部崩れているが、全体としてよく原形をとどめている。

設置時期については、『防長風土注進案』(ぼうちょうふうどちゅうしんあん)には、江戸時代の正保2年(1645)、幕府の命により萩藩が、正保国絵図を作成した際、萩藩士の三輪伊兵衛が秋掛村亀尾川を訪れ、安芸国夷ヶ垰(えびすがとうげ)からの間数を調べて一里塚を築いたとする記述があり、17世紀中頃には築かれたものと考えられる。

山代白羽神楽

山代神楽は、岩国市北部の山代地方に古くから伝わる神楽の総称である。

山代白羽神楽は、二ツ野地区(岩国市美和町)で古くから伝承されたもので、主に集落の中心にある白羽神社の秋の祭典(毎年11月2日)などで奉納されてきた。

創始の時期について正確なことは明らかになってはいないが、寛政6年(1794)の善秀寺年代記(ぜんしゅうじねんだいき)や、安政5年(1858)3月に行われた生見八幡宮御鎮座千年祭の記録から、江戸時代中期にはすでに舞われていたと記されている。また、江戸時代に相次いだ飢饉や疫病の流行に悩まされた農民が、五穀豊穣と悪疫退散の祈願をこめた神事として始めたものである、とも伝えられている。

山代白羽神楽は、12演目で構成されていた神事舞であったと伝えられている。しかし、天保10年(1839)白羽神社社殿改築の際の落成興行に招いた芸州佐伯郡明石村(現在の広島県廿日市市)の神楽から鑑賞的な舞を取り入れ24演目に改められ、その後、大正時代に大江山(おおえやま)という演目が追加されるなどの変遷を経て、現在では主に禊神楽(みそぎかぐら)、一人神楽(ひとりかぐら)、湯立神楽(ゆたてかぐら)、猿田彦(さるたひこ)、諸神(しょしん)、恵比寿(えびす)、小太刀(こだち)、芝鬼人(しばきじん)、三鬼(さんき)、天の岩戸(あまのいわと)、大江山(おおえやま)、八岐乃遠呂智(やまたのおろち)、天大将軍(てんだいしょうぐん)の13演目が舞われている。

旧栄福寺大般若経六百帖付唐櫃三合

折本装。全600帖を唐櫃(からびつ)3合に納める。巻第82に養和元年(1181)8月8日の朱筆校合奥書があり、書写年代が平安時代まで遡る県下最古の大般若経の遺例として貴重である。

書写ならびに伝来の経緯は定かではないが、寺伝によれば、もと美和町内の仏寺に伝世していたものが、慶安年中(1648~1651)に栄福寺に納められた。その後、盛久寺を経て、現在、栄福寺の古跡とみられる中村地区の観音堂(生見中村観音堂)に安置されている。

なお、全600帖のうち、第1帖、第301帖、第600帖の3帖だけが別に1帙(ちつ=厚紙を芯にして,丈夫な布や紙を貼りつけたもの)に納められており、昔から大事なものと言い継がれているが、別置の時期や理由については伝わっていない。ただ、この3帖及び帙にはそれぞれ修理記事があることが理由の1つとして考えられる。

全600帖が完存し、保存状態も良好で、毎年旧暦7月1日には地区住民により転読されている。(生見中村ねんぶつ行事)

生見の鉄燈籠

この鉄燈籠は室町時代の天文15年(1546)8月に玖珂郡山代庄生見の豪族中村安堅が安芸廿日市の鋳物師綱家に鋳造させ、先祖菩提のために設立したものである。

宝珠、傘の降り棟先端の突起、火袋(ひぶくろ)の連子(れんし)、中台勾欄(ちゅうだいこうらん)の擬宝珠(ぎぼし)柱、中台と基礎の蓮弁文、基礎の下框座(かきょうざ)に鋳造年代、鋳工の明らかな鉄造燈籠として貴重である。

元々は、生見の観音堂に存置されていたが、錆による破損が激しかったので、平成4年(1992)度に保存修理を実施し、現在は美和歴史民俗資料館に展示している。

高森城址

高森城は『防長風土注進案』(ぼうちょうふうどちゅうしんあん)によれば、宝徳元年(1449)ごろ大内氏家臣・岐志四郎左衛門通明(きししろうざえもんみちあき)により築城された。

城は大内氏が安芸へ向かう際の戦略上の拠点となっており、大内氏の滅亡後、周防を支配した毛利氏は高森城に坂新五左衛門(さかしんござえもん)を入れ、山代地方の平定にあたらせた。

城址には、本丸・二の丸・三の丸・郭・付郭・武者走り・空堀・見張り台・出丸の施設が残る。また、南側急崖に造成された四段の郭群は築城当時のものでなく、大内義長の時期か、毛利氏の周防支配の時期(16世紀中頃)に造成されたとみられる。

 

芥川龍之介父系菩提寺(芥川龍之介父子碑)

芥川龍之介の実父、新原敏三は美和町生見の出身であり、真教寺は龍之介父系の菩提寺である。

明治の初め敏三は上京しやがて元幕臣芥川家の三女フクと結婚し三子を得た。
末子である新原龍之助は幼いころ母死亡の為芥川家で養育され、13才の時、芥川家の養子となり芥川龍之介となった。成長し東大卒業後海軍機関学校教官となり、航海見学で由宇まで来航し、帰途錦帯橋見学の為岩国へ来ている。
橋上から山々を望見し岩国の奥と聞いていた父の故郷を心中に銘記したと推察される。

航海見学の為延期されていた「羅生門出版記念会」が龍之介帰京の直後日本橋の「鴻の巣」で開催された。
これは錦帯橋見学の僅か2日か3日後の事である。当日依頼され揮毫したのが「本是山中人」で、龍之介が岩国での記憶を深く心に秘めて書いた望郷の一文である。
文意は誰にも解明されず謎とされていた。

真意は龍之介の没後、約30年後、芥川の番記者であった沖本常吉の研究と、佐藤春夫によって、文の「山中」は敏三の故郷である生見村であると明らかにされた。

昭和六十二年に建立の当碑は、龍之介の深い思いの本碑の碑文と遺族の願い。真筆による作品と署名の副碑があり、芥川文学碑のなかでも重要なものである。

処刑場跡

当所は江戸時代の山代街道沿いにあり、当時の秋掛村と本郷村の境である引地峠におかれていた。
昭和初期まで、処刑される人々がつながれたという松の大木があったとされ、また刑に用いられた刀を洗ったと伝えられる池の跡も近くに残っている。

 

当村餓死人三百人之墓 付 三百四人過去帳

享保17年(1732)、蝗害による飢饉で、秋ごろから翌年夏ごろにかけ、下畑村(現下畑小学校区)では304人の餓死者がでた。
享保17年当時の人口は不明であるが、下畑村では2割から3割程度が餓死したと思われる。このとき、山代33村で34,716人、全国では約260万人が餓死したという。

生きのこった村人たちは、この供養塔を建て餓死者の追弔を行った。ここにある五輪石などは、きちんとした弔いもできず家の近くに葬り、形ばかりの墓石として置いていたのを持ち寄ったものと伝えられている。

生見中村ねんぶつ行事

この行事は毎年旧暦7月1日に生見中村観音堂で行われる行事で、地区の住民からは「ねんぶつ」と呼ばれる行事である。
概要を簡単に説明すると、まず観音堂に納められている大般若経全600帖(県指定文化財)を地区住民によって転読し、その後大きな数珠を車座で繰っていく行事である。

ただ、この行事に関する過去の記録は知られておらず、往古の状況はもとより、往古の状況がどこまで現在に伝わっているかも確認できない。

行事の流れは、午後4時頃、地元中村地区の人たちが観音堂に集まりはじめ参加者が集まったころを見計らって、世話役がお堂の仏壇下に納められている計3合の唐櫃を1合(20帙入り)ずつ取り出すと、10名余の参加者は早速転読に取りかかる。この際題目などは読まれない。誰がどの帖をめくるかも決まっていない。

唐櫃一合分が終わると、次も同じように行われる。

600帖すべての転読が終了すると、次は大きな数珠が取り出され、10名余の参加者全員が車座になって数珠をもち、ねんぶつを唱えながら繰り始める。ある程度回すと、今度は逆方向に繰る。数珠の珠数は201個でそのうち1個が大きい。この大きい珠が自分の所に来たら、数珠を頭上に持ち上げる。

なお、お堂を飾る特別な幕などはなく、僧侶による読経や釈迦十六善神像の画を掲げることもない。

中村地区の住民は、この「転読」と「数珠繰り」の両者をひっくるめて「ねんぶつ」と呼んでおり、これに参加すると夏病みを防げると言い伝えられている。

釜ヶ原神楽

釜ヶ原地区は美和町北東部の広島県境沿いに位置しており、釜ヶ原と大三郎の二つの集落から構成される地区である。
両集落にそれぞれ河内神社があり、秋の大祭(10月9日夜)には、毎年交互に奉納舞が行われ、どちらも6年ごとの年祭には「大将軍」が舞われる。

現在、伝承されている釜ヶ原神楽の原形は、明治末期から大正にかけて旧本郷村から伝わったとされているが、それ以前から何らかの神舞(かんまい)が存在していたようである。

一時、停滞期があったが昭和45年(1970)ごろ、青壮年十数人が健在だった数人の長老の指導を頼りに、村おこしの一環として神楽保存会を結成した。
当時保存会は、衣裳を購入する費用などを捻出するために「持ち株組織」で運営されており、株を持った者以外は神楽を舞うことはできなかった。
しかしその後、地域全体で神楽を保存していこうという気運が高まり、「持ち株組織」を廃止して全戸に呼びかけを行い、現在の「釜ヶ原神楽団」の基盤が確立された。

釜ヶ原神楽の舞の特色は、楽士の笛や太鼓のリズムが「八調子」とよばれる速いテンポであることが特徴であり、おもな演目は湯立て(ゆたて)・すすはき・七五三(しめぐち)・柴鬼神(しばきじん)・三刀(さんとう)・さすい・恵比寿(えびす)・三鬼(さんき)・姫取り・金時・五郎納寿(ごろうのうじゅ)・天岩戸(あまのいわと)・御神楽(おかぐら)・大江山・八岐大蛇(やまたのおろち)・大将軍(だいしょうぐん)である。

八幡宮御縁起三巻

この御縁紀三巻は宝永2年(1705)の秋、佐伯通次(さえきみちつぐ)、広兼時義(ひろかねときよし)其外氏子中が願主となって、本郷村三所大明神神主西村将監尚古(にしむらしょうげんなおふる)が記したもので、本郷八幡宮の縁起をもってこの御縁紀が調えられたと『防長寺社由来』(ぼうちょうじしゃゆらい)に記載されている。

縁紀の内容としては、上巻には、序文・神代序説・仲哀紀、中巻には応神紀・豊前国宇佐宮本紀、下巻には、八幡宮御縁紀・當社記録を収録する。
神社縁起の中では体裁がよく整っており、八幡縁起の内容もよく伝えられている。

過去帳 生見邑中虫枯餓死人 付 善秀寺年代記

享保17年(1732)、西日本一体に来襲した蝗害(イナゴの害)は各地に多数の餓死者を出した。
当時の生見村も同様に、213人の餓死者を出し、この人数は、村の人口の2割~3割にあたると推測されている。
こうした状況を記しているのが本資料である。

この過去帳は、生見村(現美和町生見)にあった善秀寺に伝えられたものであり、明治の初めに善秀寺が廃寺となり、防万寺に移されたものである。

享保十七年虫枯亡者過去帳

この過去帳は旧下畑村(現美和町下畑)の養専寺に伝えられていたものである。

江戸時代の享保17年(1732)、西日本一体に来襲した蝗害(イナゴの害)は各地に無数の餓死人を出した。
当時の下畑村も同様に、304人の餓死者を出し、この人数は、村の人口の2割~3割にあたると推測されている。こうした状況を記しているのが本資料である。

松月庵木造七観音菩薩坐像

松月庵は『防長風土注進案』(ぼうちょうふうどちゅうしんあん)には、長徳寺本寺古跡松月庵とあり、長徳寺の跡地に建立されたとされる。
七観音は長徳寺に安置されていたものを松月庵に安置し、地元の人々により、手厚く守り続けられてきたものと考えられる。

七観音とは、衆生を救済するために、姿を七種に変える観音で、千手(せんじゅ)観音、馬頭(ばとう)観音、十一面(じゅういちめん)観音・聖(しょう)観音、如意輪(にょいりん)観音、準胝(じゅんでい)観音、不空羂索(ふくうけんじゃく)観音をさす。

像は中央の仏師により、作られたと推測され、保存状態もよい。おだやかな顔、流れるような衣紋、ふくよかな蓮弁、など室町時代の作品の特徴がよくでている。

阿弥陀如来座像

本覚寺は本郷町にある徳門寺の末寺で、『防長風土注進案』(ぼうちょうふうどちゅうしんあん)によれば坂新五左衛門(さかしんござえもん)の菩提寺である。

仏像はヒノキの寄木造りで、肉髻(にくけい)、衲衣(のうい=僧尼が身につける袈裟)は墨彩で、肉身部は金箔彩色である。
保存状態は良好で台座がすべてそろっているのも極めて珍しい。

像はふくよかな慈愛に満ちた丸顔で、玉眼や白毫は水晶で造られており、衣文線などから仏体、台座とも、室町時代前期の作と考えられる。

 

薬師如来座像

東林寺の本尊、薬師如来座像は50年に一度開帳される秘仏である。像の右手は施無畏(せむい)印、左手は与願(よがん)印で薬壺(やっこ)を持つ。
像はヒノキの一木造りで、製作の形式から室町時代の作と推定されている。

いく度かの火災をくぐりぬけ、里人の厚い信仰に支えられて、今日に伝存した数少ない中世の仏像として貴重なものである。
次の開帳は2027年である。