岩国のシロヘビ

天然記念物「岩国のシロヘビ」は、岩国市の限られた地域にだけ生息している世界的にも珍しいヘビである。ヘビの白色変種が安定した遺伝形質を維持して特定の地域に集中的に生息している例は、世界的にみても他に例のないもので、学術的にも極めて貴重な存在である。

元々は大正13年(1924)12月、岩国市を縦走する錦川をはさんだ今津、麻里布地区と川下地区が「白ヘビ生息地」として天然記念物に指定されたが、昭和47年(1972)8月「岩国のシロヘビ」へと指定替えされた。

しかし、近年生息地域の都市化が進み、餌となるネズミ等の動物相も変化するなど環境の変化により、その生息数は減少しつつある。このため岩国市では、一般財団法人岩国白蛇保存会とともに官民一体の保護保存活動を進めている。

錦帯橋

古い歴史と美しい環境、珍しい形状と巧みな構造をもつのが錦帯橋の特色である。
背後に連なる城山の緑、その下を流れる錦川の清流、山紫水明の景色が橋と調和して美しい。橋の上下流各60間(108m)の地点から上流350間(637m)下流230間(418m)以内の堤塘敷及び河川敷が名勝錦帯橋として指定されている。

錦帯橋は延宝元年(1673)第三代藩主吉川広嘉によって創建されたが、翌年の延宝2年春に流失。その年のうちに直ちに再建され、以来、276年間秀麗な姿を誇っていたが、昭和25年9月のキジア台風により惜しくも流失した。その後、昭和28年1月再建され、現在の橋は、平成13年度から平成15年度にかけて行われた架替工事によるものである。

橋の長さは、210m、直線で193.3m、幅約5mである。

 

吉川家文書

吉川家文書は、旧岩国藩主吉川家に所蔵されている古文書類の総称で、正治2年(1200)正月25日鎌倉将軍(頼家)家下文案(播磨国福井庄地頭職補任状)を上限として、江戸時代貞享年間(1684~1688)に至る総数2393点を収めている。

吉川家は、もと駿河国入江荘吉河の住人で、鎌倉時代に播磨国福井庄、安芸国大朝庄の地頭職を得て、正和2年(1313)の根拠を安芸国に移した。以来南北朝の内乱期を経て国人領主として発展し、経基の時に隆盛期をむかえている。室町時代の末に毛利氏に帰属し、毛利元就の二男元春が養子となるに及んで以後は毛利氏の一族として活躍した。

本文書は、こうした吉川氏の歴史を反映したもので、鎌倉、南北朝、室町各時代の文書は関東御家人、あるいは国人領主層の動向を伝えた文書として中世史上価値が高く、戦国・桃山時代のものは毛利氏の中国経営、ことに山陰攻略の仔細、あるいは大内・大友との交渉、豊臣秀吉の九州平定、朝鮮出兵などに関する根本文書として貴重である。文書中、特に注目すべき点は、歴代、殊に元春、元長、広家らの自筆書状の多いことで、毛利家文書と同じく一族の結束と領内経営に務めた戦国大名の姿を示して興味深い。中でも天正9年6月13日の元春、同夫人(熊谷氏)連署書状は、経言(広家)に対する教誡状で、元春の人柄を伝えて注目され、また、広家書状には関ヶ原の戦いをめぐる毛利氏の動向を窺わせるものが多い。この他、足利直冬に関する文書がまとまっていること、信長の運命を予言した安国寺恵瓊自筆書状のあることなど、中世史研究上重要な文書が含まれ、毛利家文書と並ぶ戦国大名家文書として貴重である。

元亨釈書 吉川経基筆十五冊

元亨釈書は、わが国に仏教が伝来して以来鎌倉時代末元亨年間(1321~1324)に至るまでの高僧の事蹟、仏教の史実を記し、かつ概評を下したもので東福寺の僧虎関師錬の著。後醍醐天皇の元亨2年(1322)に完成したので元亨釈書という。

本書は、吉川経基が至徳元年(1384)の重刊本から転写したものを、安芸国新庄の洞仙寺に寄進したものである。写本には、経基自筆の部分もあるが、東福寺諸僧の助筆も混じっている。原表紙は厚手の白紙を用い、「元亨釈書并序目録一之ニ」と書し、更に中央には各冊に「洞仙寺常住 慶本之寄進也」(後筆)と墨書されている。慶本は経基の法名である。第四冊は、もと冊子装であったが、裏に文書を有するので横綴に改装されている。裏の文書の多くは書状であるが、中には延徳3年(1491)正月21日に行われた闘茶興行の記録もある。

経基は『吉川家譜』に、武事に長じ、又和歌を善くし且つ能書なりといわれている如く、好学の戦国武将であるが、本書もその点を示す一本として貴重である。

 

太平記 吉川元春筆四十冊 付 太平記目録

太平記は南北朝時代の争乱のいきさつを記した軍記物語である。文章は漢文調を交えて豪壮絢爛、文学作品として法師などにより講釈もせられたが、史書としても相当の価値を有し、また兵書として戦国時代の武人の間でひろく愛読されたものである。

本書は世にいう吉川太平記と呼ばれるものである。太平記が現在流布されている形に至るまでに若干の異本の存在が認められ、そのうち最も原作に近いと認められていたのは神田太平記であったが、神田本には14巻の欠失があった。本書は神田本に近い内容を有し、しかもほぼ全巻を完備していることから吉川太平記として文学史上に注目されるに至った。

この吉川本太平記は吉川元春が自ら書写したもので、奥書によれば永禄6年(1563)12月に筆を下し、同8年8月に完了した。この永禄7、8年は、出雲において尼子義久の軍を包囲攻撃の最中で、かかる軍陣の間に太平記を書写した元春の好学を看取出来る。

吉川元春は、享禄3年(1530)、毛利元就の第2子として生まれ、従兄吉川興経の養嗣子となった。豪邁でしかもよく文事を解し、文武兼備の名将として知られている。

 

紙本墨書細字法華経八巻 付 仁和寺任助法親王御譲状一通

法華経8巻を細字で1巻に書写したもの。白麻紙に金泥で罫線を引き、各行17字ずつ2段に墨書してある。本文の筆者は弘法大師と伝えられているが、確証があるわけではなく、平安初期の写経師の筆によるものと推測される。中国の唐代(618~907)の細字経は御物の他にも見受けられるが、平安初期に作成された細字経は皆無に近く、貴重である。

その後、中世に巻物を折本に改め、紺紙金泥絵の見返し、紺紙金銀泥絵の表紙を付けて装丁し、華麗な青貝蒔絵の箱に収められている。

この1帖は、もと仁和寺の寺宝であったものを、天正12年(1584)、門跡であった任助法親王から吉川元長に下賜せられたもので、同年6月21日付の譲状が附せられている。

紙本墨書吾妻鏡四十七冊並びに年譜一冊

吾妻鏡は、治承4年(1180)から文治3年(1266)に至る87年間の鎌倉幕府の記録で、曲筆の個所もないではないが、当時の事情がある程度詳細に記述されており、鎌倉時代研究の根本史料である。

袋綴の冊子本で、本文を47冊に収め、これに年譜1冊を加えて48冊としている。本文の末尾に大永2年(1522)9月5日安房前司弘詮の奥書があって、右田弘詮が文亀年間(1501~1504)に入手せる42帖の写本を底本とし、諸本を求めてその欠失を補い、新たに年譜1帖を加えて48帖とした旨を記している。伝来の諸写本には、脱落や誤写が多かったが、本書は書写年代が確実であるだけでなく、その内容に誤写欠文の少ない点において最も尊重されるべく、北条本とならんで古写本中の最も優れたもので、世に吉川本吾妻鏡としても、よく知られている。

右田弘詮は陶氏の出で、大内政弘の信任を得て、文明11年(1479)に筑前守護代となり、永正年間(1504~1521)に安房守となった人である。

山道草花鶴亀文繍箔胴服

安土桃山時代中期の天正15年(1587)九州征伐出陣の功により豊臣秀吉から吉川広家が拝領したものと伝えられている。

身幅が広く、広袖であるが振りはない。垂領で後は背割になっている。山道文を全面にして雪持芦、同笹、松樹、桐紋、鶴亀文の刺繍がなされ、さらに金摺箔が施されている。

その意匠技法とも豪華にして、しかも精緻。桃山時代の初期の形態を示す特色豊かな胴服で保存完好の優品である。大きさは身丈110㎝、裄51㎝である。

 

太刀 銘 備前国福岡住左兵衛尉長則 嘉元(以下不明)

太刀は明治13年(1880)、吉香神社に池祠官が奉納したものである。刀身の長さ、75㎝。鎬造り庵棟(いおりむね)、地鉄は小板目(こいため)肌細かく練れて詰み、地沸え付き、映り有り。刃文は匂い出来の小五(こぐ)の目乱れ、匂い足盛んに入る。

刀工長則は小龍(こりゅう)の呼称があり、弘安、嘉元年間(1278~1306)頃に活躍した備前国(現在の岡山県)の刀工である。作風はこの太刀が典型的で、同銘の刀(備前国長船住人左兵衛長則 永仁三年十二月 日)とともに、福岡一文字派による刀とは作風が異なり、備前長船派と通ずる点が注目される。

吉香神社本殿・拝殿及び弊殿・神門・鳥居 付 棟札

吉香神社は、旧藩主吉川氏歴代を祀る神社で、元は横山の白山神社境内にあったものを明治18年(1885)に現在地である御土居跡に遷座している。指定されている建物は、享保13年(1728)に造営された神門、拝殿及び弊殿、本殿、鳥居の三棟、一基である。

神門は、左右に脇門付袖塀をもつ小型の四脚門で、冠木中央に吉川家の家紋がついている。拝殿は、切石積壇上に建ち、入母屋造で背面に幣殿が張り出している。本殿は、切石積二重基壇上に建つ三間社流造で、正面に軒唐破風、千鳥破風が付されている。

また、「享保13年戊申年9月25日上棟」の記載のある棟札も残されており、18世紀前半期の社殿建築の代表作としても貴重である。

旧目加田家住宅

旧目加田家住宅は、18世紀後半頃の建築とみられる中流武家の住宅である。木造一部二階建て、屋根は入母屋造りである。

旧目加田家住宅の内部には様々な部屋があり、江戸時代岩国の武家住居の様相を残している。正面玄関は住宅の南側にあって、手前に板敷の式台が設けられている。武家住宅では居住者より身分の高い人物の出入り口として使用され、居住者は普段は北側と東側の土間のある入口から出入りしていた。

座敷は客を迎え入れる表座敷と内々のことで利用する裏座敷があり、表座敷の前には次の間と呼ばれる控えの部屋がある。このほかにも、台所や、主人の身の回りの世話をする中間がつめる中間部屋などがある。

屋根は瓦葺きで、その葺き方は両袖瓦と平瓦を利用した「二平葺き(にびらぶき)」と呼ばれるもので岩国地域でしか残っていない独特の葺き方で、岩国では18世紀初頭にこの瓦や「二平葺き」が完成されていたようである。

こうした特徴をもつこの住宅は総体的に用材が小さく簡素で以ありながらも端正な意匠であり、250年近く経ちながらも当時のままの姿がよく保存されており、建築史上たいへん貴重である。

小桜韋威胴丸 兜・大袖・替袖・頬当・喉輪・臑当付

織田信長の所用と伝えられる胴丸である。胴の高さ36.5㎝、胴廻り114.5㎝、草摺(くさずり=胴の下にさがっていて、足の太股を守る部分)の高さ25.5㎝の軽装の鎧である。小札(こざね)は、黒漆を盛り上げて塗った本小札で、小桜模様の染め革を使って毛を返したように威し(小札を横長に綴ったものを上下につなぐこと)ている。韋所(かわどころ)には藻・牡丹・獅子を描いた革や藍染めの杉・菖蒲を描いた革などが使われ、萌黄・白・浅黄・紅・紫の5色の色糸で小さな針目を出す伏せ縫いが施されている。金具廻りには小桜鋲が使われ、綿噛(わたかみ=胴を肩から吊す革)に付けられた杏葉(ぎょうよう)には、金メッキの「織田瓜紋」が据えられている。兜は、五十二間総覆輪筋兜(兜鉢のはぎ合わせの部分を金属で覆い、筋状になっている)と言われるもので、臑当なども含めて安土桃山時代の特色を示す優れたものである。

色々威胴丸 広袖付

安芸国(現在の広島県)銀山城主(かなやまじょうしゅ)・武田光和(たけだみつかず)が所用したと伝えられる胴丸。胴の高さ31.5㎝、草摺(くさずり=胴の下にさがっていて、足の太股を守る部分)の高さ23.1㎝、胴廻り(脇板)119.7㎝の活動しやすい軽装の鎧で、小札は、黒漆を盛り上げて塗った本小札を白・紅・萌黄・紫の色糸を使って、毛を伏せたように威し(小札を横長に綴ったものを上下につなぐこと)ている。金メッキの金具廻りや韋所には、藍染め革や藻・牡丹・獅子が描かれた革、熏革(くすべかわ=松葉の煙でくすべ、地を黒くして白く模様を残した革)などが使われている。黒漆を盛り上げて塗った本小札を色糸で威して作られた壷袖(袂のない袖)が付いている。

藍韋威肩白紅胴丸

胴の高さ32.3㎝、草摺(くさずり=胴の下にさがっていて、足の太股を守る部分)の高さ20.3㎝、胴廻り(脇板)106.5㎝の室町時代に作られた胴丸(軽装の歩兵用の鎧)。小札(こざね)は黒漆塗りの本小札で、白・紅の色糸や藍染めの革を使って毛を伏せたように威し(小札を横長に綴ったものを上下につなぐこと)ている。金メッキの金具廻りや韋所(かわどころ)には、藍染め革や茶染め革、藻・牡丹・獅子が描かれた革などが使われて、萌黄・紫・黄・白の色糸で伏せ縫い(表に小さく針目を出す縫い方)がされている。

鉄黒漆二十二間総覆輪筋兜萌葱糸素懸威𩊱

鉢の高さ14.6㎝、径は前後が24.0㎝、左右が20.0㎝で、楕円形をした「阿古陀形(あこだなり)」という形式の兜。
22枚の台形の鉄板に黒漆を塗り、はぎ合わせの部分を金属で覆って筋状にし、頭頂部の八幡座は5重で、篠垂(しのだれ)という細い金メッキの筋金が前に3条と後ろに2条据えられ、腰には神社等に見られるような斎垣(いがき)がめぐらされている。
眉庇(まびさし)はやや前に出る伏せ眉庇で、その上に三鍬形台があり鍬形が立っている。
しころ(鉢の左右から後方に垂れて首を覆うもの)は萌黄色の糸を使い、糸目を粗くして所々2筋ずつ並べて綴る素懸威(すがけおどし)となっている。

室町時代に盛んに行われた特色の著しい作りで、室町時代中期以降に作られたものと思われる。

鉄錆󠄀塗二十八間総覆輪筋兜鉢

現在は錆漆塗りとなっているが、本来は32枚を張り合わせた黒漆塗りの筋兜鉢(はぎ合わせの部分を金属で覆い、筋状にしている)である。
高さ12.2㎝、鉢の径は、前後23.2㎝、左右20.6㎝で、篠垂(しのだれ)という細い金メッキの筋金が前に3条と後ろに2条据えられ、頭頂部の八幡座は金メッキの魚子地(ななこじ=粟粒を並べたように、細かい粒を突起させたもの)に枝菊を高彫りにした円座に小刻みの裏菊と玉縁など5重になっている。
腰には、神社等に見られるような斎垣(いがき)がめぐらされている。南北朝時代から室町時代初期にかけて作られたと推定されている。

鉄錆󠄀地三十六間星兜鉢

表面が酸化して錆びている鉄の板を、鋲ではぎ合わせて作った兜鉢。
全体の形は、前後左右の径がほぼ等しい大円山形(だいえんざんなり)で、高さ10.8㎝、鉢の径は前後が22.6㎝、左右が20.0㎝となっている。星は、1行に16点と腰巻に1点ずつ打たれ、42枚が張られ、前正面ではぎ合わされている。
頭頂部の八幡座や眉庇(まびさし)、篠垂(しのだれ=正面や前後左右の細い筋金)、革毎(しころ=鉢の左右から後方に垂れて、首を覆うもの)などは失われているが、南北朝時代の特色をよく表している。

黒漆矢筈札浅葱糸素懸威腹当

胴の高さ25.8㎝、胴廻り69.2㎝、草摺(くさずり=胴の下にさがっていて、足の太股を守る部分)の高さ12.7㎝の腹巻よりも簡略化された下級士卒用の防具。
小札(こざね)は、黒漆塗りの革で包まれた矢筈札(やはずざね=弓の弦をうける矢の上端の形をした札)で、浅黄色の糸で威し(小札を横長に綴ったものを上下につなぐこと)ている。
草摺の中2段と左右の1段は、糸目を粗くして所々に二筋ずつ並べて綴る素懸威(すがけおどし)となっている。

室町時代末期に作られたこの種類の腹当は、残っているものは少なく貴重である。

金銅如来形坐像

この金銅如来形坐像は、その伝来について不明なところもあるが、日本に伝存する高麗時代の仏像として優れた作柄を示す作品である。

この像は、右手を胸前にあげ、左手を左膝上に差し伸べ、ともに第1指と第3指を捻じ、右脚を上に結跏趺坐(けっかふざ)する。肉髻部と地髪部を明確に区別せずにゆるやかに盛り上げた頭部には小粒の螺髪を整然とつくり、角張った大きめの顔面部には、すこしたるみのある髪際線、紐状の大きな耳、上下瞼がふくらんだ切れ目のある眼、太く鋭角的な鼻、厚い口唇などを大きく表現し、頸部に三道をもりあげてあらわす。鐘状を呈する太づくりの体部には通肩に法衣を着け、U字状に広く開いた胸部に裙を締めた紐の結び目をのぞかせ、新羅時代後期以来の伝統的な仏像表現を踏襲している。

地着部周縁に5個の孔があり、像底に底板を張った可能性が強く、かつて像内納入品を納めていたと推測できる。

大きな頭部をやや前方に傾けた形姿や台形状の膝部の表現などから本像の制作は、高麗時代後期(14世紀初期)ごろと考えられる。

優れた鋳造法や明快な表現などは、日本に伝来する30余点の高麗仏の中で佳品の1つとして挙げられ、貴重である。

藍韋威肩櫨紅腹巻

胴の高さ31.0㎝、胴廻り92.5㎝、草摺(くさずり=胴の下にさがっていて、足の太股を守る部分)の高さ26.4㎝の、室町時代末期に作られた鎧腹巻。
小札(こざね)は、左右の両端を少しずつ重ねたまま綴り延べた伊予札と本小札で、櫨(はぜ)・紅糸・藍染め革を使って威し(小札を横長に綴ったものを上下につなぐこと)ている。
草摺は、糸目を粗くして所々に二筋ずつ並べて綴る素懸威(すがけおどし)となっている。
金具廻りや韋所(かわどころ)には、藍染め革や茶染め革のほかに、一見ヒキガエルの背のような外形をした、しわのある蟇肌(ひきはだ)革が使われているのが珍しいと言われている。