五葉庵木造釈迦如来坐像

像高54.8㎝、臂張り37.0㎝、膝奥33.9㎝。
この像は一木造りとみられ、南北朝時代(14世紀中頃~末)に制作されたもので、彫りも良く、当地における臨済宗寺院創建の歴史を伝える貴重な遺産である。

涅槃図

涅槃図は、釈迦の入滅とその嘆き悲しむ仏弟子や菩薩・諸天、在家信者、動物などによって構成される絵で、縦約3.6m横約2.7mの絹本着色の軸物である。
天正9年(1581)に善慧大師(ぜんえたいし)によって描かれた。

石造五重層塔

安山岩製で、低平な基壇の上に背の高い軸があり、その上に屋根と軸部を一石で掘った笠が五つ乗っている。
上方にあったと思われる相輪は失われている。5つの笠は上方にゆくにつれて大きさを小さくしている。
軒は厚さも充分であり、両端にいって少し厚みをまし上方にゆるやかに反っている。軸部には正面中央部に蓮華を刻し、その上の月輪のなかにタラーク(宝生如来)梵字がある。
この面に縦に3行、下記の刻銘がある。
刻銘には天文15年(1546)の紀年銘が刻まれている。軸部にはこのタラークに向かって右の面にウーン(阿閦如来)、左面にキリーク(阿弥陀如来)背面にアク(不空成就如来)の金剛界四仏の梵字が彫ってある。

山口県内の石造の層塔のなかでも古い部類であり、貴重である。

木造十王坐像

十王(じゅうおう)とは、道教や仏教で、地獄において亡者の審判を行う存在で、秦広王(しんこうおう)・初江王(しょこうおう)・宋帝王(そうていおう)・五官王(ごかんおう)・閻魔王(えんまおう)・変成王(へんじょうおう)・泰山王(たいざんおう)・平等王(びょうどうおう)・都市王(としおう)・五道転輪王(ごどうてんりんおう)の10尊である。

浄円寺の「畧縁起」によれば、江戸時代の初め、寺が陽明庵の古跡に移ってきた時には、「今陽明庵残什物大般若経三箱、十王七躰、其外古仏数多並開山位牌等在之」とあり、十王の内七体が残存していたことがわかる。その後三体が失われ、現在、四体が残っている。

像底の墨書の判読により「広王」は秦広王、「江王」は初江王と見られ、それに都市王を加えて三体は尊名を知ることができるが、他の一体については手首から先を欠失しており、持物の特定もできないので、尊名を類推することはむつかしい。
像はいずれも損傷が著しいが、ヒノキ材の縦一材からの丸彫りとし、内刳りは施さない。素朴な彫法ながら円みをおびる面貌はおだやかで、躰部の張りのある形状もよく、小像ながらまとまりのよい均衡のとれた彫像で、室町時代の特色を見せている。特に初江王の像底に「二乙丑八月」、都市王の像底に「永正二乙丑十月日」の墨書が読みとれ、一連の十王像が永正二年(1505年)の製作であることが認められる。
県下に遺存する十王像で紀年銘のあるものは初見で、十王像の基準作として価値が高く、同時にこの地方の中世信仰史を知る上でも重要である。

木造毘沙門天立像

顔貌が円形で、目鼻立ちの造作が大きく、面奥が深い。素朴な彫法であるが、力強く、その制作年代は鎌倉時代を下らぬものと見られる。
特に躰部・岩座共にノミ痕が歴然と残っていること、そして、背面の裾を彫出せずそのまま岩座に接続する仕方は、仕上げ前の小作の段階でノミを置いていることと考え合わせ、立木仏の可能性を示唆するものがあり注目に値する。

木造地蔵菩薩立像

像高72.0cm。ヒノキ材の1木造りで、頭・躰部・左腕・足柄までを彫出し、右腕は肩から先を別材で組み合わせている。
内刳りは施していない。像容は円頂・彫眼・白毫相(びゃくごうそう)をあらわす(水晶嵌入)。右肩から右袖にかけては後世(江戸時代か)の改変とみられる。
しかし、全体的に地蔵菩薩立像としては古式のもので、制作年代としては鎌倉時代中頃とみられ、貴重である。

木造地蔵菩薩立像板木

縦63.7cm、横30.0㎝、厚さ3.5cmのカヤ材の板の全面に地蔵菩薩の立像を陽刻している。
特に円光の中心に鍚杖の先を置くなど、全体の構図がまことに巧みである。鍚杖の形は鎌倉調で、複雑な衣褶は宋風(中国風)のようであり、全体的に写実的な表現である。
制作時期は鎌倉期を降らないと思われる。

木造智者大師坐像

像は総高46.1cm、ヒノキ材の一本造りで内刳りを施していない。
円頂で法衣の上に袈裟をつけ、袖や裳裾を前方に長く垂らし、曲隶上に安坐する、いわゆる頂相彫刻の形式である。制作時期は鎌倉時代と考えられている。

智者大師は天台宗の開祖である智顗(ちぎ 538-597)のことで、天台大師ともいう。
湖南省南部の華容に生まれ18歳で出家し、諸方で学んだのち、560年、光州の大蘇山で慧思に禅観をうけ、金陵(南京)瓦官寺で法華経や大智度を講じ、禅を教えて陳帝の信任をえたが、575年、浙江省の天台山に籠り、天台教学を確立したとされる。

 

銅造十一面観音坐像

二井寺山極楽寺の本尊を安置する厨子の中に、いっしょに納められているが、その伝来は詳らかでない。
鋳銅製で像高29.6cmと小型の座像である。頭部・躰部・膝前を一鋳とする。
ただし頂上仏面をはじめ頭上面はすべて別鋳して差込みとする。ふくよかな面相の中にも、ひきしまった感じがあり、肩もがっしりと張りがある。
宝髻が高く、裳先が前に流れていること、さらには木型のアリ柄技法などから、その造形は鎌倉時代中期とみられる。

右肩部にかなり大きな亀裂があること、頭上面、光背の欠失など、保存は必ずしも良好とはいえないが、県下における鎌倉時代の鋳造仏の優作として注目すべきものである。

 

周防源氏武田氏屋敷跡及び墓所

周防源氏武田氏は、天文9(1540)年11月、安芸源氏武田小三郎が毛利元就の援助により周防欽明路に移り、周防源氏武田氏の祖となり刑部少輔と称した。
その後、文政元年(1818)、12世武田宗左衛門(号笑山)が、文武両道の稽古屋敷を設けた。稽古屋敷は、明治初期の中野口小学校の前身となった。

また、屋敷内の西部及び北側山地に、武田氏代々の宝篋印塔や五輪塔をはじめとする墓石が設置されている墓所がある。

紙本墨書極楽寺文書

極楽寺に伝存する中世文書6通を巻物に仕立てたもので、その内容は次のとおりである。
一、天文八年五月二十三日 後奈良天皇綸旨 一通
二、(年未詳)六月三日 後奈良天皇口宣 一通(権中納言広橋兼秀執達状)
三、(年未詳)二月朔日 豊臣秀吉書状 一通
四、弘治二年六月四日 毛利元就・隆元連署、新寺別当職補任状 一通
五、永禄十一年九月十八日 毛利輝元、新寺別当職補任状 一通
六、天正十六年二月二十八日 毛利輝元、新寺別当職補任状 一通

第一通は新寺が代々の勅願寺であることを確認し、先年火災により勅裁・院宣等をすべて紛失した由であるが、先規のように領知を全くし、皇家のために祈祷するようにとの後奈良天皇の綸旨を新寺別当宥頼に伝えたもの。
第二通は第一通の趣旨を、新寺別当宥頼に下知するようにとの、後奈良天皇の口宣を大内義隆に仰せ下されたもの。
第三通は尾崎坊が豊臣秀吉に、新春の御慶として祈祷に合わせ抹茶を送ったことに対する秀吉の礼状。
第四・五・六通は毛利元就・隆元および輝元の新寺別当に対する別当職補任状である。

極楽寺は古くからから勅願寺としての由緒を誇り、他に異なる寺格を有していたが、これらの文書はそのことを裏付ける重要な史料である。
極楽寺が度重なる寺家転退の中にあって、このような中世文書を伝存したことは貴重である。

紙本墨書伝後鳥羽天皇宸翰御消息

総縦126.5cm、総横58.4cm、縦27.9cm、横50.2cmの掛幅である。
礼紙に次のような文言が散し書きしてある。
『国の事禅閣かやうに 申候此分はまことに 子細候へき事にても さぶらず 更に いそき仰下 され候へく候 返々 このよしを 申しこせ給へ あなかしく』。

この古文書の伝来については不明である。ただ、二井寺山極楽寺が由緒深く古くから朝廷との特別の関係があったことを物語る資料として重要である。

木造五輪塔

この五輪塔には風、水、地輪の表面に、わずかに墨書や梵字が確認出来、供養塔として造設されたものと思われる。
地輪の底地付部の銘文によれば、この五輪塔は永正2年(1505)に十王堂に十王とともに安置するため造立するもので、その趣旨は願主の現世安穏、後生善處の願望成就を祈るところというのである。五輪塔とともに遺存する十王の2躰に「永正二年」の紀年銘があり、十王と五輪塔が同時期に造立されたことがわかる。

また、火輪の1側面に彫られた三角形の穴は何等かの納入物(或いは仏舎利か)を納めたものと思われ、室町時代末期のこの地方の十王信仰のありようを示す資料として重要である。

慈眼寺 鰐口

この鰐口は原銘により應仁元年(1467)四月廿四日に豊後州富来柳迫に所在した地蔵菩薩に奉懸されたことがわかる。
「富来」は豊後国国東半島の北東部周防灘に望む地域で豪族富来氏の本拠であった。鰐口が豊後から周防国差川の地に移されたかの由来は明らかでない。
追銘に見える「慈眼寺」は寛保元年(1714)に差川村の小都合庄屋田中十右エ門が萩藩に報告した『地下上申』によれば「杉が原と申ハ差川村之内ニ有之小名ニて御座侯、比所ニ先年杉原山慈眼寺と申禅宗有之、只今ハ観音堂ニていづれ之時か絶破仕候、観音堂山号を小名ニ申伝、杉原と申伝ニ御座侯事」と見えている。すなわち寺は寛保元年当時には廃寺になっており、その時期もはっきりしない位以前のことであったのである。この鰐口ははじめ慈限寺に懸げられ、廃絶後はその旧跡である観音堂に伝えられたのであって、このことは天保年間(1830~1843)に編集された『防長風土注進案』に記載されている。

小型の素朴な鰐口で工芸品として特に作域の優れたものとはいい難いが、製作の時代も古く、その伝来の経緯、特に古跡慈眼寺の唯一の遺品であることから貴重である。

短刀 周防国杉森住二王清綱

住所銘「杉森」は高森の古名で、刀工「二王清綱」(におうきよつな)発祥の地が周東町であることを資料的に裏付ける貴重な一刀である。

平造で刄長八寸四分五厘、反りなし、中心孔二つ。元身幅七分三厘、先身幅五分弱、重ね四分二厘。元重ねが四分を越え、重ねの重いがっしりした鎧通しの姿である。
清綱の住所銘が刻まれたものに、「玖珂庄」、「玖珂住」のものがあるが、この短刀にみられる「杉森住」は唯一のものと言える。
周東町域の大半は、かつて中世玖珂庄の庄域であり、玖珂、杉森の地名から推測して二王清綱は恐らく周東町の字千束小字道徳に伝承された清綱屋敷あたりで鍛刀したものと思われる。

絹本着色仏国国師像

縦107.6㎝、横51.4㎝の絹地に彩色した仏国国師(1241~1316 後嵯峨天皇の第三皇子)の頂相(肖像画)。

延慶2年(1309)大内弘幸が仏国国師を開山として建立した古刹、岩国横山の臨済宗永興寺の旧蔵品で、作者は不明であるが、鎌倉の円覚寺の住持をつとめた霊山道隠(1325没)の賛があり、製作の時期が14世紀初期と考えられる山口県内では最も古い頂相で、貴重である。

付(つけたり)は、縦119.5㎝、横61.0㎝の絹地に彩色した仏国国師の頂相で、吉川家御用絵師斉藤等室(1668没 雲谷派)の筆で、黄檗宗の開祖、隠元隆琦(いんげんりゅうき)の賛がある。

上須川河内神社の大杉

上須川河内神社は『防長寺社由来』によると永保2年(1082)讃井清原兼道(さぬいが河内国大懸郡(大県郡の誤記か、大県郡は現在の大阪府八尾市、柏原市)より勧請したと伝えられている。境内の大杉は通称「おきぬ様」と呼ばれており、御神木として祀られている。樹齢300年以上。胸高周囲5.5m、樹高65mである。

 

脇差 二王清□作

鎬造りの庵棟(いおりむね)で、刄渡り一尺六寸七分、反り四分五厘、目釘乳二つ、銘は心中に二王清□作と刻む(清の下の一字は判読不明)。
鍛えはよくつんだ板目、刄文は匂本位の中直刄、刄中の働きに、いま一つというところがあるが、鋩子は焼詰め心に味よくおさまり品がある。生ぶ心中で尋常にてよく、二王伝統の古風を残し、心中尻の味が特によろしい。
以上全体的に見て室町時代末期の二王刀工の代表的作風を具えている。

光明寺 鰐口

鼓面径18.6cmの小型の鰐口である。表面銘帯の左右に次のような銘文を陰刻している。左側「奉施入鰐口一口」、右側「応永二十五年正月八日施主安信敬白」と読まれる。「奉施入」とだけで、どこに施入されたか不明である。施主安信としては特に施入先を記入するまでもなく、身近なことなのでその必要を認めなかったのかも知れない。伝来によれば、祖生の光明寺に懸けられていたものという。防長の鰐口には撞座文のないものが多い中で、片面だけでもこれを持っていることが注目される。
また、蓮華文も小型であるが、形式化されない時代相応のよさを持っている。表面左右の目から銘帯にかけて小亀裂があるほかは、保存も概して良好である。

制作年代は銘文にある応永25年(1418)で、貴重な資料である。

具足

この具足七領は関ヶ原合戦後、久原村に来住した天野元嘉(あまのもとよし)の子孫の家に伝世したもので、明治維新後、天野氏がこの地を去るに際し、同村の住民、木村納蔵氏に保管を依頼し、のちに河内神社に奉納されたものである。

これらの具足は戦国時代末期から江戸時代初期(16世紀末から17世紀初頭)に造られたものと考えられる。将領二領・軽卒用五領とまとまっており、郷土での伝来が明らかな点を考えると貴重なものである。