木造扁額「八幡宮」(独立性易筆)

杉材の額板に隷書体で「八幡宮」と深く陰刻され、額縁も杉材で棟木を耳状、足柱を猫                                                                 棟木を含む足柱の高さ(総縦)103㎝、棟木の幅(総横)78.7㎝、厚さ2.1~2.2㎝。

裏に墨痕が認められるが、中央の「□尻傳右衛門」のみが判読出来る。制作者や製作の時期などは岩隈八幡宮の記録や岩国藩政史料などから寛文4~9年(1664~1669)に岩国に滞在した渡来僧独立性易(どくりゅうしょうえき 1596~1672)に揮毫を頼み、岩国藩士の井尻傳右衛門(?-1673)が再建された同宮のために製作、寄進したものと見られる。

独立性易は、中国浙江省の出身、能書家及び医者として知られ、承応2年(1653)、明末清初の戦乱を避けて来日し、同じ黄檗僧・隠元隆琦(いんげんりゅうき 1592-1673)にともに長崎に滞在した。岩国藩主第3代吉川広嘉の治療のため岩国に計5回招かれ、その際に名勝「錦帯橋」建造の着想を与えた人物としてよく知られる。

また、井尻傳右衛門は元々の岩隈八幡宮の所在地である祖生(そお)に給地があり、独立性易が長崎へ帰る際、同行した人物で、独立性易が作った漢詩に「別井尻傳右衛門」と題するものがある。

処刑場跡

当所は江戸時代の山代街道沿いにあり、当時の秋掛村と本郷村の境である引地峠におかれていた。
昭和初期まで、処刑される人々がつながれたという松の大木があったとされ、また刑に用いられた刀を洗ったと伝えられる池の跡も近くに残っている。

 

当村餓死人三百人之墓 付 三百四人過去帳

享保17年(1732)、蝗害による飢饉で、秋ごろから翌年夏ごろにかけ、下畑村(現下畑小学校区)では304人の餓死者がでた。
享保17年当時の人口は不明であるが、下畑村では2割から3割程度が餓死したと思われる。このとき、山代33村で34,716人、全国では約260万人が餓死したという。

生きのこった村人たちは、この供養塔を建て餓死者の追弔を行った。ここにある五輪石などは、きちんとした弔いもできず家の近くに葬り、形ばかりの墓石として置いていたのを持ち寄ったものと伝えられている。

笠塚神楽

出雲流の神楽で、どのようにしてこの地に伝わったかは明らかでないが旧日積村(現在の柳井市日積)から伝えられたとも言われる。
江戸末期と伝わる神楽面・神楽衣装・採物(とりもの)等を保持し、囃子の楽器は大太鼓・神楽笛・合鉦の三種類を用いる。
神楽の曲目は、1、湯立ちの舞 2、六神の舞 3、砂水の舞 4、勧請の舞 5、式太刀 6、日本紀の舞 7、三鬼の舞 8、内外の舞 9、地鎮の舞 10、将軍の舞 11、武鎮の舞 12、岩戸の舞 と、俗にいわれる「十二の舞」からなり、別に祈願神楽の際には「安鎮神舞」と「八幡神定」の2曲目が加えられる。

釜ヶ原神楽

釜ヶ原地区は美和町北東部の広島県境沿いに位置しており、釜ヶ原と大三郎の二つの集落から構成される地区である。
両集落にそれぞれ河内神社があり、秋の大祭(10月9日夜)には、毎年交互に奉納舞が行われ、どちらも6年ごとの年祭には「大将軍」が舞われる。

現在、伝承されている釜ヶ原神楽の原形は、明治末期から大正にかけて旧本郷村から伝わったとされているが、それ以前から何らかの神舞(かんまい)が存在していたようである。

一時、停滞期があったが昭和45年(1970)ごろ、青壮年十数人が健在だった数人の長老の指導を頼りに、村おこしの一環として神楽保存会を結成した。
当時保存会は、衣裳を購入する費用などを捻出するために「持ち株組織」で運営されており、株を持った者以外は神楽を舞うことはできなかった。
しかしその後、地域全体で神楽を保存していこうという気運が高まり、「持ち株組織」を廃止して全戸に呼びかけを行い、現在の「釜ヶ原神楽団」の基盤が確立された。

釜ヶ原神楽の舞の特色は、楽士の笛や太鼓のリズムが「八調子」とよばれる速いテンポであることが特徴であり、おもな演目は湯立て(ゆたて)・すすはき・七五三(しめぐち)・柴鬼神(しばきじん)・三刀(さんとう)・さすい・恵比寿(えびす)・三鬼(さんき)・姫取り・金時・五郎納寿(ごろうのうじゅ)・天岩戸(あまのいわと)・御神楽(おかぐら)・大江山・八岐大蛇(やまたのおろち)・大将軍(だいしょうぐん)である。

八幡宮御縁起三巻

この御縁紀三巻は宝永2年(1705)の秋、佐伯通次(さえきみちつぐ)、広兼時義(ひろかねときよし)其外氏子中が願主となって、本郷村三所大明神神主西村将監尚古(にしむらしょうげんなおふる)が記したもので、本郷八幡宮の縁起をもってこの御縁紀が調えられたと『防長寺社由来』(ぼうちょうじしゃゆらい)に記載されている。

縁紀の内容としては、上巻には、序文・神代序説・仲哀紀、中巻には応神紀・豊前国宇佐宮本紀、下巻には、八幡宮御縁紀・當社記録を収録する。
神社縁起の中では体裁がよく整っており、八幡縁起の内容もよく伝えられている。

過去帳 生見邑中虫枯餓死人 付 善秀寺年代記

享保17年(1732)、西日本一体に来襲した蝗害(イナゴの害)は各地に多数の餓死者を出した。
当時の生見村も同様に、213人の餓死者を出し、この人数は、村の人口の2割~3割にあたると推測されている。
こうした状況を記しているのが本資料である。

この過去帳は、生見村(現美和町生見)にあった善秀寺に伝えられたものであり、明治の初めに善秀寺が廃寺となり、防万寺に移されたものである。

享保十七年虫枯亡者過去帳

この過去帳は旧下畑村(現美和町下畑)の養専寺に伝えられていたものである。

江戸時代の享保17年(1732)、西日本一体に来襲した蝗害(イナゴの害)は各地に無数の餓死人を出した。
当時の下畑村も同様に、304人の餓死者を出し、この人数は、村の人口の2割~3割にあたると推測されている。こうした状況を記しているのが本資料である。

子安マリア観音立像

像高は約72㎝、ヒノキ材の寄木造りである。像の顔立ちは彫眼で容貌はふくよかである。
江戸時代、キリシタン信徒が幕府の厳重な禁圧の目をくぐり観音様と称して密かに礼拝した聖母像と伝えられている。

生見中村観音堂

旧栄福寺の古跡とされ、県指定文化財大般若経全600帖付唐櫃(からひつ)3合が納められている観音堂である。
観音堂は「辻堂」としての性格も持ち、吹き抜けの建物で、仏像や大師像を安置し、集落の信仰の場や休憩の場でもあった。

また、ここでは毎年旧暦7月1日に、地区住民により大般若経を転読し、数珠を繰る「生見中村ねんぶつ行事」(市指定文化財)も催されている。

山代本谷神楽舞

山代神楽は、岩国市北部の山代地方に古くから伝わる神楽の総称である。
山代本谷神楽舞は、本谷地区(岩国市本郷町)で古くから伝承されてきたもので、源流は出雲の流れをくむ安芸十二神祗系神楽(あきじゅうにじんぎけいかぐら)に「五行」を骨子とした備後神楽が強く影響していると考えられ、その起源は享保年間(1716~36)に遡るといわれるが、言い伝えによると安政年間(1855~60)に山代一帯に疫病が流行した際、平癒祈願として奉納されたとされ、それ以来100年以上の間、毎年10月の第2土曜日に地区の氏神様である河内神社で奉納神楽として舞い続けられてきた。

祥雲寺の紙本着色仏涅槃図

涅槃図は、釈迦の入滅とその嘆き悲しむ仏弟子や菩薩・諸天、在家信者、動物などによって構成される絵であり、釈迦の命日にあたる涅槃会を行う際に掛けるものである。
この涅槃図は、正統な絵仏師が描く仏画とは異なり、涅槃に集う仏・人物・動物などの数が多く、作者が自由に描いている。
淡彩画に近い彩色で、素朴で自由な筆致による文人画ような作風である。

箱書によれば、祥雲寺5世石窓得雲(せきそうとくうん)の代の元文3~宝暦8(1738~58)年に制作され、文化13年(1816)に祥雲寺10世知足丈観(ちそくじょうかん)の代に再表具したものと記述がある。

作者は岩国藩の絵師、内田虚白斎(うちだきょはくさい)で、現存する作品が少なく、貴重である。

絹本着色光明曼荼羅

縦85.0cm、横36.0cmの比較的小さい掛幅である。
上部に光明真言二十三字を金泥でそれぞれ小円の中に書き、これを右から円形に並べた、いわゆる字輪の内部に、智拳印(ちけんいん)を結ぶ金剛界(こんごうかい)の大日如来の坐像を描き、中央に開敷蓮華(かいしきれんげ)の華台に定印を結ぶ胎蔵界(たいぞうかい)の大日如来の坐像をあらわし、八葉の蓮弁に、上部から向かって右廻りに宝幢如来(ほうどうにょらい)・普賢菩薩(ふげんぼさつ)・開敷華王如来(かいしきかおうにょらい)・文殊菩薩・無量寿如来(むりょうじゅにょらい)・観世音菩薩・天鼓電音如来・弥勒菩薩の八尊を配した、胎蔵界曼荼羅の中台八葉院を描き、さらに下部に蓮台を描いている。
幅の裏面に光明曼荼羅の墨書があるが、その図柄推して光明真言曼荼羅と、金剛界・胎蔵界曼荼羅とを合体したものと見られる。
光明真言曼荼羅は光明真言破地獄曼荼羅とも称し、光明真言二十三字を右から円形に書いた字論をいう。これはこの真言の一つ一つの字から放つところの光明が遍く衆生界を照らして無明煩悩の暗黒を破るという意味があり、字論から四方に放射線状に細い線を無数に墨書しているのは、これを表すものと思われる。細めの絹に金泥彩の極彩色で描いている。
下方の蓮台、殊にその蓮弁の描法等から、制作の時代は江戸初期ごろのものと見られるが、筆致はまことに精緻である。

本幅は先にも述べたように、おそらく光明真言に金・胎両部曼荼羅の中尊をいれて両界の意味を持たしたもので、光明真言両界曼荼羅とでも呼ぶべきものと考えられ、珍しいものである。

松林山受光寺鐘楼門

門の形式は三間一戸楼門(上階 桁行三間、梁行二間)、入母屋造、本瓦葺である。細部では次のような二つの特色がある。
一つ目は、上階の西より2本目の柱上に前後(南・北側)とも台輪状長押(ながおし)が頭貫のようにくい込む。
二つ目は、下階の中央間が西側に片寄るため、西側柱間が東側柱間より小さい。

部材は、東北隅の柱のみケヤキ材で、他の柱はスギ材を使用している。
建立年代は、記録によると元禄2年(1689)で、享保21年(1736)、享和2年(1802)、昭和49年(1974)と三度の修理履歴がある。
17世紀代の楼門建築は類例が少なく、貴重である。

井上豊後守就正墓

墓は大歳原の丘陵地上に立地する。
凝灰岩製の宝筐印塔で、総高158cm、基礎の正面中央に「前豊州齢岳宗松居士」、向かって右に「于時慶長十七年」、左に「壬子十二月十一日」と陰刻している。天野隆重・元嘉の墓と同様、近世初期様式の典型的な宝筐印塔である。

天野元嘉墓 付 天野元嘉夫人墓

天野元嘉は天野隆重の五男である。
隆重の没後、その跡を元嘉が継ぎ、関ヶ原の戦いの後、吉川広家の組下として毛利輝元から椙杜900石(のち500石)の地を宛がわれ、久田に移り住んだ。慶長17年(1612)11月20日没。墓は通化寺の境内地にあり、元嘉夫人の墓も並んで建っている。凝灰岩(俗に平野石)製の宝筐印塔で、基台・基礎・塔身・笠・相輪(露盤・請花・宝珠)と積み上げているが、ずんぐりとした相輪、隅飾りが外に張り出し軒の厚い笠、基礎の銘文の刻みよう、線彫りの丈長の反花を配する基台など、近世初期の特色をよく示している。

また、基礎の正面に次の陰刻がある。元嘉墓(総高177.4cm)は中央に「大円宗覚居士」、右に「于時慶長十七壬子季」、左に「十一月念日」と刻まれており、元嘉夫人墓は中央に「寂孤円原珠大姉」、中央下に「需覚生」、右に「慶長十年己巳」、左に「十月十四日」と刻まれている。

 

天野隆重墓 付 天野隆重夫人墓

天野隆重は天野家第11代当主である。
隆重のときに初めて毛利元就に仕え、尼子氏との戦いで軍功があり、晩年は出雲国八雲村(現在の島根県松江市八雲町)の熊野城に住み、天正12年(1584)3月7日同地で没した。
墓は通化寺の境内地にあり、隆重夫人の墓も並んで建っている。
凝灰岩(俗に平野石)製の宝筐印塔で、基台・基礎・塔身・笠・相輪(露盤・請花・宝珠)と積み上げているが、ずんぐりとした相輪、隅飾りが外に張り出し軒の厚い笠、基礎の銘文の刻みよう、線彫りの丈長の反花を配する基台など、近世初期の特色をよく示している。

また、基礎の正面に次の陰刻がある。隆重墓(総高156cm)は中央に「一峯円月居士」、その向かって右に「天正十二甲甲」、左に「四月初七日」と刻まれている。この墓は元嘉が久田(くでん)に定住後、出雲国から遺骨を移して建てたものである。隆重夫人の墓は中央に「為明山久花大姉」、右に「于時慶長十四己酉年」、左に「八月廿九日」と刻まれている。

谷津神楽舞

谷津神楽舞の由来は、江戸時代後期に行波の神舞から伝わったものといわれる。
江戸時代後期から明治時代までの谷村(現在の谷津と上市)には、里神楽の集団が二つあり、谷津上地区の舞子舞と谷津下地区の大夫舞が継承されてきた。

嘉永2(1849)年初秋に、玖珂本郷村の藤井百次郎が神楽面を谷村の氏神さまの山王宮へ奉納して神楽舞を行ったといわれている。この神楽面が、現在まで伝えられており、この面をつけて神楽舞を奉納している。現在では、舞子舞は途絶えてなくなり、大夫舞は保存会により継承され、後継者の育成とともに神楽舞が奉納されている。祭祀前夜の「湯立の神事」立舞、当日の「太鼓の口開け」から「太刀かえり」までの12演目が次第により奉納される。

 

長野神楽舞

寛永16年(1639)に創設され、享保5年(1720)より七年期となる。
七年期神楽舞の由来は享保年間(1716~1736)に、数年続いた大飢饉で凶作、虫害に苦しみに対し、生業発展・五穀成就・百難消滅を三地区(上・中・東長野、下長野、鳴川・中島)で蛆ヶ森(うじがもり)河内神社及び秋葉山に祈願するために七年毎に神楽舞を奉納することになった。

以来、七年を期として三区の輪番により、長野神楽舞世話人と舞子・楽師および地区住民によって続けられてきた。

 

谷津下の弥山道の道標

弥山道の道標は、三角形の自然石の前面に「これよりみせん道」寄進 谷津村 新町中 と刻まれている。
阿品にある弥山に向かう参詣道に設けられたのがこの道標である。
新幹線高架工事にともなう道路拡幅工事等により、現在地の地蔵堂西側に隣接して移動設置されている。