吉川家肖像画

吉川元春とその子元長、広家、松寿丸の肖像画である。室町時代末期から江戸時代初期の間に描かれた肖像画であり、絵師および流派がそれぞれ異なるものの、作画技法が随所に看取出来、当時の画風を知る資料としても重要である。

そして、像主が吉川元春、元長、広家、松寿丸と中世から近世への移行期における吉川家当主およびその家族の肖像画であることも美術工芸的な価値だけでなく、歴史資料としての価値もそなえた資料であることが看取出来る。

また、賛についても吉川元長像には周伯恵雍による賛、吉川広家像には江月宗玩による賛があり、元長、広家の仏教に対する造詣や仏僧との交流関係を示す点においても歴史資料的価値は高いといえる。

祈年宮扁額 付 祈年宮記

山代祈祷所として元禄年間に建てられた祈年宮(伊勢春日白鳥神祠)の社殿に掲げられていた扁額である。建立当初のものではないが文政七年に製作されたものである。

扁額の法量は長さ75.5㎝、幅55.5㎝である。素材はケヤキとみられる。表面には「祈年宮」と文字の外側を彫り込み文字を浮き出せている。文字は胡粉を用いて白色で彩色し、縁は四方を唐草文で彫りだし、黒漆で着色している。

裏面には「奉納 文政七甲申正月吉辰 防州玖珂郡山代御茶屋役人中 草場謙謹書」の墨書が記されている。文政七年の正月に山代御茶屋(宰判)の役人達がこの扁額を奉納したことを草場謙が書いたとあり、「祈年宮」の揮毫は草場謙によるものである。草場謙は晋水の号をもち、萩明倫館の教授であった人物である。

付の祈年宮記については、木の板に祈年宮の縁起を墨書したもので、法量は縦37.4㎝、横115.0㎝、厚さ1.9㎝である。書は文化元年(1804)に山代宰判楮植付仕組方並勘場検使であった有田伝左衛門(祚胤)が記したものである。

これらの資料は岩国市域とくに北部の山代地域の近世の製紙業とこれにまつわる民間信仰のあり方、そして萩藩の宗教政策といったことを考える上でも重要な資料である。

速田神社本殿

明治41年(1908)に、現在地に遷座した際に、この本殿も移築されており、大正13年(1924)に銅板葺に改められている。

江戸時代の伝統的な、三間社流造りの手法によって建立され、よく時代の特色が残されている。流造とは前面の屋根が前に大きく張り出した様式で、その屋根を支えるために柱の数が4本で柱間が3つになるものが三間社流造である。

生見八幡宮本殿

文化10年(1813)に大雨による社殿大破のため改築されたもので、伝統的な木造の三間社流造(さんげんしゃながれづくり)の建物である。流造とは前面の屋根が前に大きく張り出した様式で、その屋根を支えるために柱の数が4本で柱間が3つになるものが三間社流造である。

改築後は建物本体の一部、屋根裏の補修が行われたのみで当時の特色を残したまま保存されている。

中ノ川山一里塚

この一里塚は、藩政初期、萩城下唐樋札場(からひさつば)を基点として防長両国内の主要街道に一里おきに築造されたうちの一つで、安芸境秋掛村亀尾川(美和町秋掛)に通じる山代街道沿いに設置された25基の一里塚の内の一つに当たる。

萩から数えて24番目、安芸国境からは2番目のもので、塚木には「萩松本より弐拾三里 安芸境亀尾川より壱里十六丁」と記されていた。自然石を積み上げた角の丸い四角形をなしており、上部はほぼ平らである。正面右側の石組みが一部崩れているが、全体としてよく原形をとどめている。

設置時期については、『防長風土注進案』(ぼうちょうふうどちゅうしんあん)には、江戸時代の正保2年(1645)、幕府の命により萩藩が、正保国絵図を作成した際、萩藩士の三輪伊兵衛が秋掛村亀尾川を訪れ、安芸国夷ヶ垰(えびすがとうげ)からの間数を調べて一里塚を築いたとする記述があり、17世紀中頃には築かれたものと考えられる。

岩国藩主吉川家墓所

墓所は、横山の通称寺谷地区に所在し、岩国に入府した岩国吉川家初代広家から、6代経永を除く12代経幹までの当主及びその一族の墓が51基あり、指定面積は9615㎡である。

墓所が形成されるのは寛永2年(1625)広家が没した年からであるが、墓所の中心を占める寺谷口御塔場は、2代広正が没した翌年寛文7年(1667)3代広嘉によるもので、石工は大阪から召し寄せられて造営された。

岩国藩御用所日記に延宝7年(1679)に造営された3代広嘉(玄真院)の石塔建立には、350~360の人夫が当たったと記録されており、いかに大工事であったか窺える。

墓所の中には、京都の小堀家から贈られたと伝えられる、遠州好みの「誰が袖の手水鉢」(現存品は写し)や、茶人上田宗箇が広家に贈ったといわれる「みみずくの手水鉢」など優れた工芸品も残され、石造文化財として貴重であると同時に、近世大名家の葬制を知る上で重要である。

山代白羽神楽

山代神楽は、岩国市北部の山代地方に古くから伝わる神楽の総称である。

山代白羽神楽は、二ツ野地区(岩国市美和町)で古くから伝承されたもので、主に集落の中心にある白羽神社の秋の祭典(毎年11月2日)などで奉納されてきた。

創始の時期について正確なことは明らかになってはいないが、寛政6年(1794)の善秀寺年代記(ぜんしゅうじねんだいき)や、安政5年(1858)3月に行われた生見八幡宮御鎮座千年祭の記録から、江戸時代中期にはすでに舞われていたと記されている。また、江戸時代に相次いだ飢饉や疫病の流行に悩まされた農民が、五穀豊穣と悪疫退散の祈願をこめた神事として始めたものである、とも伝えられている。

山代白羽神楽は、12演目で構成されていた神事舞であったと伝えられている。しかし、天保10年(1839)白羽神社社殿改築の際の落成興行に招いた芸州佐伯郡明石村(現在の広島県廿日市市)の神楽から鑑賞的な舞を取り入れ24演目に改められ、その後、大正時代に大江山(おおえやま)という演目が追加されるなどの変遷を経て、現在では主に禊神楽(みそぎかぐら)、一人神楽(ひとりかぐら)、湯立神楽(ゆたてかぐら)、猿田彦(さるたひこ)、諸神(しょしん)、恵比寿(えびす)、小太刀(こだち)、芝鬼人(しばきじん)、三鬼(さんき)、天の岩戸(あまのいわと)、大江山(おおえやま)、八岐乃遠呂智(やまたのおろち)、天大将軍(てんだいしょうぐん)の13演目が舞われている。

岩国南条踊

南条踊は、中世の末期に端を発する風流の踊りである。吉川元春と、伯耆の羽衣石城(うえしじょう)主南条元続との交渉に由来する伝説が数々伝えられている。その由来のひとつに次のようなものがある。
吉川元春が南条方の城を攻め落とした時のこと。南条家の捕虜を雲州平田(現在の島根県出雲市)の陣中に抑留していたが、折から盆のころで、つれづれなるままに、南条家伝来の盆踊のことを物語った。これを番人らが習い覚え、元春の許しを受けて朋輩に伝え、平田の鰐淵山で踊ったのが始まりという。
慶長5年(1600)に吉川氏が岩国に移封するとともに、城下に伝えられてももっぱら藩士の子弟により踊られた。藩初の記録は洪水のため現存しないが、わずかに残る1630年代の記録の断片にもその行事が見出され、毎年7月15日(旧暦)前後に横山の館で催されている。
南条踊は、武家の踊りとして質朴ながら勇壮活発である。入端(いりは)、座免喜(ざめき)、走踊(はしりおどり)、由利踊(ゆりおどり)、芋踏(いもふみ)、引揚(ひきあげ)の6つの部分から構成されており、それぞれの部分は独立して変化があり、しかも全体として調和がある。昭和49年12月「記録作成等の措置を構ずべき無形民俗文化財」に選択された。

永興寺庭園

永興寺庭園は、庫裡書院北庭の準平庭式枯山水庭園である。作庭に関する史料がなく明確に作庭時代を判定することはできないが、近世のものと考えられる。主庭は龍安寺式の枯山水庭園で、江戸時代前期頃の作庭とみられているが、後世の改修もみられる。

主庭園の原形は、茶室に付随した露地(茶庭)が主景で、そこへ枯山水庭園が景を添えている。湧き水があり井泉石組が付されている。元々は茶室があったが、解く際に、枯山水部を修景しなおしたと思われる。

現存の枯山水庭園は七五三式の石庭である。その中心は6石による集団石組があり、その北側に三尊石風の石組が2ヵ所ある。全体的には、15石による七五三石組、もしくは十六羅漢的な石組を構成している。こうしたことから、全庭に配石された枯山水庭園の例として貴重なものとされる。

下の神楽

毎年4月初旬、下の集落内である愛宕神社の境内で奉納されるこの神楽は、室町時代以降に畿内で発生し、西進して伝えられたという、錦川対岸の「岩国行波の神舞」と同系統で、これを伝えた社家(三上家)には、慶長11年(1606)の記録が現存する。

同家の記録によれば、明治3年(1870)9月の年限神楽は社家によって奉納されているが、明治7年11月には里神楽として奉納されている。

以来この神楽は、明治、大正を経て昭和28年11月まで舞われて来たが、戦争や災害等により一時中断、昭和55年4月再興された。

荘厳(そうごん)・六色幸文祭(ろくしきこうぶんさい)・諸神勧請(しょしんかんじょう)・注連灑水(ちゅうれんしゃすい)・三宝鬼人(さんぽうきじん)・荒霊豊鎮(こうれいぶちん)・弓箭将軍(きゅうせんしょうぐん)・眞榊対応内外(まさかきたいおうないがい)・日本記(にほんぎ)・愛宕八幡(あたごはちまん)・五龍地鎮(ごりゅうじちん)・天津岩座(あまついわざ)の12座の他、湯立(ゆだて)・火鎮(ひしずめ)が行われる。

古式をよく伝え、信仰・芸能史上貴重である。

千体仏

全長7.5~22.6cm程度の小さな木質の仏像で、795体と多数残っていることから千体仏と呼ばれているとみられる。保存状態は概ね良好である。

正徳5年(1715)ごろ静間彦右衛門たちの篤い信仰と悲願により、桂雲寺に寄進されたものと伝えられている。この千体仏は、信仰の対象物であって、信者が寺に詣でて、法要仏事を営む際、お堂の中にある千体仏の中から亡き人の顔に似た仏像を選び出し、これを本堂に移し、位牌とともに仏壇に飾り、読経をお願いし、帰りに再び元の位置に納めて退出したと伝えられており、民俗資料としての価値が高いといえる。

柱野古宿にかつてあった桂雲寺は錦見の大円寺の末寺といわれ、正徳5年に堂宇を建立し、享保6年(1721)に寺号を申請している。開基は静間彦右衛門と言われている。

錦帯橋架替図

江戸時代に作成された錦帯橋の図面である。図面は和紙を貼り継いで必要な大きさをとり、裏打をして補強した紙に箆(へら)で痕をつけ、墨を入れる方法で描かれている。紙面は小さく折り畳まれている。1橋1枚が原則であったと思われるので、架替えた橋の数だけ絵図も作られたと思われるが、残存絵図は反橋のみで13枚である。13枚すべて10分の1の縮尺で描かれており、担当責任者の棟梁が描いたものと思われる。製作年代は元禄12年(1699)から文政11年(1828)の間である。

錦帯橋は、数百年間、同じ技術で架け続けられてきた歴史をもち、また、特殊な構造の木造橋は世界的にも希有である。橋の創建・維持・管理に岩国藩が全面的に関わってきた歴史がそうした状況を作りだした背景となっているが、この資料の存在が錦帯橋そのものの文化財的価値を非常に高めているといえる。架替ごとに作られる絵図面そのものが技術の伝承の役割も果たしており、長い間、架け伝えられてきた技術の証明であり、貴重でもある。

國安家住宅

國安家住宅は、江戸時代より鬢付油(『梅が香』)を製造販売していた松金屋又三郎によって建てられたものである。客座敷床の間の座板裏面に「嘉永三年庚戌之初秋七月十一日、十世満喬代調之、三代目大工五兵衛作」の墨書銘があり、この頃の建築と伝えられているが、それ以前に遡る可能性もある。建築後、幾度か改造されているが、全体的には旧状をよく保持していると言える。

太い梁を縦横に架け渡した豪壮な構成は岩国城下を代表した町家建築の面影をよくとどめている。

錦帯橋

古い歴史と美しい環境、珍しい形状と巧みな構造をもつのが錦帯橋の特色である。
背後に連なる城山の緑、その下を流れる錦川の清流、山紫水明の景色が橋と調和して美しい。橋の上下流各60間(108m)の地点から上流350間(637m)下流230間(418m)以内の堤塘敷及び河川敷が名勝錦帯橋として指定されている。

錦帯橋は延宝元年(1673)第三代藩主吉川広嘉によって創建されたが、翌年の延宝2年春に流失。その年のうちに直ちに再建され、以来、276年間秀麗な姿を誇っていたが、昭和25年9月のキジア台風により惜しくも流失した。その後、昭和28年1月再建され、現在の橋は、平成13年度から平成15年度にかけて行われた架替工事によるものである。

橋の長さは、210m、直線で193.3m、幅約5mである。

 

周防祖生の柱松行事

周東町祖生の中村(8月15日)、山田(8月19日)、落合(8月23日)の3地区で行われる。祖生中村地区にある新宮神社にある「産土社諸控早採略記(うぶすなしゃしょひかえそうさいりゃくき」には、1734年(享保19)に、この行事が行われたという記録があるので、それ以来、伝承されてきたと考えられる。

寄せ太鼓を合図に夜8時頃から開始する。柱松行事は、柱の頂上に、ハギの小枝とキリの葉で編んだ「ハチ(鉢)」と呼ばれる笠を置いて、その上にさした御幣(長旗)をめざしてタイ(松明)を投げ上げて点火を競う。また、同時に豊穣を占う、「年占い」としての性格も有している。

岩国行波の神舞

この神舞は、室町時代以後、京都地方において発生し、西進して当地方に伝えられたといわれているが、一説によれば荒神神楽で豊後国(現在の大分県)から大島郡を経て瀬戸内の山間を北上したものの一つともいわれている。もともと、神官が主体の社人神楽であったが、明治維新の世襲制度の廃止により里人に伝授されたものである。行波における神舞の奉納は1791年から始まり7年目ごと絶えることもなく今日に伝わっている。

演目は、荘厳(そうごん)・六識幸文祭(ろくしきこうぶんさい)・諸神勧請(しょしんかんじょう)・注連灑水(ちゅうれんしゃすい)・荒霊武鎮(こうれいぶちん)・真榊対応内外(まさかきたいおうないぎ)・日本紀(にほんぎ)・天津岩座(あまついわと)・弓箭将軍(ゆみやしょうぐん)・三宝鬼神(さんぽうきじん)・五龍地鎮(ごりゅうじちん)・愛宕八幡(あたごはちまん)の12座からなる。また、毎年10月中旬には荒玉社境内で演目の一部を奉納する。

7年目ごとの神舞年には、河川敷に四間四方の神殿を組み、前夜に湯立(ゆだて)、火鎮(ひおさめ)および一部種目を奉納し、当日は早朝から12座を演ずるほか八関(はっせき)を奉納する。これに要する時間は15時間にも及ぶ。

この神楽は、古式をよく守り、その形態を変えることなく伝承されてきた点で、全国でも貴重である。

吉香神社本殿・拝殿及び弊殿・神門・鳥居 付 棟札

吉香神社は、旧藩主吉川氏歴代を祀る神社で、元は横山の白山神社境内にあったものを明治18年(1885)に現在地である御土居跡に遷座している。指定されている建物は、享保13年(1728)に造営された神門、拝殿及び弊殿、本殿、鳥居の三棟、一基である。

神門は、左右に脇門付袖塀をもつ小型の四脚門で、冠木中央に吉川家の家紋がついている。拝殿は、切石積壇上に建ち、入母屋造で背面に幣殿が張り出している。本殿は、切石積二重基壇上に建つ三間社流造で、正面に軒唐破風、千鳥破風が付されている。

また、「享保13年戊申年9月25日上棟」の記載のある棟札も残されており、18世紀前半期の社殿建築の代表作としても貴重である。

旧目加田家住宅

旧目加田家住宅は、18世紀後半頃の建築とみられる中流武家の住宅である。木造一部二階建て、屋根は入母屋造りである。

旧目加田家住宅の内部には様々な部屋があり、江戸時代岩国の武家住居の様相を残している。正面玄関は住宅の南側にあって、手前に板敷の式台が設けられている。武家住宅では居住者より身分の高い人物の出入り口として使用され、居住者は普段は北側と東側の土間のある入口から出入りしていた。

座敷は客を迎え入れる表座敷と内々のことで利用する裏座敷があり、表座敷の前には次の間と呼ばれる控えの部屋がある。このほかにも、台所や、主人の身の回りの世話をする中間がつめる中間部屋などがある。

屋根は瓦葺きで、その葺き方は両袖瓦と平瓦を利用した「二平葺き(にびらぶき)」と呼ばれるもので岩国地域でしか残っていない独特の葺き方で、岩国では18世紀初頭にこの瓦や「二平葺き」が完成されていたようである。

こうした特徴をもつこの住宅は総体的に用材が小さく簡素で以ありながらも端正な意匠であり、250年近く経ちながらも当時のままの姿がよく保存されており、建築史上たいへん貴重である。

岩国市楠町一丁目のクスノキ巨樹群

錦川が今津川と門前川に分かれる三角州の頂点に当る部分の堤塘敷及び河川敷に15本のクスノキが群生している。最も大きいもので、目通り5.65m、高さ30mに達する。おおむね目通り4~5mのものが多く、樹齢も300年を越えると思われる。このようなクスノキの巨樹が群生している例は県下でも稀に見られるものである。

万治2年(1659)に当時の領主吉川広正(1601~1666)が隠居のため別邸を中津(現在の楠町1丁目)に造営することとし、翌3年土手の石垣工事から着手、寛文元年(1661)新邸は完成し、広正はこれに移住した。

三角州頂部の内土手と外石垣の間にクスノキを植えたのは、この万治の堤防改修の時かその後まもなくと考えられる。また延宝4年(1676)中津の庄屋が植えたという伝承もある。

松巌院庭園

藤生の卜院(ぼくいん)の地にある松巌院は、臨済宗天龍寺末であるが現在は単立で鍾秀山と号する。安政6年(1859)の今北洪川筆「松濤軒記」(しょうとうけんき)に本庭が月溪(天溪)和尚による作庭であると記されている。

月溪和尚は中谷月溪と称し、文久2年(1862)に85歳でこの世を去っている。

山門付近から本堂前にかけ、スギ苔が一面に敷きつめられ、その中にソテツの寄植えがある他は石組らしいものはない。前方は瀬戸内海が眼下に見下ろせ、その為に土塀を低くして眺望をよくしている。

本堂の南側に隠寮、松濤軒が建つ。一種の隠居部屋であるが、茶室でもある。この南面に広がるのが中心の景観である。裏山の斜面を利用し、築山を取り巻くように細長い池泉を穿った池泉観賞式庭園である。

庭園構成の中心は滝石組であるが、松濤軒から滝を望むことはできず、また本堂書院からも視界に入らない。庭に降りて池畔に立たなければ主景が望めないというのは、特殊な地割であり、回遊式の要素ももっている。その滝石組は、3石で水落石を形成して120㎝の高さを持つ。添石は、斜面に露出する岩盤をうまく利用し生かして組んでいる。右側には90㎝高の立石があって、石組の中心となっている。滝には豊かな水が落ち、流水式に蛇行しながら池泉へと注がれる。池泉には4か所に石橋が架かり、園内を回遊散策できる。

作庭時期、作者ともに明確な庭園として貴重である。