千体仏

全長7.5~22.6cm程度の小さな木質の仏像で、795体と多数残っていることから千体仏と呼ばれているとみられる。保存状態は概ね良好である。

正徳5年(1715)ごろ静間彦右衛門たちの篤い信仰と悲願により、桂雲寺に寄進されたものと伝えられている。この千体仏は、信仰の対象物であって、信者が寺に詣でて、法要仏事を営む際、お堂の中にある千体仏の中から亡き人の顔に似た仏像を選び出し、これを本堂に移し、位牌とともに仏壇に飾り、読経をお願いし、帰りに再び元の位置に納めて退出したと伝えられており、民俗資料としての価値が高いといえる。

柱野古宿にかつてあった桂雲寺は錦見の大円寺の末寺といわれ、正徳5年に堂宇を建立し、享保6年(1721)に寺号を申請している。開基は静間彦右衛門と言われている。

谷津下の弥山道の道標

弥山道の道標は、三角形の自然石の前面に「これよりみせん道」寄進 谷津村 新町中 と刻まれている。
阿品にある弥山に向かう参詣道に設けられたのがこの道標である。
新幹線高架工事にともなう道路拡幅工事等により、現在地の地蔵堂西側に隣接して移動設置されている。

有延の二井寺道の道標

二井寺道の道標は、花崗岩の切石の柱の一面に、左手の指さし絵が刻まれ、その下に「右ニ二井寺道」と刻まれている。
二井寺は、中世には代々皇室の勅願寺となり、以降、大内氏・毛利氏・吉川氏の崇敬も厚く、参詣する多くの庶民で賑わっていた。

千束の妙見道の道標

妙見道の道標は、左右2基の灯篭の内側に2基あり、いずれも花崗岩の切り石柱で、一面に「これよりめうけん乃ふもとまで二十一丁」、「妙見道従是」と、それぞれ刻まれている。
灯篭の一対には、寛政9年(1797)、天保4年(1883)の年号がそれぞれ刻まれている。

ちなみに妙見道の妙見は、周東町川上にある鮎原妙見宮(現在の鮎原劔神社)のことである。

石風呂

石風呂は19世紀初頭に著された『玖珂郡志』に、「玖珂本郷村栗屋谷の石風呂」と記載があることから18世紀後半には築造されていたと思われる。

石風呂は、西向きに開口する石室であり、床平面がほぼ円形で、周りの壁は円錐台状に立上り、天井部はドーム状になっている。床面には割石が並べられており、周囲の壁及び天井部の内面には割石が組まれていて、すき間には漆喰が詰められている。

大きさは開口部で幅65㎝、高さ100㎝で、部屋の広さは、南北195㎝、東西190㎝で、中央の高さ230㎝である。

祥雲寺の請雨作法一式 請雨経版木一式 諸龍王像画四幅 四大龍王像画 幷 仏名幅画五幅 丈観和尚像画一幅

祥雲寺には、江戸時代後期に請雨作法に用いられた請雨経版木及び祈雨法檀儀規、四大龍王像画并仏名幅画5幅、諸龍王像画4幅、丈観和尚像画1幅が所蔵されている。
これら祥雲寺に伝わる請雨作法に用いられた請雨経版木、龍王像、仏名幅、丈観和尚像など雨祭に関する資料と貴重である。

府谷三本松治水功績碑

この功績碑は弘化2年(1845)に山代(芸州)街道(萩~亀尾川)の府谷村内の改修および、水路の敷設、新田の開墾を庄屋森田杢左衛門(もりたもくざえもん)以下村民の努力で完成した功績を称えるため、時の藩主毛利敬親(もうりたかちか)が学者近藤芳樹(こんどうよしき)に命じて書かせた碑文である。