吉川元春とその子元長、広家、松寿丸の肖像画である。室町時代末期から江戸時代初期の間に描かれた肖像画であり、絵師および流派がそれぞれ異なるものの、作画技法が随所に看取出来、当時の画風を知る資料としても重要である。
そして、像主が吉川元春、元長、広家、松寿丸と中世から近世への移行期における吉川家当主およびその家族の肖像画であることも美術工芸的な価値だけでなく、歴史資料としての価値もそなえた資料であることが看取出来る。
また、賛についても吉川元長像には周伯恵雍による賛、吉川広家像には江月宗玩による賛があり、元長、広家の仏教に対する造詣や仏僧との交流関係を示す点においても歴史資料的価値は高いといえる。
箱書きによれば、室町時代の文安5年(1448)、福王寺(ふくおうじ)住持が願主となって制作されたことが確認できる。
仏像を始め絵画全般に至る精緻な描写、鋭い筆法、岩、土波の筆運びなどに時代相応のものが認められる。
絵本体の寸法は、縦119.5cm、幅55.4cmで、絹の布地の中央に釈迦如来、左右に文殊菩薩と普賢菩薩、その両側に玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)や深沙大将(じんじゃだいしょう)を含む九尊が極彩色で描かれている。
過去に享和2年(1802)、表装の修理が行われているが、近年、全体的に横折れが多く、絵本体の傷みが激しくなってきていたので、平成5年度(1993)に546年ぶりの全面修復を実施した。
縦83.8cm、横45.0cm。掛幅装。釈迦如来(しゃかにょらい)を中心に下辺に玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)と深沙大将(じんじゃだいしょう)を配し、左右に善神16尊が立つ。絹地に裏彩色を施した彩色画で、見事な彩色技法と明確な描線で描かれた鎌倉時代末期の制作と推定される優品である。
箱書と寄進状によると岩国藩が高野山より入手して、正徳元年(1711)の再建にあたり寄進した。昭和61年度(1986)に保存修理を行っている。
図の上部には「湖亭春望」と題された七言律詩が書かれており、「天與老雪」の名と「清啓」の朱文方印があるので、賛者は天與清啓(てんよせいけい)であることがわかる。関防印は「暁遠夜鶴」である。
湖亭春望図には印章、落款ともないが、雪舟筆の伝えがあり、天與清啓の賛がある。
賛を賦した天與清啓は、臨済宗大鑑派の禅僧であり、大内盛見(1377~1431、1409~25在京)、大内教弘(1420~65)父子との関係があった。享徳2年(1453)と応仁元年(1467)の二度にわたって遣明使節となっている。二度目の時は正使であり、渡明の一行の中には、別船であるが雪舟もおり親交があった。
天與清啓は、山口市源久寺所蔵の仁保弘有像にも、寛正6年(1465)8月、着賛している。湖亭春望図には、彼が渡航を前に周防に滞在していた時期(寛正6年又は7年の春か)に著賛した可能性がある。
また、狩野探幽(1602~74)により、「雪舟筆」、「自賛」の「山水」と鑑定されている。
湖亭春望図は日本の水墨画を特色づけている、淡く美しい彩色が施されており、製作時期が限定できる山水画としても重要である。
涅槃図は、釈迦の入滅とその嘆き悲しむ仏弟子や菩薩・諸天、在家信者、動物などによって構成される絵で、縦約3.6m横約2.7mの絹本着色の軸物である。
天正9年(1581)に善慧大師(ぜんえたいし)によって描かれた。
涅槃図は、釈迦の入滅とその嘆き悲しむ仏弟子や菩薩・諸天、在家信者、動物などによって構成される絵であり、釈迦の命日にあたる涅槃会を行う際に掛けるものである。
この涅槃図は、正統な絵仏師が描く仏画とは異なり、涅槃に集う仏・人物・動物などの数が多く、作者が自由に描いている。
淡彩画に近い彩色で、素朴で自由な筆致による文人画ような作風である。
箱書によれば、祥雲寺5世石窓得雲(せきそうとくうん)の代の元文3~宝暦8(1738~58)年に制作され、文化13年(1816)に祥雲寺10世知足丈観(ちそくじょうかん)の代に再表具したものと記述がある。
作者は岩国藩の絵師、内田虚白斎(うちだきょはくさい)で、現存する作品が少なく、貴重である。
縦85.0cm、横36.0cmの比較的小さい掛幅である。
上部に光明真言二十三字を金泥でそれぞれ小円の中に書き、これを右から円形に並べた、いわゆる字輪の内部に、智拳印(ちけんいん)を結ぶ金剛界(こんごうかい)の大日如来の坐像を描き、中央に開敷蓮華(かいしきれんげ)の華台に定印を結ぶ胎蔵界(たいぞうかい)の大日如来の坐像をあらわし、八葉の蓮弁に、上部から向かって右廻りに宝幢如来(ほうどうにょらい)・普賢菩薩(ふげんぼさつ)・開敷華王如来(かいしきかおうにょらい)・文殊菩薩・無量寿如来(むりょうじゅにょらい)・観世音菩薩・天鼓電音如来・弥勒菩薩の八尊を配した、胎蔵界曼荼羅の中台八葉院を描き、さらに下部に蓮台を描いている。
幅の裏面に光明曼荼羅の墨書があるが、その図柄推して光明真言曼荼羅と、金剛界・胎蔵界曼荼羅とを合体したものと見られる。
光明真言曼荼羅は光明真言破地獄曼荼羅とも称し、光明真言二十三字を右から円形に書いた字論をいう。これはこの真言の一つ一つの字から放つところの光明が遍く衆生界を照らして無明煩悩の暗黒を破るという意味があり、字論から四方に放射線状に細い線を無数に墨書しているのは、これを表すものと思われる。細めの絹に金泥彩の極彩色で描いている。
下方の蓮台、殊にその蓮弁の描法等から、制作の時代は江戸初期ごろのものと見られるが、筆致はまことに精緻である。
本幅は先にも述べたように、おそらく光明真言に金・胎両部曼荼羅の中尊をいれて両界の意味を持たしたもので、光明真言両界曼荼羅とでも呼ぶべきものと考えられ、珍しいものである。
縦107.6㎝、横51.4㎝の絹地に彩色した仏国国師(1241~1316 後嵯峨天皇の第三皇子)の頂相(肖像画)。
延慶2年(1309)大内弘幸が仏国国師を開山として建立した古刹、岩国横山の臨済宗永興寺の旧蔵品で、作者は不明であるが、鎌倉の円覚寺の住持をつとめた霊山道隠(1325没)の賛があり、製作の時期が14世紀初期と考えられる山口県内では最も古い頂相で、貴重である。
付(つけたり)は、縦119.5㎝、横61.0㎝の絹地に彩色した仏国国師の頂相で、吉川家御用絵師斉藤等室(1668没 雲谷派)の筆で、黄檗宗の開祖、隠元隆琦(いんげんりゅうき)の賛がある。
巻子仕立て。上下2巻からなる。
椎尾八幡宮は平家の家人であった岩国氏一族に関係する神社とみられ、暦応3年(1340)や永享11年(1439)の棟札には岩国氏一族の名がみられる。
縁起は文明15年(1483)に描かれて、八幡宮に奉納されたものであり、縁起の奥書(奥付)には、八幡宮が所在する河内郷の豪族とみられる行宗次郎右衛門尉(ゆきむねじろうえもんい)が願主となり、祖生郷の渡辺左近将監毘(わたなべさこんしょうげんび)に絵を描かせ、小周防白石の神代部了重(こうじろべりょうじゅう)には詞書をもらい奉納したと書かれている。このように願主、絵師、筆者の名前や時期が明らかになっているものは貴重である。
また、付の貞享4年(1687)の縁起は、文明15年のものを書写したもので、こちらも江戸時代の八幡縁起の書写の状況がわかる資料として重要である。
紙本着色の合戦図。八曲半双(右隻)の屏風で縦171.2㎝、横(全長)568.5㎝。
軍学書『甲陽軍鑑』に基づいて、永禄4年(1561)に行われた川中島の合戦の様子を描いた八曲一双のうち、右隻部分の屏風である。17世紀代の作品としては岩国本と紀州本(和歌山県立博物館蔵)の2例のみで、歴史的にも美術的にも価値は高い。
右隻側は上杉側を迎え撃つ武田軍の陣立ての様子を描いている。こうした描写は珍しく、大変、貴重な構図である。
紙本着色の合戦図。八曲半双(左隻)の屏風で縦172.2㎝、横(全長)563.9㎝。
軍学書『甲陽軍鑑』に基づいて、永禄4年(1561)に行われた川中島の合戦の様子を描いた八曲一双のうち、左隻部分の屏風である。17世紀代の作品としては岩国本と紀州本(和歌山県立博物館蔵)の2例のみで、歴史的にも美術的にも価値は高い。
左隻側は合戦の様子を描いており、馬にまたがり、白頭巾に陣羽織を着た上杉謙信が太刀を振り下ろし、床几から立って軍配でそれを受け止める武田信玄の一騎打ちの描写などがある。