中ノ川山一里塚

この一里塚は、藩政初期、萩城下唐樋札場(からひさつば)を基点として防長両国内の主要街道に一里おきに築造されたうちの一つで、安芸境秋掛村亀尾川(美和町秋掛)に通じる山代街道沿いに設置された25基の一里塚の内の一つに当たる。

萩から数えて24番目、安芸国境からは2番目のもので、塚木には「萩松本より弐拾三里 安芸境亀尾川より壱里十六丁」と記されていた。自然石を積み上げた角の丸い四角形をなしており、上部はほぼ平らである。正面右側の石組みが一部崩れているが、全体としてよく原形をとどめている。

設置時期については、『防長風土注進案』(ぼうちょうふうどちゅうしんあん)には、江戸時代の正保2年(1645)、幕府の命により萩藩が、正保国絵図を作成した際、萩藩士の三輪伊兵衛が秋掛村亀尾川を訪れ、安芸国夷ヶ垰(えびすがとうげ)からの間数を調べて一里塚を築いたとする記述があり、17世紀中頃には築かれたものと考えられる。

岩国藩主吉川家墓所

墓所は、横山の通称寺谷地区に所在し、岩国に入府した岩国吉川家初代広家から、6代経永を除く12代経幹までの当主及びその一族の墓が51基あり、指定面積は9615㎡である。

墓所が形成されるのは寛永2年(1625)広家が没した年からであるが、墓所の中心を占める寺谷口御塔場は、2代広正が没した翌年寛文7年(1667)3代広嘉によるもので、石工は大阪から召し寄せられて造営された。

岩国藩御用所日記に延宝7年(1679)に造営された3代広嘉(玄真院)の石塔建立には、350~360の人夫が当たったと記録されており、いかに大工事であったか窺える。

墓所の中には、京都の小堀家から贈られたと伝えられる、遠州好みの「誰が袖の手水鉢」(現存品は写し)や、茶人上田宗箇が広家に贈ったといわれる「みみずくの手水鉢」など優れた工芸品も残され、石造文化財として貴重であると同時に、近世大名家の葬制を知る上で重要である。

高森城址

高森城は『防長風土注進案』(ぼうちょうふうどちゅうしんあん)によれば、宝徳元年(1449)ごろ大内氏家臣・岐志四郎左衛門通明(きししろうざえもんみちあき)により築城された。

城は大内氏が安芸へ向かう際の戦略上の拠点となっており、大内氏の滅亡後、周防を支配した毛利氏は高森城に坂新五左衛門(さかしんござえもん)を入れ、山代地方の平定にあたらせた。

城址には、本丸・二の丸・三の丸・郭・付郭・武者走り・空堀・見張り台・出丸の施設が残る。また、南側急崖に造成された四段の郭群は築城当時のものでなく、大内義長の時期か、毛利氏の周防支配の時期(16世紀中頃)に造成されたとみられる。

 

芥川龍之介父系菩提寺(芥川龍之介父子碑)

芥川龍之介の実父、新原敏三は美和町生見の出身であり、真教寺は龍之介父系の菩提寺である。

明治の初め敏三は上京しやがて元幕臣芥川家の三女フクと結婚し三子を得た。
末子である新原龍之助は幼いころ母死亡の為芥川家で養育され、13才の時、芥川家の養子となり芥川龍之介となった。成長し東大卒業後海軍機関学校教官となり、航海見学で由宇まで来航し、帰途錦帯橋見学の為岩国へ来ている。
橋上から山々を望見し岩国の奥と聞いていた父の故郷を心中に銘記したと推察される。

航海見学の為延期されていた「羅生門出版記念会」が龍之介帰京の直後日本橋の「鴻の巣」で開催された。
これは錦帯橋見学の僅か2日か3日後の事である。当日依頼され揮毫したのが「本是山中人」で、龍之介が岩国での記憶を深く心に秘めて書いた望郷の一文である。
文意は誰にも解明されず謎とされていた。

真意は龍之介の没後、約30年後、芥川の番記者であった沖本常吉の研究と、佐藤春夫によって、文の「山中」は敏三の故郷である生見村であると明らかにされた。

昭和六十二年に建立の当碑は、龍之介の深い思いの本碑の碑文と遺族の願い。真筆による作品と署名の副碑があり、芥川文学碑のなかでも重要なものである。

処刑場跡

当所は江戸時代の山代街道沿いにあり、当時の秋掛村と本郷村の境である引地峠におかれていた。
昭和初期まで、処刑される人々がつながれたという松の大木があったとされ、また刑に用いられた刀を洗ったと伝えられる池の跡も近くに残っている。

 

当村餓死人三百人之墓 付 三百四人過去帳

享保17年(1732)、蝗害による飢饉で、秋ごろから翌年夏ごろにかけ、下畑村(現下畑小学校区)では304人の餓死者がでた。
享保17年当時の人口は不明であるが、下畑村では2割から3割程度が餓死したと思われる。このとき、山代33村で34,716人、全国では約260万人が餓死したという。

生きのこった村人たちは、この供養塔を建て餓死者の追弔を行った。ここにある五輪石などは、きちんとした弔いもできず家の近くに葬り、形ばかりの墓石として置いていたのを持ち寄ったものと伝えられている。

臼田古墳の遺構及び出土遺物一括

本古墳は、6世紀後半、古墳時代後期に築造されたもので、山口県内で数少ない両袖式横穴式石室で、地形の制約をうけて、開口方向は南西である。
玄室の奥行は4.0m、幅2.2m、室内高2.5mで、裾部の幅は1.1m、羡道の長さは1.8mが残っている。石室の遺存状態が比較的よく、当地における良好な資料である。

遺物は、須恵器の坏蓋・身・壷・𤭯・高坏、土師器の高坏・坏、鉄製品の刀子、鋲金具、鉄釘、鉄鏃、針、槍鉋、人の大腿骨頭片が出土している。

筏山古墳移築石室及び出土人骨一括

本古墳は、古墳時代前期に築造された古墳で、石室は礫床を有する竪穴式石室で、石室内から人骨が殆ど完形を保って出土した。

人骨は仰臥伸展葬の老年男子1体で、頭蓋骨下顎骨、脊椎がほぼ完形を保ち、肋骨と四肢骨はかなり腐朽しており、掌骨は完全に腐朽している。歯は上顎7本欠除、下顎1本欠除しており、頭蓋骨及び下顎骨には明瞭に赤色の顔料が付着している。

県東部の古墳時代の人骨の出土は、例が少なく貴重である。

また、本古墳は、昭和30年2月9日、国道2号線の工事現場の土砂掘削中に発見されたものであり、緊急発掘調査後、石室は、玖珂町立玖珂中学校の裏山に移築保存されている。

周防源氏武田氏屋敷跡及び墓所

周防源氏武田氏は、天文9(1540)年11月、安芸源氏武田小三郎が毛利元就の援助により周防欽明路に移り、周防源氏武田氏の祖となり刑部少輔と称した。
その後、文政元年(1818)、12世武田宗左衛門(号笑山)が、文武両道の稽古屋敷を設けた。稽古屋敷は、明治初期の中野口小学校の前身となった。

また、屋敷内の西部及び北側山地に、武田氏代々の宝篋印塔や五輪塔をはじめとする墓石が設置されている墓所がある。

北方古墳

この古墳は、昭和34年(1959)3月、北方在住の河付和人氏による巨石(古墳の天井石)の発見が端緒となり、文化財保護委員会の許可を得て、山口大学小野忠熙(おのただひろ)教授の指導のもと、山口大学学生、地元関係者、土地所有者(杉本法彦氏)の献身的奉仕と協力によって発掘された。

全長7.5mの横穴式石室をもつ古墳で、古墳時代後期(6世紀頃)の玖西盆地を支配した豪族の墳墓と推定される。副葬品として、鉄製の武器・馬具・工具・装身具・須恵器が出土した。

井上豊後守就正墓

墓は大歳原の丘陵地上に立地する。
凝灰岩製の宝筐印塔で、総高158cm、基礎の正面中央に「前豊州齢岳宗松居士」、向かって右に「于時慶長十七年」、左に「壬子十二月十一日」と陰刻している。天野隆重・元嘉の墓と同様、近世初期様式の典型的な宝筐印塔である。

天野元嘉墓 付 天野元嘉夫人墓

天野元嘉は天野隆重の五男である。
隆重の没後、その跡を元嘉が継ぎ、関ヶ原の戦いの後、吉川広家の組下として毛利輝元から椙杜900石(のち500石)の地を宛がわれ、久田に移り住んだ。慶長17年(1612)11月20日没。墓は通化寺の境内地にあり、元嘉夫人の墓も並んで建っている。凝灰岩(俗に平野石)製の宝筐印塔で、基台・基礎・塔身・笠・相輪(露盤・請花・宝珠)と積み上げているが、ずんぐりとした相輪、隅飾りが外に張り出し軒の厚い笠、基礎の銘文の刻みよう、線彫りの丈長の反花を配する基台など、近世初期の特色をよく示している。

また、基礎の正面に次の陰刻がある。元嘉墓(総高177.4cm)は中央に「大円宗覚居士」、右に「于時慶長十七壬子季」、左に「十一月念日」と刻まれており、元嘉夫人墓は中央に「寂孤円原珠大姉」、中央下に「需覚生」、右に「慶長十年己巳」、左に「十月十四日」と刻まれている。

 

天野隆重墓 付 天野隆重夫人墓

天野隆重は天野家第11代当主である。
隆重のときに初めて毛利元就に仕え、尼子氏との戦いで軍功があり、晩年は出雲国八雲村(現在の島根県松江市八雲町)の熊野城に住み、天正12年(1584)3月7日同地で没した。
墓は通化寺の境内地にあり、隆重夫人の墓も並んで建っている。
凝灰岩(俗に平野石)製の宝筐印塔で、基台・基礎・塔身・笠・相輪(露盤・請花・宝珠)と積み上げているが、ずんぐりとした相輪、隅飾りが外に張り出し軒の厚い笠、基礎の銘文の刻みよう、線彫りの丈長の反花を配する基台など、近世初期の特色をよく示している。

また、基礎の正面に次の陰刻がある。隆重墓(総高156cm)は中央に「一峯円月居士」、その向かって右に「天正十二甲甲」、左に「四月初七日」と刻まれている。この墓は元嘉が久田(くでん)に定住後、出雲国から遺骨を移して建てたものである。隆重夫人の墓は中央に「為明山久花大姉」、右に「于時慶長十四己酉年」、左に「八月廿九日」と刻まれている。

渡辺飛騨守宝篋印塔及び関係宝篋印塔

渡辺飛騨守は本名を渡辺長(わたなべはじめ)といい、毛利元就、輝元に仕えた武将である。天文24年(1555)の厳島合戦のほか、永禄4年(1561)の第四次門司城の戦いなどに従軍し活躍した。慶長5年(1600)の関ケ原の戦いのあと、周防国に移り、広瀬村、湯野村(現 周南市)、高泊村(現 山陽小野田市)で計2923石4斗の地を与えられ、広瀬村の朝霞城(あさがすみじょう)を居城とした。慶長17年(1612)2月24日死去、79歳。妻は元和元年(1615)死去。長子は元(もと)で五郎右衛門と称していたが、後に土佐守を賜った。元和4年(1618)7月12日死亡。67歳。

宝篋印塔は渡辺飛騨守(長)と夫人、子の元の3基である。

早尾坂漆ヶ坪一里塚

一里塚は、旅人の目印として街道の側に1里(約3.927㎞)毎に設置した塚である。この一里塚は山代街道沿いに設置されたものの一つである。山代街道は萩から安芸国(広島県)に接する秋掛村亀尾川をつなぐ江戸時代の街道であった。

一里塚は盛土とした塚の周囲に自然石を積み上げ貼石としたもので、上部には樹木が宇植えられていたとされる。製作年代は、寛永18年(1641)とみられる。