極楽寺薬師堂

極楽寺は『新寺縁起』(にいでらえんぎ)によると秦皆足(はたのみなたり)によって天平16年(744)に創建されたと伝えられている寺であり、平安時代末期に成立した仏教説話集の『今昔物語』(こんじゃくものがたりしゅう)、鎌倉時代に編纂された仏教の通史である『元亨釈書』(げんこうしゃくしょ)にも観音霊場としての記述がある寺院である。

薬師堂はその境内にあり、桁行3間(5.75m)、梁間3間(5.74m)、重層屋根、方形造り、本瓦葺、全体は素木造りの建物である。万治3年(1660)に梅枝薬師堂(ばいしやくしどう)として岩国横山の白山比咩神社(しらやまひめ)境内にあったものを、元文4年(1739)同じ横山地内の寺谷に移し、さらに明治6年(1873)に極楽寺に移築したものである。

岩国学校校舎

岩国学校は、明治3年(1870)岩国藩主が藩中の青少年を教育するため学制の大改革を行い、旧兵学校と文学校を公中学・公小学に組織を改めて現在地の近くに新築、翌4年2月に開校したものである。校舎は上層を教員詰所、下層を教室にした二階建てであったが、学制発布の明治5年に三階を増築した。

当初の部分はほぼ和風様式であるが、増築した三階は屋根鉄板葺きアーチ窓、ヨロイ戸付、しっくい大壁造りの洋風である。

この和洋を混淆した手法は、明治初年の教育制度の激しい変革と文明開化の気運を象徴するもので、全国に現存する明治初年の学校建築の中においても様式の特異性において他に例を見ない。昭和47年8月に解体修理を実施している。

香川家長屋門

岩国市横山二丁目に所在する岩国藩家老香川家の表門である。17世紀末、元禄年間の当主、香川正恒(かがわまさつね)のとき、大工大屋某によって建てられたものと伝える。

桁行23.29m、梁間4.85mで、屋根は入母屋造りで本瓦葺きである。正面に向かって左寄りに出入り口があり、大小の扉をしつらえている。門の左側は茶屋が設けられ、右側は三部屋に分かれ、仲間部屋、武道場(板敷)、厩に当てられていたという。

岩国市内の木造建造物として最古級のものの一つで、岩国城下町の風情を残す建物である。

旧吉川家岩国事務所

事務所、倉庫、便所の3棟からなる。事務所は、木造、寄棟造、2階建、桟瓦葺、床面積234.28㎡。倉庫は、木造、切妻造、2階建、桟瓦葺、床面積79.52㎡。便所は、木造、切妻造、平屋建、桟瓦葺、床面積14.30㎡(渡り廊下を含める)。

この建物は、昭和6年(1931)、吉川家岩国事務所として建設された。昭和45年頃から平成20年まで「岩国市青年の家」として使用され、現在は岩国徴古館の付属施設である。設計は堀口捨己(1895~1984)で、外部・内部ともに、ほぼ建設当時の姿をとどめている。

事務室の開口部のデザインや室の雰囲気などに初期の堀口の作風がよく出ていること、サッシュも含めて当初のものがよく残っていること、堀口の初期の作品で現存するのはいずれも洋風のものであるので、彼の系譜をたどる上で、特に和室研究の過程を知るうえで重要である。

この建物は、堀口が西洋建築を学んだあと、日本建築の研究を開始し、日本的なものを建築作品に反映させようと考え始めたころの作品にあたる。特に目立った建物ではないが、平面・構造が簡素明快であること、左右非相称、無装飾、素材の美の尊重など、建物全体に堀口の考えた日本的なものが現れている。