脇差 二王清□作

鎬造りの庵棟(いおりむね)で、刄渡り一尺六寸七分、反り四分五厘、目釘乳二つ、銘は心中に二王清□作と刻む(清の下の一字は判読不明)。
鍛えはよくつんだ板目、刄文は匂本位の中直刄、刄中の働きに、いま一つというところがあるが、鋩子は焼詰め心に味よくおさまり品がある。生ぶ心中で尋常にてよく、二王伝統の古風を残し、心中尻の味が特によろしい。
以上全体的に見て室町時代末期の二王刀工の代表的作風を具えている。

上沼田神楽

起源は、享保2年(1717)以前と伝えられているが詳細は不明である。途中、広島県の湯来(広島市佐伯区湯来町)から来た石工職人から新しい神楽を伝えられ、現在に至る。基本的な舞は出雲系である。

神楽の演目は「天神地祇」(てんしんちぎ)、「火の神」(ひのかみ)、「大国主神」(おおくにぬしのかみ)、「事代主神」(ことしろぬしのかみ)、「芝鬼人」(しばきじん)、「薙刀舞」(なぎなたのまい)、「五郎王子」(ごろうのおうじ)、「黄泉醜女」(よもつしこめ)、「天の斑駒」(あまのぶちこま)、「天孫降臨」(てんそんこうりん)、「八岐の大蛇」(やまたのおろち)の十二の舞がある。

向峠神楽

この神楽の起源は安政年間(1854~1859)と伝えられ、天保の大飢饉を憂えていた時の庄屋山田利左衛門が、十数年にわたる水路工事を完成させた記念に神楽を習得させ、地区の若者に教えて秋祭りに奉納したのが始まりとされる。大正時代には石見神楽を取り入れ現在に至っている。

神楽の演目は「潮祓」(しほはらい)、「真榊」(まさかき)、「塵倫」(じんりん)、「八幡」(はちまん)、「猿」(さる)、「熊襲」(くまそ)、「天神」(てんじん)、「黒塚」(くろづか)、「鐘馗」(しょうき)、「岩戸」(いわと)、「大江山」(おおえやま)、「八岐の大蛇」(やまたのおろち)、「貴船」(きふね)、「女神」(じゅうら)の十四の舞がある。

府谷三本松治水功績碑

この功績碑は弘化2年(1845)に山代(芸州)街道(萩~亀尾川)の府谷村内の改修および、水路の敷設、新田の開墾を庄屋森田杢左衛門(もりたもくざえもん)以下村民の努力で完成した功績を称えるため、時の藩主毛利敬親(もうりたかちか)が学者近藤芳樹(こんどうよしき)に命じて書かせた碑文である。

吉川家文書(明治追加)32巻 付 明治追加目録1刷

紙本墨書で巻子装となっており、31巻と番外1巻の中に504点の文書が収録されている。31巻は編纂する過程で分類毎に整理されており、明治追加目録によると第一~第三が「勅諚及び叡旨」、第四が「幕府告達」、第五が「忠正忠愛二公(毛利敬親、毛利元徳)手書」、第六、第七が「長徳清(長府、徳山、清末)三公手翰」、第八~第十が「有恪公(吉川経幹)手書類」、第十一~第十四が「諸藩往復書類」、第十五が「京師変動疏状類」、第十六~第二十二が「上国応接」、第二十三、第二十四が「攘夷 停戦」、第二十五が「誓神及英人応接類」、第二十六、第二十七が「偵察情報」、第二十八~第三十一が「雑」と分類されている。番外の「口宣」は目録に記載されていない。なお、各巻に収録されている文書は原本だけではなく、写、控も混在しており、編纂の過程で内容によって取捨選択がおこなわれたものと推測される。史料は第一次四境戦争、家格問題、戊辰戦争に関するものなど明治維新期において中心的役割を担った長州藩の一支藩の状況を示す史料として貴重である。

宇佐八幡宮の棟札

宇佐八幡宮の棟札は、天文十二年御神体彩色御縁起棟札(1543)、天文二十二年八幡宮御再建棟札(1553)、宝暦二年御再建棟札(1752)、安永二年御再建棟札(1773)、万延元年正遷宮棟札(1860)の五枚が現存する。その記述内容は宇佐八幡宮に係る縁起や状況・関係役人・関係者等が記載されており当時の状況を知ることができる貴重な資料である。

 

木造当国三十三番観音順礼手引

由来ならびに序が2面、本文36面、後書1面、及び未使用の原板一面、合計四十面が伝存している。材は、いずれもサクラ材と思われる。
大きさは版木によって若干の差異はあるが、おおよそ縦11.6cm、横33.4cm、厚さ1.2cm程度である。板面の文字はかなり角がとれているので、相当数の版行があったものと思われる。しかし、今なお文字は明瞭で、小虫喰いのため若干の欠字箇所があるが、保存は概して良好である。手引の版行は江戸時代の札所巡拝の盛行を物語るものであり、このような案内書は順拝者の要望に応えるものでもあった。同時にこの手引書は周防国における三十三観音の信仰資料としても重要である。いま版木が完全な形で揃って極楽寺に伝存したことは貴重である。

光明寺 鰐口

鼓面径18.6cmの小型の鰐口である。表面銘帯の左右に次のような銘文を陰刻している。左側「奉施入鰐口一口」、右側「応永二十五年正月八日施主安信敬白」と読まれる。「奉施入」とだけで、どこに施入されたか不明である。施主安信としては特に施入先を記入するまでもなく、身近なことなのでその必要を認めなかったのかも知れない。伝来によれば、祖生の光明寺に懸けられていたものという。防長の鰐口には撞座文のないものが多い中で、片面だけでもこれを持っていることが注目される。
また、蓮華文も小型であるが、形式化されない時代相応のよさを持っている。表面左右の目から銘帯にかけて小亀裂があるほかは、保存も概して良好である。

制作年代は銘文にある応永25年(1418)で、貴重な資料である。

出師の檄及び長州征伐の記録

出師の檄は慶応2年(1866)の幕府軍による長州征伐に備え、当時長州軍が他の藩に進出した際、これを各所に掲げその領地の住民に「この度の長州藩出兵の意図を釈明して協力を求めるため」の高札で、縦88㎝、横120㎝の一枚板でつくられている。

当時、山代口の本陣であった大原の讃井家で発見されたもので、藩の出兵の意義と民衆への治安宣撫を忘れない周到な配慮をうかがうことのできる貴重な資料である。

長州征伐の記録は「防長運話(ぼうちょううんわ)」と呼ばれるもので、讃井家十六代当主、知喬(ともたか)の命により、隅昌武(すみまさたけ)の書いたものである。当時長州藩は挙藩一致総ぐるみで郷土死守の決意を固めたもので、当時の国内外の動きや、これに対処する防長士民の熱意をうかがうことのできる貴重な資料である。特に山代大原口の陣容、猟銃隊結成状況、応援隊の状況、芸州口の戦闘状況、偕行団との紛争事件などを記録している。

具足

この具足七領は関ヶ原合戦後、久原村に来住した天野元嘉(あまのもとよし)の子孫の家に伝世したもので、明治維新後、天野氏がこの地を去るに際し、同村の住民、木村納蔵氏に保管を依頼し、のちに河内神社に奉納されたものである。

これらの具足は戦国時代末期から江戸時代初期(16世紀末から17世紀初頭)に造られたものと考えられる。将領二領・軽卒用五領とまとまっており、郷土での伝来が明らかな点を考えると貴重なものである。

香川家文書

香川家歴代の当主あるいはその家族にあてられた公私の文書集である。香川家は岩国藩家老職という家柄のため、藩主吉川家からの受領文書が多く、広家の書状160通のほか、広正、広嘉期のものが60通と近世初期の文書が多いのが特徴であり、近世岩国藩の状況を知る良好な史料と言える。

また、重要文化財に指定されている吉川家文書のうちの吉川家文書別集として収録されている西禅永興寺旧蔵文書、宮庄家旧蔵文書などがあるが、香川家文書はこれらと同類の文書集で、文書量においてはこれらを凌駕しているため吉川家文書を補完する意味でも貴重な史料である。

大乗経(二百巻)

大乗とは利他救済の立場から広く人間全体の平等と成仏を説き、それが仏の教えの真の大道であるとする教えであり、その教えをとく経典を大乗経といい、『大般涅槃経』などの経典、二百巻を箱に納めている。制作年代、制作者等は不明であるが、巻末に永正2年(1505)、天文13年(1544)、寛政2年(1791)の三度の補修の年代が記録されており、最初の補修である永正2年より古い年代に制作されたものと思われる。

また、天文13年(1544)の補修には、深龍寺の開基となる深川将監藤原朝臣胤兼(ふかがわしょうげんふじわらあそんたねかね)の名が出ている。

祥雲寺の木造薬師如来座像ほか

祥雲寺の木造薬師如来座像ほか8躯うち7躯は、薬師如来座像を本尊とし、左に日光菩薩立像、右に月光菩薩立像が配置され、さらに日光菩薩立像の左前に増長天立像、後面に広目天立像、月光菩薩立像の右前に持国天立像、後面に多聞天立像がそれぞれ配置されて本尊を守っている。本尊木造薬師如来座像は、像高51.9㎝で平安時代末期(12世紀)の制作とされる。

本尊の台座、光背、脇侍の日光・月光菩薩は、すべて江戸時代のものである。本尊の薬師如来像、脇侍の日光・月光菩薩、四天王が揃っているのは県下でも有数であり、きわめて貴重である。

十一面千手観音座像は、寄せ木造り全面金箔張りであり、内面金箔張りの厨子に安置されている秘仏である。制作年代は、戦国時代から江戸時代初期にかけての逸品である。

地蔵菩薩立像は、江戸時代の制作で保存状態もよい逸品である。

松濤軒記

この記の書体は、江戸時代に流行した御家流のものとは違っており、室町時代五山文学僧の伝統的な書の格調を伝えるものである。

松濤軒は松巌院境内にある隠寮(茶席)で、この南面に県指定となっている庭園がある。

1859年の「松濤軒記」には、庭園がその庭が天渓翁(てんけいおう)による作庭であると伝えており、記述から天保15年(1844)以前には松濤軒および庭園が造られていたと考えられる。

「松濤軒記」は、作庭記録として、年代や作庭者がわかるものであり、庭園史でも貴重な資料である。

鮎原剣神社穹崇橋 付 神苑ニ関スル経費明細簿、神社昇格願書

鮎原剣神社の参道橋として、現在の県道130号・本郷周東線から対岸の神社境内へ渡るために、川上川に架橋されたのが穹崇橋である。完成は大正6年(1917)で、山口県内に現存する数少ない石アーチ橋の一つである。また、信仰上の理由から曲線を描いたアーチ形(あくまでも形のみ)が採用されることが多い寺社の参道橋の中で、山口県内では唯一、隣り合う迫石(もしくは輪石)同士の圧縮応力によって構造体を支える石アーチ橋である。穹崇橋は、橋長7.195mに対して、アーチ径間(スパン)は7.055m、拱矢は2.903mで、極めて半円に近い欠円アーチとなっており、35個の迫石でアーチが構成されている。なお、地上(人間界)と天上(神界)を結ぶために神社参道の社頭近くに架けられる橋は、参道に位置することから「参道橋」と呼ばれることが多く、またその形態から「太鼓橋」と名付けられたり、宗教的な意味合い(神が通る橋で、通常、人間は通れないこと)から「神橋」と呼称されたりするが、穹崇橋の場合は、空に向かって弓を張っている形から名付けられたと言われる。

付の『神苑ニ関スル経費明細簿』は、支払いの明細を通じて、事前の準備をはじめ、石工や工事関係者、基礎工事の方法、建設資材の種類・数量・価格まで、すべての事項が時系列でわかる極めて貴重な資料である。

『神社昇格願書』の「社殿並工作物之部」には、「神橋 穹崇橋 石造無脚半圓形」「大正六年二月一日 建築 新」の記載があり、穹崇橋の構造、形態とともに竣工日が分かる。また、添付されている「鮎原劔神社全景見取圖」には社殿、参道、神橋(穹崇橋)の他、神苑も描かれており、昭和26(1951)年頃の水害で大部分が流出してしまった神苑の様子も伺い知ることができる。なお、それほどの被害が出た洪水でも穹崇橋は流されなかったということを意味している。

織田信長天正茶会記

桃山時代の天正元年(1573)、同2年の京都において、織田信長が催した三回の茶会の記録であり、寛永年間(1624~44)に津田江月(津田宗及の子)から岩国藩の家老香川春継の子(家景か)に贈られたと伝えられている。縦24.5㎝、横239.0㎝の巻物となっている。

筆者は津田宗及と伝えられており、書体からも天正初期に記述されたことが看取出来る。この資料は天正初年の茶会の様式を具体的に記録している点で、貴重であり、茶道史の側面からも重要である。

梵鐘

鐘は通高93.2㎝、口径54.5㎝センチメートルの中型で一区内4段4列の乳を持ち、鐘座は2ヶ所で共に単弁の蓮華座で尖頭の細長い花弁は特色がある。銘は一区から三区の前半にわたって文明17年(1485)に刻まれた原銘が13行107字、三区の後半と四区に天文2年(1533)に刻まれた追銘が17行193字陰刻されている。

銘によると文明17年(1485)に、大工信吉が伊予国越智郡桜井郷(現今治市)の伊予国分寺のために鋳造したもので、その後、天文2年(1533)に深龍寺の開基、藤原朝臣胤兼(ふじわらのあそんたねかね)が深龍寺のためにその鐘を寄進したものである。また銘文にある藤原朝臣胤兼は、深川胤兼(ふかがわたねかね)とみられ、当時深川の地を治めていた国人と推測される。

色々威腹巻 付 負櫃

岩国六代藩主吉川経永(きっかわつねなが)が岩国明珍家の祖である甲冑師明珍又ヱ門宗性に命じて、寛保2年(1740)に製作させた、華美で豪華な甲冑である。

金属類には、繊細で見事な彫刻(浮彫・透彫・毛彫・魚々子)が多く用いられている。この他、漆、糸の染色、布帛といった素材についても上品なものである。

全体的に古式に則ってはいるが、江戸期の明珍派の特色を良く伝え、当世具足的要素を加味し、取付式の弦走革を用いるなど、独創的な手法を用いた甲冑として貴重である。

 

鉄錆地百廿間筋兜鉢 銘 明珍宗家作

兜は、鉢高13.8㎝、前後径22.7㎝、左右径19㎝で、枚張は118枚である。

この筋兜は、薄い鉄板を縦に矧合せ、筋と筋との間の数が120間あって鉄鋲で平留にして形成している。表面は、錆地で腰巻を周らせた鉢で、眉庇や𩊱(しころ)など付属品はない。裏には、「明珍宗家作」と刻銘がある。作者である明珍宗家は、明珍宗家(みょうちんそうけ)の19代目で桃山時代に活躍した甲冑師である。その宗家の作品は、いずれも前後に長く脹らみをもたせて技巧的になっている。現存する筋兜では200間(京都国立博物館蔵)が最も多く、120間は明珍家や根尾家の甲冑師作に見ることができるがその多くは江戸時代の作である。そのため、この兜鉢は桃山時代の作として資料的価値が高い。

桐・九曜紋蒔絵挾箱 付 目録

大きさは横幅58.1㎝、奥行39.8㎝、高さは箱38.8㎝、蓋7.8㎝である。

挾箱は外出に際し、具足や着替用の衣服などを中に入れ、棒を通して従者にかつがせた箱で、江戸時代には定紋をつけて武家の格式を示した。

造りは印籠造りで、身に比べて蓋が浅く、垂直、水平線の組み合わせにより構成されている器形は整然として、厳正な印象を与えている。各面の対角線には鍍金桐唐草文毛彫金物をはめて、鋭さがいっそう強調され、それが蒔絵と金具の桐・九曜紋と金梨地に松・橘文蒔絵の意匠に和している。

派手な図様を器面全体に描いた蒔絵の技法などから製作期は江戸中期から後期と考えられる。保存状態も良く、加えて吉川家伝来であることも目録から判明している。