有延の二井寺道の道標

二井寺道の道標は、花崗岩の切石の柱の一面に、左手の指さし絵が刻まれ、その下に「右ニ二井寺道」と刻まれている。
二井寺は、中世には代々皇室の勅願寺となり、以降、大内氏・毛利氏・吉川氏の崇敬も厚く、参詣する多くの庶民で賑わっていた。

千束の妙見道の道標

妙見道の道標は、左右2基の灯篭の内側に2基あり、いずれも花崗岩の切り石柱で、一面に「これよりめうけん乃ふもとまで二十一丁」、「妙見道従是」と、それぞれ刻まれている。
灯篭の一対には、寛政9年(1797)、天保4年(1883)の年号がそれぞれ刻まれている。

ちなみに妙見道の妙見は、周東町川上にある鮎原妙見宮(現在の鮎原劔神社)のことである。

石風呂

石風呂は19世紀初頭に著された『玖珂郡志』に、「玖珂本郷村栗屋谷の石風呂」と記載があることから18世紀後半には築造されていたと思われる。

石風呂は、西向きに開口する石室であり、床平面がほぼ円形で、周りの壁は円錐台状に立上り、天井部はドーム状になっている。床面には割石が並べられており、周囲の壁及び天井部の内面には割石が組まれていて、すき間には漆喰が詰められている。

大きさは開口部で幅65㎝、高さ100㎝で、部屋の広さは、南北195㎝、東西190㎝で、中央の高さ230㎝である。

祥雲寺の請雨作法一式 請雨経版木一式 諸龍王像画四幅 四大龍王像画 幷 仏名幅画五幅 丈観和尚像画一幅

祥雲寺には、江戸時代後期に請雨作法に用いられた請雨経版木及び祈雨法檀儀規、四大龍王像画并仏名幅画5幅、諸龍王像画4幅、丈観和尚像画1幅が所蔵されている。
これら祥雲寺に伝わる請雨作法に用いられた請雨経版木、龍王像、仏名幅、丈観和尚像など雨祭に関する資料と貴重である。

紙本墨書極楽寺文書

極楽寺に伝存する中世文書6通を巻物に仕立てたもので、その内容は次のとおりである。
一、天文八年五月二十三日 後奈良天皇綸旨 一通
二、(年未詳)六月三日 後奈良天皇口宣 一通(権中納言広橋兼秀執達状)
三、(年未詳)二月朔日 豊臣秀吉書状 一通
四、弘治二年六月四日 毛利元就・隆元連署、新寺別当職補任状 一通
五、永禄十一年九月十八日 毛利輝元、新寺別当職補任状 一通
六、天正十六年二月二十八日 毛利輝元、新寺別当職補任状 一通

第一通は新寺が代々の勅願寺であることを確認し、先年火災により勅裁・院宣等をすべて紛失した由であるが、先規のように領知を全くし、皇家のために祈祷するようにとの後奈良天皇の綸旨を新寺別当宥頼に伝えたもの。
第二通は第一通の趣旨を、新寺別当宥頼に下知するようにとの、後奈良天皇の口宣を大内義隆に仰せ下されたもの。
第三通は尾崎坊が豊臣秀吉に、新春の御慶として祈祷に合わせ抹茶を送ったことに対する秀吉の礼状。
第四・五・六通は毛利元就・隆元および輝元の新寺別当に対する別当職補任状である。

極楽寺は古くからから勅願寺としての由緒を誇り、他に異なる寺格を有していたが、これらの文書はそのことを裏付ける重要な史料である。
極楽寺が度重なる寺家転退の中にあって、このような中世文書を伝存したことは貴重である。

紙本墨書伝後鳥羽天皇宸翰御消息

総縦126.5cm、総横58.4cm、縦27.9cm、横50.2cmの掛幅である。
礼紙に次のような文言が散し書きしてある。
『国の事禅閣かやうに 申候此分はまことに 子細候へき事にても さぶらず 更に いそき仰下 され候へく候 返々 このよしを 申しこせ給へ あなかしく』。

この古文書の伝来については不明である。ただ、二井寺山極楽寺が由緒深く古くから朝廷との特別の関係があったことを物語る資料として重要である。

軍配團扇

社伝によれば、軍配團扇は明治4年(1871)の廃藩置県に際し、旧藩主吉川経健が甲と共に三島神社に寄進したと伝えられている。
江戸時代に製作されたもので、軍配團扇は合戦の際に、軍兵を指揮統率するために用いられたもので、大将の携行する兵具である。

この軍配團扇は羽及び留め金、被せ金などに吉川家の家紋である九曜紋をあらわしており、吉川家当主が使用したものと思われ、羽の中央を通る柄の上には摩利支尊天の文字を記している。摩利支尊天は障難を除き、利益を与えるものとして、武士の間に守護神として広く信仰されていた。羽の面に月の文字と月の満欠けを組み合わせて表示し、星を操って戦運を占い、それに基づく独自の日取図と占いの結果を書きあらわした典型的な軍配團扇である。

保存状態は良好で、江戸時代の模式的な軍配團扇の遺品として貴重である。

木造五輪塔

この五輪塔には風、水、地輪の表面に、わずかに墨書や梵字が確認出来、供養塔として造設されたものと思われる。
地輪の底地付部の銘文によれば、この五輪塔は永正2年(1505)に十王堂に十王とともに安置するため造立するもので、その趣旨は願主の現世安穏、後生善處の願望成就を祈るところというのである。五輪塔とともに遺存する十王の2躰に「永正二年」の紀年銘があり、十王と五輪塔が同時期に造立されたことがわかる。

また、火輪の1側面に彫られた三角形の穴は何等かの納入物(或いは仏舎利か)を納めたものと思われ、室町時代末期のこの地方の十王信仰のありようを示す資料として重要である。

慈眼寺 鰐口

この鰐口は原銘により應仁元年(1467)四月廿四日に豊後州富来柳迫に所在した地蔵菩薩に奉懸されたことがわかる。
「富来」は豊後国国東半島の北東部周防灘に望む地域で豪族富来氏の本拠であった。鰐口が豊後から周防国差川の地に移されたかの由来は明らかでない。
追銘に見える「慈眼寺」は寛保元年(1714)に差川村の小都合庄屋田中十右エ門が萩藩に報告した『地下上申』によれば「杉が原と申ハ差川村之内ニ有之小名ニて御座侯、比所ニ先年杉原山慈眼寺と申禅宗有之、只今ハ観音堂ニていづれ之時か絶破仕候、観音堂山号を小名ニ申伝、杉原と申伝ニ御座侯事」と見えている。すなわち寺は寛保元年当時には廃寺になっており、その時期もはっきりしない位以前のことであったのである。この鰐口ははじめ慈限寺に懸げられ、廃絶後はその旧跡である観音堂に伝えられたのであって、このことは天保年間(1830~1843)に編集された『防長風土注進案』に記載されている。

小型の素朴な鰐口で工芸品として特に作域の優れたものとはいい難いが、製作の時代も古く、その伝来の経緯、特に古跡慈眼寺の唯一の遺品であることから貴重である。

短刀 周防国杉森住二王清綱

住所銘「杉森」は高森の古名で、刀工「二王清綱」(におうきよつな)発祥の地が周東町であることを資料的に裏付ける貴重な一刀である。

平造で刄長八寸四分五厘、反りなし、中心孔二つ。元身幅七分三厘、先身幅五分弱、重ね四分二厘。元重ねが四分を越え、重ねの重いがっしりした鎧通しの姿である。
清綱の住所銘が刻まれたものに、「玖珂庄」、「玖珂住」のものがあるが、この短刀にみられる「杉森住」は唯一のものと言える。
周東町域の大半は、かつて中世玖珂庄の庄域であり、玖珂、杉森の地名から推測して二王清綱は恐らく周東町の字千束小字道徳に伝承された清綱屋敷あたりで鍛刀したものと思われる。

向畑の左近桜

樹高19.5m、根本周囲5.8m、枝張り26.5mのサクラで、平家の落人で向畑の集落を開いたとされる広実左近頭にちなんで名付けられたという。

品種はエドヒガンである。伝承では樹齢700年以上となっている。

大原明神社の大スギ

明神社の本殿裏に生える胸高周囲6m、樹高26m、幹は三本に分かれたスギの大樹である。樹齢は推定で300年以上。

明神社は治承4年(1180)11月8日厳島神社の沖合より車輪のような龍灯が飛んできてこの地に落ちたと『防長風土注進案』で伝えられている。

宇佐玉蔵寺のコウヤマキ

根本周囲4.27m、胸高周囲3.25m、樹高21mの大樹である。コウヤマキは我が国特産の常緑高木で紀伊半島以南に自生しているが、庭園にも多く栽培されている。

この木は植えられたものと思われる。樹齢は推定で200年以上である。

向畑のカツラの木

根本周囲8m、樹高32m、枝張り20m、幹10本の巨樹である。カツラ科の落葉高木で、秋に黄色く色づいた葉は山で目立つ。

樹皮は灰褐色で、葉は対生、雌雄異株で4~5月葉の出る前にがくも花弁もない花が咲く。

木谷の宮モミジ

紅葉の名所である木谷峡のモミジのなかでひと際大きいもので香椎神社の御神木ともなっている。

樹高15.5m、胸高周囲2.1m根本周囲5.0m。『山口県植物誌』によるとモミジの種はハウチワカエデである。

権現山巨樹群

旧錦町で最古の神社と伝えられている白山神社の社叢で、権現山と呼ばれる広瀬盆地を一望できる場所で群生する。

胸高周囲5m、樹高31mのイチイガシをはじめ、クロガネモチ、ツクバネガシ、アカガシなどの巨樹がある。

寂地の満州菩提樹群生地

満州菩提樹は朝鮮半島や中国東北部で生育するシナノキ科の植物で、高さ14m、径70㎝にも達する落葉高木である。

この群生地は今のところ日本列島において唯一の自生地といわれている。朝鮮半島・旧満州から飛んでこの地に遠隔分布をすることは日本列島が大陸と陸続きであった寒冷期時代の遺存と考えられ、植物分布上注目すべきものである。

上須川河内神社の大杉

上須川河内神社は『防長寺社由来』によると永保2年(1082)讃井清原兼道(さぬいが河内国大懸郡(大県郡の誤記か、大県郡は現在の大阪府八尾市、柏原市)より勧請したと伝えられている。境内の大杉は通称「おきぬ様」と呼ばれており、御神木として祀られている。樹齢300年以上。胸高周囲5.5m、樹高65mである。

 

渡辺飛騨守宝篋印塔及び関係宝篋印塔

渡辺飛騨守は本名を渡辺長(わたなべはじめ)といい、毛利元就、輝元に仕えた武将である。天文24年(1555)の厳島合戦のほか、永禄4年(1561)の第四次門司城の戦いなどに従軍し活躍した。慶長5年(1600)の関ケ原の戦いのあと、周防国に移り、広瀬村、湯野村(現 周南市)、高泊村(現 山陽小野田市)で計2923石4斗の地を与えられ、広瀬村の朝霞城(あさがすみじょう)を居城とした。慶長17年(1612)2月24日死去、79歳。妻は元和元年(1615)死去。長子は元(もと)で五郎右衛門と称していたが、後に土佐守を賜った。元和4年(1618)7月12日死亡。67歳。

宝篋印塔は渡辺飛騨守(長)と夫人、子の元の3基である。

早尾坂漆ヶ坪一里塚

一里塚は、旅人の目印として街道の側に1里(約3.927㎞)毎に設置した塚である。この一里塚は山代街道沿いに設置されたものの一つである。山代街道は萩から安芸国(広島県)に接する秋掛村亀尾川をつなぐ江戸時代の街道であった。

一里塚は盛土とした塚の周囲に自然石を積み上げ貼石としたもので、上部には樹木が宇植えられていたとされる。製作年代は、寛永18年(1641)とみられる。