高さ13.4㎝、径は前後22.3㎝、左右20.7㎝で、錆漆を塗った64枚の台形の鉄板をはぎ合わせた部分が筋になっている兜鉢。眉庇(まびさし)は、当世眉庇と言われる戦国時代に流行したもので、中央には、三光鋲(眉庇を留める3つの鋲)の1つで、祓立(はらいたて)が固定されている。鉢裏正面の板に「宗家作」、後ろ中板に「天正六年十二月日」という銘がある。星兜の名残である四天の星が腰巻上の高い所にあること、また眉庇の固定のしかたなどが戦国時代以降の形式を帯びていることなどから判断して、安土桃山時代の作と考えられている。
宗家は明珍派宗家19代にあたり、名は久太郎で、近江国(現在の滋賀県)安土に住み、後に江戸へ移り住んだ。明珍は、平安時代に初代宗介が京都九条に住み、近衛天皇からその号を賜ったと言われ、甲冑師・鐔(つば)師としては名門である。
高さ13.2㎝、径は、前後が22.9㎝で、左右が19.6㎝で、12枚の台形の鉄板に錆漆を塗り、はぎ合わせの部分を金属で覆って筋状にした阿古陀形(あこだなり)という形式をした楕円形の兜鉢。頭頂部の八幡座は、金メッキの魚子地(ななこじ=粟粒を並べたように細かい粒を突起させたもの)に、唐草彫りの円座に裏菊の透かし彫りなどをした4重になっていて、中央の穴が極めて小さい。篠垂という細い筋金が、前に3条と後ろに2条据えられ、腰には神社等に見られる斎垣(いがき)がめぐらされている。眉庇(まびさし)はやや前に出る伏せ眉庇である。室町時代末期の特色が著しく表れている。
織田信長の所用と伝えられる胴丸である。胴の高さ36.5㎝、胴廻り114.5㎝、草摺(くさずり=胴の下にさがっていて、足の太股を守る部分)の高さ25.5㎝の軽装の鎧である。小札(こざね)は、黒漆を盛り上げて塗った本小札で、小桜模様の染め革を使って毛を返したように威し(小札を横長に綴ったものを上下につなぐこと)ている。韋所(かわどころ)には藻・牡丹・獅子を描いた革や藍染めの杉・菖蒲を描いた革などが使われ、萌黄・白・浅黄・紅・紫の5色の色糸で小さな針目を出す伏せ縫いが施されている。金具廻りには小桜鋲が使われ、綿噛(わたかみ=胴を肩から吊す革)に付けられた杏葉(ぎょうよう)には、金メッキの「織田瓜紋」が据えられている。兜は、五十二間総覆輪筋兜(兜鉢のはぎ合わせの部分を金属で覆い、筋状になっている)と言われるもので、臑当なども含めて安土桃山時代の特色を示す優れたものである。
安芸国(現在の広島県)銀山城主(かなやまじょうしゅ)・武田光和(たけだみつかず)が所用したと伝えられる胴丸。胴の高さ31.5㎝、草摺(くさずり=胴の下にさがっていて、足の太股を守る部分)の高さ23.1㎝、胴廻り(脇板)119.7㎝の活動しやすい軽装の鎧で、小札は、黒漆を盛り上げて塗った本小札を白・紅・萌黄・紫の色糸を使って、毛を伏せたように威し(小札を横長に綴ったものを上下につなぐこと)ている。金メッキの金具廻りや韋所には、藍染め革や藻・牡丹・獅子が描かれた革、熏革(くすべかわ=松葉の煙でくすべ、地を黒くして白く模様を残した革)などが使われている。黒漆を盛り上げて塗った本小札を色糸で威して作られた壷袖(袂のない袖)が付いている。
胴の高さ32.3㎝、草摺(くさずり=胴の下にさがっていて、足の太股を守る部分)の高さ20.3㎝、胴廻り(脇板)106.5㎝の室町時代に作られた胴丸(軽装の歩兵用の鎧)。小札(こざね)は黒漆塗りの本小札で、白・紅の色糸や藍染めの革を使って毛を伏せたように威し(小札を横長に綴ったものを上下につなぐこと)ている。金メッキの金具廻りや韋所(かわどころ)には、藍染め革や茶染め革、藻・牡丹・獅子が描かれた革などが使われて、萌黄・紫・黄・白の色糸で伏せ縫い(表に小さく針目を出す縫い方)がされている。
現在は錆漆塗りとなっているが、本来は32枚を張り合わせた黒漆塗りの筋兜鉢(はぎ合わせの部分を金属で覆い、筋状にしている)である。
高さ12.2㎝、鉢の径は、前後23.2㎝、左右20.6㎝で、篠垂(しのだれ)という細い金メッキの筋金が前に3条と後ろに2条据えられ、頭頂部の八幡座は金メッキの魚子地(ななこじ=粟粒を並べたように、細かい粒を突起させたもの)に枝菊を高彫りにした円座に小刻みの裏菊と玉縁など5重になっている。
腰には、神社等に見られるような斎垣(いがき)がめぐらされている。南北朝時代から室町時代初期にかけて作られたと推定されている。
表面が酸化して錆びている鉄の板を、鋲ではぎ合わせて作った兜鉢。
全体の形は、前後左右の径がほぼ等しい大円山形(だいえんざんなり)で、高さ10.8㎝、鉢の径は前後が22.6㎝、左右が20.0㎝となっている。星は、1行に16点と腰巻に1点ずつ打たれ、42枚が張られ、前正面ではぎ合わされている。
頭頂部の八幡座や眉庇(まびさし)、篠垂(しのだれ=正面や前後左右の細い筋金)、革毎(しころ=鉢の左右から後方に垂れて、首を覆うもの)などは失われているが、南北朝時代の特色をよく表している。
胴の高さ25.8㎝、胴廻り69.2㎝、草摺(くさずり=胴の下にさがっていて、足の太股を守る部分)の高さ12.7㎝の腹巻よりも簡略化された下級士卒用の防具。
小札(こざね)は、黒漆塗りの革で包まれた矢筈札(やはずざね=弓の弦をうける矢の上端の形をした札)で、浅黄色の糸で威し(小札を横長に綴ったものを上下につなぐこと)ている。
草摺の中2段と左右の1段は、糸目を粗くして所々に二筋ずつ並べて綴る素懸威(すがけおどし)となっている。
室町時代末期に作られたこの種類の腹当は、残っているものは少なく貴重である。
胴の高さ31.0㎝、胴廻り92.5㎝、草摺(くさずり=胴の下にさがっていて、足の太股を守る部分)の高さ26.4㎝の、室町時代末期に作られた鎧腹巻。
小札(こざね)は、左右の両端を少しずつ重ねたまま綴り延べた伊予札と本小札で、櫨(はぜ)・紅糸・藍染め革を使って威し(小札を横長に綴ったものを上下につなぐこと)ている。
草摺は、糸目を粗くして所々に二筋ずつ並べて綴る素懸威(すがけおどし)となっている。
金具廻りや韋所(かわどころ)には、藍染め革や茶染め革のほかに、一見ヒキガエルの背のような外形をした、しわのある蟇肌(ひきはだ)革が使われているのが珍しいと言われている。
胴の高さ28.2㎝、胴廻り100.2㎝、草摺(くさずり=胴の下に下がっていて、足の太股を守る部分)の高さ30.0㎝の鎧腹巻。
小札(こざね)は、黒漆を盛り上げて塗った本小札で、紅・紺の色糸を使って、毛を返したように威し(小札を横長に綴ったものを上下につなぐこと)ている。
腹巻はもともと装束の下に着けるものであったが、この腹巻には黒漆を盛り上げて塗った本小札を紅糸で威した高さ34.2㎝、幅34.3㎝(上)~35.4㎝(下)の大袖が付いている。
室町時代中期の特色豊かな優れたものである。
兜は、鉢高13.8㎝、前後径22.7㎝、左右径19㎝で、枚張は118枚である。
この筋兜は、薄い鉄板を縦に矧合せ、筋と筋との間の数が120間あって鉄鋲で平留にして形成している。表面は、錆地で腰巻を周らせた鉢で、眉庇や𩊱(しころ)など付属品はない。裏には、「明珍宗家作」と刻銘がある。作者である明珍宗家は、明珍宗家(みょうちんそうけ)の19代目で桃山時代に活躍した甲冑師である。その宗家の作品は、いずれも前後に長く脹らみをもたせて技巧的になっている。現存する筋兜では200間(京都国立博物館蔵)が最も多く、120間は明珍家や根尾家の甲冑師作に見ることができるがその多くは江戸時代の作である。そのため、この兜鉢は桃山時代の作として資料的価値が高い。
大きさは横幅58.1㎝、奥行39.8㎝、高さは箱38.8㎝、蓋7.8㎝である。
挾箱は外出に際し、具足や着替用の衣服などを中に入れ、棒を通して従者にかつがせた箱で、江戸時代には定紋をつけて武家の格式を示した。
造りは印籠造りで、身に比べて蓋が浅く、垂直、水平線の組み合わせにより構成されている器形は整然として、厳正な印象を与えている。各面の対角線には鍍金桐唐草文毛彫金物をはめて、鋭さがいっそう強調され、それが蒔絵と金具の桐・九曜紋と金梨地に松・橘文蒔絵の意匠に和している。
派手な図様を器面全体に描いた蒔絵の技法などから製作期は江戸中期から後期と考えられる。保存状態も良く、加えて吉川家伝来であることも目録から判明している。
この大袖は、射向(いむけ)(左手)側の大袖だけで、馬手(めて)(右手)はない。上下の幅は39㎝と35㎝で、南北朝時代の作である。作りは黒漆塗の革小札と鉄小札を一枚ずつ交互に交えて、赤、白の糸を用いて段々に威(おど)している。
中世の甲冑に付属した大袖は南北朝時代から室町時代にかけて盛んに用いられているが南北朝時代の大袖の残存例は少く貴重である。
鎬造りで、庵棟(いおりみね 刀の背となる頂点が鋭角になるようにした形状)で仕上げられており、刃部の地肌が、よく鍛えられている太刀である。長さ83.0㎝、反りの中心点が刀身の中ほどにある高い中反り で2.6㎝ある。身幅が広く、鎬の幅が狭いもので切先は猪首(いくび)となり、ふくらと呼ばれる刃先部は丸味をもっている。
この太刀は白崎八幡宮創建の前年にあたる貞和3年(1347)の10月に刀工の守吉によって製作され、同銘の無焼刃のものが一口あり、付(つけたり)となっている。
刀工の守吉は備前畠田(現在の岡山県備前市畠田)の刀工で、北朝の貞和・貞治年間(1345-68)頃に活躍した。奉納者である願主源兼胤は、弘中兼胤のことであり、白崎八幡宮を創建した人物である。弘中氏は中世において岩国庄、岩国本庄を支配していた領主であった。
長さ70.6㎝の太刀。刀身は、鎬造、庵棟、鍛板目、刃文は湾れごころの乱れとなっている。作者である刀工安吉は南北朝時代、正平年間(1346~70)の人物で筑前国(福岡県)の刀工である筑前左(筑前左衛門安吉)の子とされる。
安吉作の太刀は例が少ないので、この作品はその点から珍しいと言われている。
南北朝時代に越中国松倉郷(現在の富山県魚津市)の刀工郷義弘(ごうのよしひろ)が製作した刀である。義弘は相模国(現在の神奈川県)の刀工政宗の弟子と伝えられている。義弘の作品は銘が刻まれたものがなく、刀剣の鑑定や研磨を業とする本阿弥家によって鑑定を受けた11振が現存するのみである。その中でも、とくに優品であるのが加賀前田家伝来の「富田郷」(国宝 前田育徳会蔵)と「稲葉江」である。
「稲葉江」の名は所持者であった稲葉勘右衛門尉(重通 しげみち)の名にちなんでおり、稲葉江の江は、「郷」の字をくずした草書体に由来する。刀の茎(なかご)には、本阿弥家九代の本阿弥光徳が天正13年(1585)12月に、太刀を磨り上げ(すりあげ)たこと、稲葉勘右衛門尉の所持品である旨を金象嵌で記している。その後、「稲葉江」は徳川家康によって買い上げられ、家康の次男である結城秀康、越前松平家(福井藩)、作州松平家(津山藩)へと伝来した。
刀の特徴としては、本来は太刀として作られたものであるが、大磨上(おおすりあげ)によって刀として仕上げられているが、身幅が広く、重ねが厚く、切先が延びるという、豪壮さを残している。
身の長さ78.5cm、反り3.4cmの太刀である。刀身の地肌は小板目肌で、刃文は小乱に足・葉入りの一見、古備前風の太刀であるが、鎌倉初期の備中青江の作である。とくに、この太刀が国宝に指定された理由は、刀身が少しも磨滅せず、打ちおろしのように平肉豊かで、しかも、当初の革着せ黒漆太刀拵が付属していることである。
この太刀は、吉川家第一の宝物で、吉川小次郎友兼が、梶原景時の一族を駿河の狐ヶ崎に討滅して功をたてた太刀として、以後は用いず家宝として保存されてきたもので、その健全さが比類ない訳である。なお、狐ヶ崎の事件は、吾妻鏡(東鑑)の正治2年(1200)1月20日の条に記録されており、この太刀が狐ヶ崎という名物となった理由である。