錦川下流域における錦帯橋と岩国城下町の文化的景観

本文化的景観は、江戸時代の岩国城下町に由来するもので、錦川、城山、横山地区、岩国山、岩国地区から構成される。

岩国城下町は、藩主居館や諸役所、重臣の屋敷等が置かれる横山地区と、中下級の家臣屋敷や町人町等が置かれる岩国地区からなり、両地区を錦川が大きく隔てる。
これらの城下町には、護岸や水路、河川氾濫や内水氾濫に対する建造物の備え等が残されており、川と密接に関わった人々の工夫に富んだ暮らしを窺い知ることができる。

横山地区と岩国地区を繋ぐ錦帯橋(国指定名勝)は、その代表的なもので、延宝元年(1673)に当時の建築土木技術の粋を集めて架橋されたもので、その独特の構造美から、江戸時代中頃から名所として知られ、物見の賑わいにより経済的・文化的発展をもたらした。それにより、城下町の趣を伝える町並みに、木造三階建の旅館、時代の特徴を示す店舗、桜並木等の新たな景観が調和的に生み出され、現在まで良好に引き継がれている。

自然の特性を踏まえた開発が都市の個性を生み、往来の賑わいを生み、産業を育むという連関を示す独特な事例として貴重である。

旧吉川家岩国事務所

事務所、倉庫、便所の3棟からなる。事務所は、木造、寄棟造、2階建、桟瓦葺、床面積234.28㎡。倉庫は、木造、切妻造、2階建、桟瓦葺、床面積79.52㎡。便所は、木造、切妻造、平屋建、桟瓦葺、床面積14.30㎡(渡り廊下を含める)。

この建物は、昭和6年(1931)、吉川家岩国事務所として建設された。昭和45年頃から平成20年まで「岩国市青年の家」として使用され、現在は岩国徴古館の付属施設である。設計は堀口捨己(1895~1984)で、外部・内部ともに、ほぼ建設当時の姿をとどめている。

事務室の開口部のデザインや室の雰囲気などに初期の堀口の作風がよく出ていること、サッシュも含めて当初のものがよく残っていること、堀口の初期の作品で現存するのはいずれも洋風のものであるので、彼の系譜をたどる上で、特に和室研究の過程を知るうえで重要である。

この建物は、堀口が西洋建築を学んだあと、日本建築の研究を開始し、日本的なものを建築作品に反映させようと考え始めたころの作品にあたる。特に目立った建物ではないが、平面・構造が簡素明快であること、左右非相称、無装飾、素材の美の尊重など、建物全体に堀口の考えた日本的なものが現れている。

色々威腹巻 付 負櫃

岩国六代藩主吉川経永(きっかわつねなが)が岩国明珍家の祖である甲冑師明珍又ヱ門宗性に命じて、寛保2年(1740)に製作させた、華美で豪華な甲冑である。

金属類には、繊細で見事な彫刻(浮彫・透彫・毛彫・魚々子)が多く用いられている。この他、漆、糸の染色、布帛といった素材についても上品なものである。

全体的に古式に則ってはいるが、江戸期の明珍派の特色を良く伝え、当世具足的要素を加味し、取付式の弦走革を用いるなど、独創的な手法を用いた甲冑として貴重である。

 

鉄錆地百廿間筋兜鉢 銘 明珍宗家作

兜は、鉢高13.8㎝、前後径22.7㎝、左右径19㎝で、枚張は118枚である。

この筋兜は、薄い鉄板を縦に矧合せ、筋と筋との間の数が120間あって鉄鋲で平留にして形成している。表面は、錆地で腰巻を周らせた鉢で、眉庇や𩊱(しころ)など付属品はない。裏には、「明珍宗家作」と刻銘がある。作者である明珍宗家は、明珍宗家(みょうちんそうけ)の19代目で桃山時代に活躍した甲冑師である。その宗家の作品は、いずれも前後に長く脹らみをもたせて技巧的になっている。現存する筋兜では200間(京都国立博物館蔵)が最も多く、120間は明珍家や根尾家の甲冑師作に見ることができるがその多くは江戸時代の作である。そのため、この兜鉢は桃山時代の作として資料的価値が高い。

桐・九曜紋蒔絵挾箱 付 目録

大きさは横幅58.1㎝、奥行39.8㎝、高さは箱38.8㎝、蓋7.8㎝である。

挾箱は外出に際し、具足や着替用の衣服などを中に入れ、棒を通して従者にかつがせた箱で、江戸時代には定紋をつけて武家の格式を示した。

造りは印籠造りで、身に比べて蓋が浅く、垂直、水平線の組み合わせにより構成されている器形は整然として、厳正な印象を与えている。各面の対角線には鍍金桐唐草文毛彫金物をはめて、鋭さがいっそう強調され、それが蒔絵と金具の桐・九曜紋と金梨地に松・橘文蒔絵の意匠に和している。

派手な図様を器面全体に描いた蒔絵の技法などから製作期は江戸中期から後期と考えられる。保存状態も良く、加えて吉川家伝来であることも目録から判明している。

紺糸素懸威黒板札菱縫二枚胴具足

江戸時代後期の作で製作者は岩国藩の甲冑師春田家第4代の春田正栄である。特色として、眉庇(まびさし)が微塵青貝に赫銅覆輪の出眉庇であること、前立が鍍金の鍬形及び丸ニ酢漿紋となっていること、吹返し、胴の胸板、胴のうしろの押付板にも丸ニ酢漿紋をつけていること、立挙、衡胴とも上重ねになっていることが看取できる。

全体的には、菱縫いの板が金漆雛で亀甲文様となっている他随所に上級武士が着用したと思われる特色を見ることが出来るほか、全体が製作当時のままで、後世の改変もない、完全な一領である。

元々は家老職の吉川家所有の甲冑で、明治初期に吉香神社に奉納されたものである。漆の剥落等もなく、保存状態はきわめて良好である。

刀剣

刀身の長さ69cm。反り2cm。銘文は、表に「防州岩国住国俊」、裏に「昭和三十五年五月日 於長野県坂城町宮入昭平内」とある。作者国俊は、現代刀工で鍛冶名を国俊と号した藤村松太郎(1887~1965)で、宮入昭平(長野県の刀工 1913~1977)は現代刀工で人間国宝。この刀は、宮入昭平の工房において国俊が鍛錬し、昭平が焼刃入れをした合作である。両刀工の技量の高さを伺える名品で貴重な一口である。

黒韋肩白紅威大袖

この大袖は、射向(いむけ)(左手)側の大袖だけで、馬手(めて)(右手)はない。上下の幅は39㎝と35㎝で、南北朝時代の作である。作りは黒漆塗の革小札と鉄小札を一枚ずつ交互に交えて、赤、白の糸を用いて段々に威(おど)している。

中世の甲冑に付属した大袖は南北朝時代から室町時代にかけて盛んに用いられているが南北朝時代の大袖の残存例は少く貴重である。

刀剣拵付

刀身の長さ69.2㎝。反り1.5㎝。銘文は、表に「神武周防岩国藩青龍軒盛俊造之」、

裏に「文久(四)年甲子正月日」とある。文久4年(1864)に、青龍軒と称し岩国藩の刀工であった岩本清左衛門盛俊(1802-1867)作で、伯耆流居合道の始祖といわれる岩国藩片山家に伝えられてきたものである。また、鐔(つば)の作者片岡忠義は、岩国に住んだ優れた鐔工である。

刀身は、拵(こしらえ)とともに極めて良好な状態で保存されている。刀身、刀鐔(かたなつば)とも傑作で、伝来の由緒正しさと合わせて誠に貴重な存在である。郷土の刀工盛俊の傑作の一口に、同藩の鐔工の傑作が拵につくものは他に存在しないと思われる。

紺糸寄素懸威百二十二間筋兜

この兜は岩国藩家老職であった香川家に伝来するもので、高さ16.5cm、径は前後25.4cm、左右20.9cm。銘文には、「防州住藤原正晨作」とある。銘文にある防州住藤原正晨は春田正晨(はるたまさあき 1657-1738)のことである。正晨は通称を次郎三郎といい、奈良の甲冑師春田正信(はるたまさのぶ)に師事し、のちに、岩国藩の甲冑師春田家の初代となる。

兜は筋兜といわれるもので兜本体を形成する鉄板を接ぎ留める鋲を見せず、鉄板の縁を捩(あお)り立て、接ぎ目を筋状に見せたものである。筋兜の筋は春田派の兜で120間となるものは珍しい。

また、これ程多くの細い筋が入った兜を何の乱れもなく作り上げた技術は高く評価され、美術的価値も高い。

鷺神社神楽面

翁(おきな)面、抵牾(もどき)面、鬼(おに)面、姫(ひめ)面の四面で、いずれも鷺神社に江戸時代末期ごろ奉寄進された神楽面である。

作者は、岩国藩の作事組に属する工人で、出目上満(でめじょうまん 本名は福屋弥惣左衛門)といわれ、寛政12年(1800)の作が三面、弘化2年(1845)の作一面と伝えられている。

これらの面は、神楽面として彫刻技術がすぐれており、非凡さが認められる。近世岩国の工人の作であり、保存状態も良好である。

武田軍陣立図屏風

紙本着色の合戦図。八曲半双(右隻)の屏風で縦171.2㎝、横(全長)568.5㎝。

軍学書『甲陽軍鑑』に基づいて、永禄4年(1561)に行われた川中島の合戦の様子を描いた八曲一双のうち、右隻部分の屏風である。17世紀代の作品としては岩国本と紀州本(和歌山県立博物館蔵)の2例のみで、歴史的にも美術的にも価値は高い。

右隻側は上杉側を迎え撃つ武田軍の陣立ての様子を描いている。こうした描写は珍しく、大変、貴重な構図である。

川中島合戦図屏風

紙本着色の合戦図。八曲半双(左隻)の屏風で縦172.2㎝、横(全長)563.9㎝。
軍学書『甲陽軍鑑』に基づいて、永禄4年(1561)に行われた川中島の合戦の様子を描いた八曲一双のうち、左隻部分の屏風である。17世紀代の作品としては岩国本と紀州本(和歌山県立博物館蔵)の2例のみで、歴史的にも美術的にも価値は高い。
左隻側は合戦の様子を描いており、馬にまたがり、白頭巾に陣羽織を着た上杉謙信が太刀を振り下ろし、床几から立って軍配でそれを受け止める武田信玄の一騎打ちの描写などがある。

仙鳥館

仙鳥館(仙鳥御屋形)は、元禄11年(1698)、岩国藩5代藩主吉川広逵(きっかわひろみち)の住居として建設された。同年11月20日、2歳の広逵は母と共に完成した屋形に移居している。

以後、主として、藩主吉川家の子女を養育するとともに、その母親(夫人)が共に生活する建物として利用された。明和5年(1768)から7年にかけて、書院の改築など大規模な改造が行われている。現在の建物は、弘化3年(1846)建築のものであり、既存の建物を解体し、その跡に本建物を建設したされる。その後は大きな改変がなく、江戸時代後期の姿をよくとどめている。江戸時代の大名関連の遺構としても貴重である。

構造は、桁行8間半、梁間5間、木造2階建、入母屋造、棧瓦葺。

昌明館付属屋及び門

昌明館は寛政5年(1793)に七代藩主吉川経倫(きっかわつねとも)の隠居所として建造され、経倫の死後は八代藩主経忠(つねただ)の夫人喬松院(きょうしょういん 柏原藩主織田信憑の次女悌 てい)が居住した。

明治に入ると一時、岩国県庁が置かれた。その後、吉川家の家職を司る用達所が設けられ、近代吉川家の岩国における拠点となっている。

敷地内の建物群は解かれて現在は吉川史料館の敷地となっているが、長屋2棟と門が現存する。長屋は現在までに幾度かの改変をうけているがその外観は当時の姿をよくとどめている。

構造は、桁行7間、梁行2間、入母屋造、出桁造、両袖瓦葺。東側庇付き、北端2間中二階付、南端東側2間に下屋付きである。

色々威腹巻

胴の高さ27.8㎝、胴廻り91.5㎝、草摺(くさずり=胴の下にさがっていて、足の太股を守る部分)の長さ24.5㎝の大きさである。小札(こざね 甲冑の部位をつくる短冊状の板)は黒漆塗の革小札と鉄小札を一枚ずつ交互に交えて、赤、白、紫の三色を用いて段々に威している。威す(おどす)とは小札の穴に糸を通すことを言い、色々糸威とは複数の色の糸で威すことを言う。

腹巻とは、軽装の防具である腹当が進化したもので、体の正面の防御だけでなく、背後に引き合わせを設けて背中にも武装を拡張したもので、南北朝時代から室町時代にかけて盛行した。

この時期のものは遺品が比較的少ないが、この腹巻は、保存状態が良好であるため貴重である。

太刀 銘 為次(狐ヶ崎)付 黒漆太刀拵

身の長さ78.5cm、反り3.4cmの太刀である。刀身の地肌は小板目肌で、刃文は小乱に足・葉入りの一見、古備前風の太刀であるが、鎌倉初期の備中青江の作である。とくに、この太刀が国宝に指定された理由は、刀身が少しも磨滅せず、打ちおろしのように平肉豊かで、しかも、当初の革着せ黒漆太刀拵が付属していることである。

この太刀は、吉川家第一の宝物で、吉川小次郎友兼が、梶原景時の一族を駿河の狐ヶ崎に討滅して功をたてた太刀として、以後は用いず家宝として保存されてきたもので、その健全さが比類ない訳である。なお、狐ヶ崎の事件は、吾妻鏡(東鑑)の正治2年(1200)1月20日の条に記録されており、この太刀が狐ヶ崎という名物となった理由である。