岩国藩主吉川家墓所

墓所は、横山の通称寺谷地区に所在し、岩国に入府した岩国吉川家初代広家から、6代経永を除く12代経幹までの当主及びその一族の墓が51基あり、指定面積は9615㎡である。

墓所が形成されるのは寛永2年(1625)広家が没した年からであるが、墓所の中心を占める寺谷口御塔場は、2代広正が没した翌年寛文7年(1667)3代広嘉によるもので、石工は大阪から召し寄せられて造営された。

岩国藩御用所日記に延宝7年(1679)に造営された3代広嘉(玄真院)の石塔建立には、350~360の人夫が当たったと記録されており、いかに大工事であったか窺える。

墓所の中には、京都の小堀家から贈られたと伝えられる、遠州好みの「誰が袖の手水鉢」(現存品は写し)や、茶人上田宗箇が広家に贈ったといわれる「みみずくの手水鉢」など優れた工芸品も残され、石造文化財として貴重であると同時に、近世大名家の葬制を知る上で重要である。

大内版 三重韻

岩国徴古館本「三重韻」は、内題に「聚分韻略」(しゅうぶんいんりゃく)とあり、巻末の跋文によれば天文8年(1539)3月、大内義隆の版行により、「周防大内版」として知られているものである。

「聚分韻略」は南北朝時代、五山の学僧虎関師錬が作詩用の辞書として漢字を平・上・去・入・の韻を以って分類し、同韻の字をさらに乾坤・時候・気形・支体・態芸・生植・食服・器財・光彩・数量・虚押・複用の十二門に分け、各語の下に、簡単な注を加えたものである。検索に便利なため禅林の間に大いに喜ばれ版を重ねたが、文明13年(1481)刊行の薩摩版に至って編修の体裁を改め、平・上・去の三韻を三段に重ね、入声の韻は別に末尾に付して、いわゆる「三重韻」とした。

この資料は、義隆の好学を示すとともに大内文化の遺産として珍重すべきものであるが、東洋文庫本のほか、伝本は少なく、県内に現存するのはこれのみで、貴重である。

鉄錆󠄀地六十四間筋兜鉢

高さ13.4㎝、径は前後22.3㎝、左右20.7㎝で、錆漆を塗った64枚の台形の鉄板をはぎ合わせた部分が筋になっている兜鉢。眉庇(まびさし)は、当世眉庇と言われる戦国時代に流行したもので、中央には、三光鋲(眉庇を留める3つの鋲)の1つで、祓立(はらいたて)が固定されている。鉢裏正面の板に「宗家作」、後ろ中板に「天正六年十二月日」という銘がある。星兜の名残である四天の星が腰巻上の高い所にあること、また眉庇の固定のしかたなどが戦国時代以降の形式を帯びていることなどから判断して、安土桃山時代の作と考えられている。

宗家は明珍派宗家19代にあたり、名は久太郎で、近江国(現在の滋賀県)安土に住み、後に江戸へ移り住んだ。明珍は、平安時代に初代宗介が京都九条に住み、近衛天皇からその号を賜ったと言われ、甲冑師・鐔(つば)師としては名門である。

鉄錆󠄀地十二間総覆輪筋兜鉢

高さ13.2㎝、径は、前後が22.9㎝で、左右が19.6㎝で、12枚の台形の鉄板に錆漆を塗り、はぎ合わせの部分を金属で覆って筋状にした阿古陀形(あこだなり)という形式をした楕円形の兜鉢。頭頂部の八幡座は、金メッキの魚子地(ななこじ=粟粒を並べたように細かい粒を突起させたもの)に、唐草彫りの円座に裏菊の透かし彫りなどをした4重になっていて、中央の穴が極めて小さい。篠垂という細い筋金が、前に3条と後ろに2条据えられ、腰には神社等に見られる斎垣(いがき)がめぐらされている。眉庇(まびさし)はやや前に出る伏せ眉庇である。室町時代末期の特色が著しく表れている。

中津居館跡一括出土銭

中津居館跡の確認調査の際に出土した一括出土銭である。備前甕に入っていた状態で約50,000枚の銭が出土した。銭の出土量としては現在、県内第二位となる。

甕内に納められていた銭貨については、その多くを97枚でわら紐に通してまとめた緡銭(びんせん)をさらにまとめて、十貫文(銭10,000枚相当)や八貫文(銭8,000枚相当)と高額の流通単位に仕分けられて菰に巻かれて収納されていた。このほか一貫文(銭1,000枚相当)でまとめられているものも確認されている。

銭の大量埋納については中津居館跡の遺跡の性格も含めて経済的備蓄の側面が強いと考えられる。陶器製容器に納められた一括出土銭は地鎮などの祭祀的な埋納や戦乱等による私財の隠匿が想定されがちであるが、中津居館跡の一括出土銭はこうした性格を有さず、経済的性格が強い資料である。また、高額の流通単位にまとめられ菰で梱包された銭は中世の手形である割符(さいふ)に関係しているものと考えられる。割符には十貫文の定額が多く、ほかには五貫文の「半割符」が見られ、中津居館跡出土一括出土銭は十貫文でまとめられた銭が2組確認されており、割符という金融的な行為の実情も反映した出土状況であり、中津居館跡一括出土銭の出土状況が、中世の商取引のあり方を示す資料としても、貴重である。

永興寺庭園

永興寺庭園は、庫裡書院北庭の準平庭式枯山水庭園である。作庭に関する史料がなく明確に作庭時代を判定することはできないが、近世のものと考えられる。主庭は龍安寺式の枯山水庭園で、江戸時代前期頃の作庭とみられているが、後世の改修もみられる。

主庭園の原形は、茶室に付随した露地(茶庭)が主景で、そこへ枯山水庭園が景を添えている。湧き水があり井泉石組が付されている。元々は茶室があったが、解く際に、枯山水部を修景しなおしたと思われる。

現存の枯山水庭園は七五三式の石庭である。その中心は6石による集団石組があり、その北側に三尊石風の石組が2ヵ所ある。全体的には、15石による七五三石組、もしくは十六羅漢的な石組を構成している。こうしたことから、全庭に配石された枯山水庭園の例として貴重なものとされる。

錦帯橋架替図

江戸時代に作成された錦帯橋の図面である。図面は和紙を貼り継いで必要な大きさをとり、裏打をして補強した紙に箆(へら)で痕をつけ、墨を入れる方法で描かれている。紙面は小さく折り畳まれている。1橋1枚が原則であったと思われるので、架替えた橋の数だけ絵図も作られたと思われるが、残存絵図は反橋のみで13枚である。13枚すべて10分の1の縮尺で描かれており、担当責任者の棟梁が描いたものと思われる。製作年代は元禄12年(1699)から文政11年(1828)の間である。

錦帯橋は、数百年間、同じ技術で架け続けられてきた歴史をもち、また、特殊な構造の木造橋は世界的にも希有である。橋の創建・維持・管理に岩国藩が全面的に関わってきた歴史がそうした状況を作りだした背景となっているが、この資料の存在が錦帯橋そのものの文化財的価値を非常に高めているといえる。架替ごとに作られる絵図面そのものが技術の伝承の役割も果たしており、長い間、架け伝えられてきた技術の証明であり、貴重でもある。

吉香神社棟札

吉香神社の棟札のうち、明治18年(1885)のもの2枚、大正2年(1913)のもの1枚ものである。吉香神社は、岩国藩主吉川氏歴代の神霊を祀っている神社で重要文化財に指定されている吉香神社の建物群や付(つけたり)の棟札とともに、吉香神社自身の歴史や建造物の修理の歴史を知る上で不可欠なものである。特に明治18年の棟札については、明治4年からの吉香神社創建、合祀の経緯、現社殿を遷座した記録としても貴重である。

 

岩国練武場

陸軍元帥長谷川好道の邸宅跡に昭和2年(1926)に建てられた。寄棟造桟瓦葺、桁行24m梁間10m、妻入で正面中央に唐破風造の玄関を付す。外部は下見板張とし、内部は演技場の東面に師範台、南面に観覧席と支度室を下屋で設けている。

岩国徴古館第二収蔵庫

この収蔵庫は吉川家の土蔵として明治24年(1891)に建設され、昭和26年(1951)に岩国徴古館とともに吉川報效会から岩国市に寄贈された。木造二階建、切妻造、桟瓦葺で、太い小屋梁など堅固な造りである。建築当初は、吉川家の美術品や資料を収めていたと思われる。石積み三段の背の高い基礎や広い戸前に外観上の特色がある。高い基礎は錦川の氾濫や湿気に備えたもので、内部中央に設けられた幅の広い階段などとともに資料の保管・搬出入などに適した造りとなっている。

徴古館第一収蔵庫及び他の吉川家の土蔵と同一形式であり、吉川家に共通した仕様に基づいて建設されたものであると推測される。

岩国徴古館第一収蔵庫

昭和19年(1944)、吉川家の別邸である仙鳥館から移築した土蔵である。木造二階建、切妻造、桟瓦葺で、外壁には漆喰壁上に焼杉板が張られており、石積み三段の背の高い基礎や、西側全面に差し掛けられた広い戸前に外観上の特色がある。高い基礎は錦川の氾濫や湿気に備えたもので、内部中央に設けられた幅の広い階段などとともに、資料の保管・搬出入などに適した造りとなっている。

仙鳥館からの移築のため、軸部、小屋組などに不自然な点もあるが、徴古館第二収蔵庫及び他の吉川家の土蔵と同一形式であり、吉川家に共通した仕様に基づいて建設されたものであると推測される。

旧宇野千代家住宅主屋

小説家宇野千代の生家で、建築時期は明治初期と言われ、木造二階建、平入、入母屋造、桟瓦葺、真壁造で、正面は真壁造であるものの、出格子、軒下の出し桁、猫足の腕木など岩国の町屋に共通した外観となっている。内部は土間の玄関に、時計の間、客間、仏間、鏡の間などと名付けられた和室が配置されている。

明治25年(1892)、千代の父宇野俊次が建物を取得し、昭和49年(1974)、千代によりに損傷の激しかった建物を昔の形で修復された。現在は「NPO法人宇野千代生家」が管理・運営し、公開や展示などを行っている。

JR西岩国駅駅舎

昭和4年(1929)4月、岩徳線の一部開通にともない、岩国駅として開業した。昭和17年(1942)に麻里布駅を岩国駅と改称した際に、西岩国駅に改称した。

木造平屋建、寄棟造、桟瓦葺、外壁モルタル仕上げで、正面入口上部に設けられた、アーチ窓と柱形(ピラスター)からなる表現派風の大きな切妻と、錦帯橋をイメージさせる5連アーチの入口車寄に特色がある。

旧吉川邸厩門

明治25年(1892)、旧岩国藩主吉川経健が建設した吉川邸の長屋門である。桁行30mと長大で、西を正面とし、石積基壇上に建つ。南寄りに門口を構え、外壁漆喰とし、要所に横連子窓を設けている。屋根は寄棟造、桟瓦葺きで、小屋組は一部に変形トラスを用いている。伝統的な形式を保ちながら洋風のデザインを取り入れており、近代の大邸宅の様子を今に伝えている。

國安家住宅

國安家住宅は、江戸時代より鬢付油(『梅が香』)を製造販売していた松金屋又三郎によって建てられたものである。客座敷床の間の座板裏面に「嘉永三年庚戌之初秋七月十一日、十世満喬代調之、三代目大工五兵衛作」の墨書銘があり、この頃の建築と伝えられているが、それ以前に遡る可能性もある。建築後、幾度か改造されているが、全体的には旧状をよく保持していると言える。

太い梁を縦横に架け渡した豪壮な構成は岩国城下を代表した町家建築の面影をよくとどめている。

旧岩国税務署

明治18年(1885)、租税検査員派出所として発足した岩国税務署の新庁舎として、横山地区から現地に移築された、木造モルタル塗り総2階建ての庁舎建築。

中央正面に玄関を配置、玄関を中心に左右対称とし、両翼部を薄く張り出して切妻屋根をのせるルネサンス様式的な建築構成が特徴的である。

関東大震災後の大正末から昭和の始めにかけて多く建設された、人造石やモルタルで外装された洋風建築で、県内に現存する戦前の税務署建築の唯一のものといわれる。

設計監督は税務監督局技手田中俊郎、当時の官庁営繕組織設計による地方公共建築の一端を窺い知ることができる。

錦雲閣

明治18年9月9日、旧岩国藩主吉川家歴代の神霊を祭る吉香神社の絵馬堂として建築されたもので、桁行5間、梁間3間の入母屋造の楼閣風建築である。同地には元々、3階建ての南矢倉が建っていた。

階下の外観は外周腰部までを板壁、中間部を吹き放し、上部は漆喰壁仕上げとし、階上は四囲に高欄付きの縁側を巡らせている。

階下の内部は全面土間で、絵馬を懸けるために天井が高く、絵馬を鑑賞するための腰掛縁が設けられており、階上の床は全面板張りとなっている。

岩国徴古館

旧岩国藩主吉川家が寄附した美術工芸品や歴史資料を展示・保管するため、財団法人吉川報效会により建設され、昭和20年3月に竣工した。設計は早稲田大学教授で岩国中学校出身の佐藤武夫が実施した。

煉瓦造2階建で、ドイツ古典主義の影響がみられる意匠は、低く抑えた外観、正面の角柱の列柱、内部の裾広がりの柱に特徴がある。

錦帯橋

古い歴史と美しい環境、珍しい形状と巧みな構造をもつのが錦帯橋の特色である。
背後に連なる城山の緑、その下を流れる錦川の清流、山紫水明の景色が橋と調和して美しい。橋の上下流各60間(108m)の地点から上流350間(637m)下流230間(418m)以内の堤塘敷及び河川敷が名勝錦帯橋として指定されている。

錦帯橋は延宝元年(1673)第三代藩主吉川広嘉によって創建されたが、翌年の延宝2年春に流失。その年のうちに直ちに再建され、以来、276年間秀麗な姿を誇っていたが、昭和25年9月のキジア台風により惜しくも流失した。その後、昭和28年1月再建され、現在の橋は、平成13年度から平成15年度にかけて行われた架替工事によるものである。

橋の長さは、210m、直線で193.3m、幅約5mである。

 

元亨釈書 吉川経基筆十五冊

元亨釈書は、わが国に仏教が伝来して以来鎌倉時代末元亨年間(1321~1324)に至るまでの高僧の事蹟、仏教の史実を記し、かつ概評を下したもので東福寺の僧虎関師錬の著。後醍醐天皇の元亨2年(1322)に完成したので元亨釈書という。

本書は、吉川経基が至徳元年(1384)の重刊本から転写したものを、安芸国新庄の洞仙寺に寄進したものである。写本には、経基自筆の部分もあるが、東福寺諸僧の助筆も混じっている。原表紙は厚手の白紙を用い、「元亨釈書并序目録一之ニ」と書し、更に中央には各冊に「洞仙寺常住 慶本之寄進也」(後筆)と墨書されている。慶本は経基の法名である。第四冊は、もと冊子装であったが、裏に文書を有するので横綴に改装されている。裏の文書の多くは書状であるが、中には延徳3年(1491)正月21日に行われた闘茶興行の記録もある。

経基は『吉川家譜』に、武事に長じ、又和歌を善くし且つ能書なりといわれている如く、好学の戦国武将であるが、本書もその点を示す一本として貴重である。