瀬田城跡

平成5年(1993)に玖珂町教育委員会によって調査が行われ、段状遺構、石組遺構、溝状遺構、竪穴住居 掘立柱建物等が確認された。城に関するものとしては掘立柱建物の中穴とされる遺構がある。

奥ヶ原遺跡

弥生時代、古墳時代後期の竪穴住居が23棟、弥生時代の墓が12基、確認されている。遺物は弥生土器、土師器、須恵器等の土器をはじめ、石鏃、紡錘車などの石製品や鉄製品も多く出土している。また、小片であるが、弥生時代の鏡片も出土している。

四割遺跡

弥生時代後期の竪穴住居や掘立柱建物等が確認されている。奥ヶ原遺跡とともに、祖生地域の弥生時代の状況がわかる遺跡である。

冷泉北遺跡

13世紀から16世紀にかけての集落であり、隣接する冷泉氏館跡と存続期間が重なっていることから、大内氏、毛利氏の被官であり、祖生に領地をもっていた冷泉氏に関連する集落であったと考えられる。また、出土した陶磁器のうち、高麗青磁の出土がある。

郷遺跡

縄文時代後期の土器がまとまって出土しており、玖北地域での縄文時代に関しては大きな成果となっている。また、中世の掘立柱建物など、山代庄に関連する遺跡でもある。

西土生遺跡

古代(11世紀後半)の掘立柱建物や柱穴などが確認された。掘立柱建物は四面廂建物と付属棟を有するもので、荘園関係の建物であった可能性が高い。

表面遺跡

古代から中世にかけての掘立柱建物や柱穴などが確認された。

畑岡遺跡

弥生時代後期の高地性集落と考えられ、竪穴住居跡、段状遺構等が確認されている。また、主体部は削平を受けていたが、古墳も見つかっており、周溝から須恵器がまとまって出土した。

市井木遺跡

丘陵上に立地する遺跡で弥生時代後期の竪穴住居や段状遺構が確認されており、高地性集落と考えられる。

筏山古墳・筏山遺跡

国道工事の際に、人骨を伴う古墳の石室が露出したことが契機となり、昭和30年1月12日から3日間の調査が小野忠熈氏らによってなされた。調査では弥生時代の竪穴、保存状態の良い人骨を古墳の竪穴式石室のほか、平安時代の経塚も見つかっている。

臼田遺跡

中世の柱穴群が確認されたが、このほかの明確な遺構は見つかっていない。玖珂地域では最古ともいえる縄文時代の石錐が出土している。

河池遺跡

昭和53年(1978)の調査では貯蔵穴が確認された。昭和62年(1987)の調査では竪穴住居5棟をはじめとする弥生時代中期の遺構が見つかっている。また、遺構は伴わないが旧石器や縄文時代の石器も見つかっている。

上久宗遺跡

弥生時代の集落に伴う、竪穴住居跡、段状遺構のほか、平安時代の蔵骨器が出土した墓などが見つかっている。

清水遺跡

2重(一部3重)の環濠が囲繞する、弥生時代後期の高地性集落であることが確認された。環濠の内部には、竪穴住居や段状遺構が多く見つかっている。また、遺物としては40点以上の鉄製品の出土が注目される。そして、集落の廃絶後の古墳時代後期の古墳が見つかっており、横穴式石室も確認されている。

中津居館跡

錦川河口部に形成された三角州上に立地する遺跡で、平成20年度から平成27年度までの試掘確認調査、平成28年度から令和元年度に行われた都市計画道楠中津線建設に伴う調査等、岩国市内で20次にわたる調査が実施されている。
これまでの成果では中世前半、13世紀後半から14世紀前半の港湾に関連する集落跡と中世後半、16世紀代の居館跡と考えられている。中世前半の集落跡では礎石建物のほか、土師器を一括廃棄した土坑のほか、推定40,000~50,000枚の渡来銭が甕に埋納されていた一括出土銭も見つかっている。このほか、多くの木製品も出土している。
中世後半は、石垣で囲繞された居館跡とされ、海側には船着き場遺構が確認された。

松原遺跡

昭和28年(1953)に旧広瀬高校本郷分校の敷地造成のための道路工事の際に竪穴住居跡および弥生土器が出土した。

阿品遺跡

岩国市史では、西ヶ尾遺跡と記述されている。平成5年(1993)に試掘調査が行われ、竪穴住居跡、土坑跡が確認された。出土した押型文土器から縄文時代早期後半(約7,000年前)の遺跡と考えられる。

また出土した石器や剥片の多くは安山岩製で、冠高原から採取された石材である。

横山遺跡

令和2年、3年度(2020、21)に試掘調査が行われた。近代の学校等により近世以前の遺構は削平を受けていたが、中世土師器、近世陶磁、瓦などが見つかっている。また、中世の段階では錦川の氾濫原であったと考えられており、洲状の砂層堆積を確認した。

近世期に、吉川広家によって氾濫原であった当遺跡を城下町建設時に堤防の築堤と並行して造成を行ったとみられる。

平畑遺跡

昭和25年(1950)に調査が行われ、竪穴住居跡とみられる遺構と弥生土器が確認されている。遺跡は標高180mの地点で確認されており、高地性集落と考えられる。

植山遺跡

発掘調査は行われていないが、弥生時代、古墳時代の土器などが採取されている。