西土生遺跡

古代(11世紀後半)の掘立柱建物や柱穴などが確認された。掘立柱建物は四面廂建物と付属棟を有するもので、荘園関係の建物であった可能性が高い。

表面遺跡

古代から中世にかけての掘立柱建物や柱穴などが確認された。

臼田遺跡

中世の柱穴群が確認されたが、このほかの明確な遺構は見つかっていない。玖珂地域では最古ともいえる縄文時代の石錐が出土している。

冠遺跡

西中国山地の中央部にある冠高原とその周辺部に立地する遺跡で、後期旧石器時代前半期から縄文時代前期にかけての石器類や安山岩の原石等が多く分布している。この安山岩は宇佐平遺跡や用田遺跡等で出土する石器の石材であり、岩国市内の遺跡だけでなく、かなりの広範囲に広がっている。

遺跡の調査は広島県側で調査が行われており、多くの成果があるが、岩国市側の遺跡範囲では広島県教育委員会によってわずかな試掘が行われたのみである。

松原遺跡

昭和28年(1953)に旧広瀬高校本郷分校の敷地造成のための道路工事の際に竪穴住居跡および弥生土器が出土した。

阿品遺跡

岩国市史では、西ヶ尾遺跡と記述されている。平成5年(1993)に試掘調査が行われ、竪穴住居跡、土坑跡が確認された。出土した押型文土器から縄文時代早期後半(約7,000年前)の遺跡と考えられる。

また出土した石器や剥片の多くは安山岩製で、冠高原から採取された石材である。

横山遺跡

令和2年、3年度(2020、21)に試掘調査が行われた。近代の学校等により近世以前の遺構は削平を受けていたが、中世土師器、近世陶磁、瓦などが見つかっている。また、中世の段階では錦川の氾濫原であったと考えられており、洲状の砂層堆積を確認した。

近世期に、吉川広家によって氾濫原であった当遺跡を城下町建設時に堤防の築堤と並行して造成を行ったとみられる。

柳井田遺跡

発掘調査は行われていないが、土器棺で使われたと考えられる大型壺が見つかっている。

大型壺は口縁端部に鋸歯文を配し、喇叭状にひらいた口縁部内側には渦文や十字形に巡らせた浮文を付している。

 

上丈遺跡

昭和25年(1950)に土師器片が採取されている。

岡丈遺跡

昭和25年(1950)に土師器片が採取されている。

宮源遺跡

昭和25年(1950)に土師器片が採取されている。『島田川』では、祭祀遺跡の可能性も示唆している。

北河内遺跡

発掘調査は行われていないが、弥生時代中期の無頸壺などが採取されている。

植山遺跡

発掘調査は行われていないが、弥生時代、古墳時代の土器などが採取されている。

岩国一丁目遺跡

令和4年(2022)度の試掘調査により、岩国城下町の整地層が確認され、近世陶磁器や瓦が出土している。

野口遺跡

発掘調査は行われていないが、昭和46年(1971)に農地の溝を整備する際に弥生土器の甕1個体がほぼ完形で見つかっている。また、関連する遺物は確認されていないが、古代山陽道の駅家である「野口駅家」の推定地と考えられている。

大田遺跡

発掘調査は行われていないが、陶質土器の高坏が採取されている。

用田遺跡

旧石器から古墳時代にかけての複合遺跡であるが、発掘調査が行われていないため、詳細は不明である。旧石器時代の遺物としては有舌尖頭器が見つかっている。縄文時代の遺物としては晩期の土器が多く、石器は掻器や削器、石鏃などが見つかっている。

芹田遺跡

広瀬高校(現、山口県立岩国高校広瀬分校)の農場の用水路建設の際に出土したもので、縄文時代後期の土器が主体を占めている。