昭和25年(1950)に土師器片が採取されている。『島田川』では、祭祀遺跡の可能性も示唆している。
アーカイブ: 埋蔵文化財
高森皿山窯跡
連房式の窯の基底部らしき痕跡があり、その周辺に窯道具等が散布している。
阿品窯跡
近世末から明治前半にかけて操業されていた窯であり、明治期には石見系の瓦窯として操業していたとみられる。また、エドワード・モースが岩国を訪れた際にも、錦帯橋のほか、この窯も訪問しており、数点に陶器を購入している。
令和3年(2022)度に試掘調査を実施した。窯跡自体の発見はなかったが、明治期の窯の窯体や窯道具等の散布を確認している。
皿山窯跡
18世紀後半に開窯された窯で、肥前系磁器に類似する染付を生産していた。19世紀に入ると磁土が不足し、若干陶器質気味のものが焼かれるようになる。
遺跡内では、陶磁器や窯道具が採集されている。
平畑遺跡
昭和25年(1950)に調査が行われ、竪穴住居跡とみられる遺構と弥生土器が確認されている。遺跡は標高180mの地点で確認されており、高地性集落と考えられる。
北河内遺跡
発掘調査は行われていないが、弥生時代中期の無頸壺などが採取されている。
植山遺跡
発掘調査は行われていないが、弥生時代、古墳時代の土器などが採取されている。
岩国一丁目遺跡
令和4年(2022)度の試掘調査により、岩国城下町の整地層が確認され、近世陶磁器や瓦が出土している。
須万地遺跡
弥生土器、土師器が採取されている。
錦見遺跡
国道2号線のトンネル工事の際に、入口付近から弥生時代中期の無頸壺が出土した。
大伴遺跡
昭和26年(1951)に調査が行われ、壺の口縁部を合わせた土器棺墓が3基確認された。弥生時代後期のものと考えられる。
相地遺跡
弥生土器が採取されている。
野口遺跡
発掘調査は行われていないが、昭和46年(1971)に農地の溝を整備する際に弥生土器の甕1個体がほぼ完形で見つかっている。また、関連する遺物は確認されていないが、古代山陽道の駅家である「野口駅家」の推定地と考えられている。
大田遺跡
発掘調査は行われていないが、陶質土器の高坏が採取されている。
へころがき古墳
土砂採取の際に発見され、幅2m前後、奥行9.3mの規模の石室であったと記述されている。
用田遺跡
旧石器から古墳時代にかけての複合遺跡であるが、発掘調査が行われていないため、詳細は不明である。旧石器時代の遺物としては有舌尖頭器が見つかっている。縄文時代の遺物としては晩期の土器が多く、石器は掻器や削器、石鏃などが見つかっている。
芹田遺跡
広瀬高校(現、山口県立岩国高校広瀬分校)の農場の用水路建設の際に出土したもので、縄文時代後期の土器が主体を占めている。
多田窯跡
元禄13年(1700)に京都の陶工丹波屋安兵衛を招いて、多田の地で開窯したのが、多田窯である。以降、19世紀の初頭まで岩国藩の御用窯として機能していた。窯跡自体は見つかっていないが、匣鉢などの窯道具が採集されている。
大円寺山遺跡・亀ヶ尾城跡
昭和41年(1966)に大規模工事際に貝塚を発見、その後山本一朗氏が調査を行い、弥生土器等の出土があった。土器の時期は弥生時代中期に位置づけられる。
また、弘中氏の居城と考えられている亀尾城も遺跡内にあったされるが、宅地開発によって明確な遺構は確認されていない。
宇佐平遺跡
ほ場整備事業によって、遺物が採集されている。縄文土器、石器には冠高原の安山岩のほか黒曜石も含まれており、隠岐島産と推測され山陰地域との交流を伺える