瀬田城跡

平成5年(1993)に玖珂町教育委員会によって調査が行われ、段状遺構、石組遺構、溝状遺構、竪穴住居 掘立柱建物等が確認された。城に関するものとしては掘立柱建物の中穴とされる遺構がある。

畑岡遺跡

弥生時代後期の高地性集落と考えられ、竪穴住居跡、段状遺構等が確認されている。また、主体部は削平を受けていたが、古墳も見つかっており、周溝から須恵器がまとまって出土した。

玖珂本陣・代官所跡

18世紀前半の火災で被災した本陣あるいは代官所に伴う建物が確認された。これらの建物群は玖珂御茶屋平面図(岩国徴古館蔵)には描かれておらず、代官所の初期段階の建物群であったと考えられる。

臼田古墳

平成12年(2000)に玖珂町教育委員会が主体として、発掘調査が行われ、古墳時代後期(6世紀後半)の横穴式石室が確認され、副葬品が出土した。

横穴式石室は玄室部と羨道部の境に袖石を有する両袖式で、検出した石室の全長は5.9mで、玄室長は3.9~4.14m、幅2.14~2.3mで、羨道長は推定で3m以上の規模である。

遺物は、土師器、須恵器、鉄製品(刀子・鏃・鉋・釘)が出土した。

市井木遺跡

丘陵上に立地する遺跡で弥生時代後期の竪穴住居や段状遺構が確認されており、高地性集落と考えられる。

筏山古墳・筏山遺跡

国道工事の際に、人骨を伴う古墳の石室が露出したことが契機となり、昭和30年1月12日から3日間の調査が小野忠熈氏らによってなされた。調査では弥生時代の竪穴、保存状態の良い人骨を古墳の竪穴式石室のほか、平安時代の経塚も見つかっている。

臼田遺跡

中世の柱穴群が確認されたが、このほかの明確な遺構は見つかっていない。玖珂地域では最古ともいえる縄文時代の石錐が出土している。

清水遺跡

2重(一部3重)の環濠が囲繞する、弥生時代後期の高地性集落であることが確認された。環濠の内部には、竪穴住居や段状遺構が多く見つかっている。また、遺物としては40点以上の鉄製品の出土が注目される。そして、集落の廃絶後の古墳時代後期の古墳が見つかっており、横穴式石室も確認されている。

向田山城跡

城域は北東‐南西方向に270m、北西‐南東方向に約90mである。鞍掛山城がある鞍掛山の南側に位置する向田山の山頂部の尾根稜線に長さ160m、幅6~10mの屈曲する帯状の曲輪があり、南西側に主郭が設けられ、その主郭の西側と南側に連続的に曲輪を設けている。北東側には、竪堀等が設けられている。

柳井田遺跡

発掘調査は行われていないが、土器棺で使われたと考えられる大型壺が見つかっている。

大型壺は口縁端部に鋸歯文を配し、喇叭状にひらいた口縁部内側には渦文や十字形に巡らせた浮文を付している。

 

植山遺跡

発掘調査は行われていないが、弥生時代、古墳時代の土器などが採取されている。

大伴遺跡

昭和26年(1951)に調査が行われ、壺の口縁部を合わせた土器棺墓が3基確認された。弥生時代後期のものと考えられる。

野口遺跡

発掘調査は行われていないが、昭和46年(1971)に農地の溝を整備する際に弥生土器の甕1個体がほぼ完形で見つかっている。また、関連する遺物は確認されていないが、古代山陽道の駅家である「野口駅家」の推定地と考えられている。

大田遺跡

発掘調査は行われていないが、陶質土器の高坏が採取されている。

へころがき古墳

土砂採取の際に発見され、幅2m前後、奥行9.3mの規模の石室であったと記述されている。

上市遺跡

発掘調査は行われていないが、各時代の遺物が採取されている。中世土師器の良好な資料も見つかっている。

鞍掛山城跡

いわゆる鞍掛合戦で杉隆康が城主であった城として知られている。
城は玖西盆地の北東側に位置する鞍掛山の山頂に立地する。城域は東西450m、南北320mである。
山頂部の主郭があり、主郭から北東方向と北西方向にいくつかの曲輪が配されている。