古代(11世紀後半)の掘立柱建物や柱穴などが確認された。掘立柱建物は四面廂建物と付属棟を有するもので、荘園関係の建物であった可能性が高い。
時代: 近世(江戸)
玖珂本陣・代官所跡
18世紀前半の火災で被災した本陣あるいは代官所に伴う建物が確認された。これらの建物群は玖珂御茶屋平面図(岩国徴古館蔵)には描かれておらず、代官所の初期段階の建物群であったと考えられる。
岩国城御土居跡
御土居は岩国に入府した吉川家の居館跡で、発掘調査では近世の礎石建物跡、門跡などが確認されている。また、その下層には中世の永興寺に関係する礎石建物が見つかっている。
岩国城跡
岩国に入府した吉川広家によって城山の山頂部に築かれた城である。慶長13年(1608)に完成し、慶長20年(1615)の一国一城令によって破却され廃城となった。
天守台の発掘調査が平成6年(1994)に行われ、天守台には礎石が確認されている。また周囲では大量の瓦が出土している。瓦は、岩国在地産のものが少なく、福岡からの搬入瓦が目立つようである。このほか城の破却の際の状況が、特徴的で良好に残されており、この点についても注目される。
中津居館跡
錦川河口部に形成された三角州上に立地する遺跡で、平成20年度から平成27年度までの試掘確認調査、平成28年度から令和元年度に行われた都市計画道楠中津線建設に伴う調査等、岩国市内で20次にわたる調査が実施されている。
これまでの成果では中世前半、13世紀後半から14世紀前半の港湾に関連する集落跡と中世後半、16世紀代の居館跡と考えられている。中世前半の集落跡では礎石建物のほか、土師器を一括廃棄した土坑のほか、推定40,000~50,000枚の渡来銭が甕に埋納されていた一括出土銭も見つかっている。このほか、多くの木製品も出土している。
中世後半は、石垣で囲繞された居館跡とされ、海側には船着き場遺構が確認された。
渋前積石塚
発掘調査によって18世紀後半の供養塚と推定された。
横山遺跡
令和2年、3年度(2020、21)に試掘調査が行われた。近代の学校等により近世以前の遺構は削平を受けていたが、中世土師器、近世陶磁、瓦などが見つかっている。また、中世の段階では錦川の氾濫原であったと考えられており、洲状の砂層堆積を確認した。
近世期に、吉川広家によって氾濫原であった当遺跡を城下町建設時に堤防の築堤と並行して造成を行ったとみられる。
高森皿山窯跡
連房式の窯の基底部らしき痕跡があり、その周辺に窯道具等が散布している。
阿品窯跡
近世末から明治前半にかけて操業されていた窯であり、明治期には石見系の瓦窯として操業していたとみられる。また、エドワード・モースが岩国を訪れた際にも、錦帯橋のほか、この窯も訪問しており、数点に陶器を購入している。
令和3年(2022)度に試掘調査を実施した。窯跡自体の発見はなかったが、明治期の窯の窯体や窯道具等の散布を確認している。
皿山窯跡
18世紀後半に開窯された窯で、肥前系磁器に類似する染付を生産していた。19世紀に入ると磁土が不足し、若干陶器質気味のものが焼かれるようになる。
遺跡内では、陶磁器や窯道具が採集されている。
岩国一丁目遺跡
令和4年(2022)度の試掘調査により、岩国城下町の整地層が確認され、近世陶磁器や瓦が出土している。
多田窯跡
元禄13年(1700)に京都の陶工丹波屋安兵衛を招いて、多田の地で開窯したのが、多田窯である。以降、19世紀の初頭まで岩国藩の御用窯として機能していた。窯跡自体は見つかっていないが、匣鉢などの窯道具が採集されている。
山代紙見取場跡
山代紙勘場とも言われ、見取所と紙蔵が設けられていた。
本呂尾遺跡
遺跡範囲内には、吉川広家の隠居所跡や海前寺跡と推測される平坦面が残る。
成君寺山首塚
慶長山代一揆で処刑された庄屋の首を埋めた墓とされる。周辺にも墳墓がみられる。
小瀬砲台群
四境戦争の際に小瀬から和木にかけて小瀬川沿いを中心に設営された砲台陣地の跡である。大砲を据える陣地とみられる平坦面が確認出来る。
小瀬番所・一里塚跡
近世山陽道が周防国に入った際の最初の一里塚を設けた場所であり、また芸防国境にあたることから、出入国を見張る番所が置かれていた。試掘調査では番所時代と思われる、瓦が出土した。