天野元嘉墓 付 天野元嘉夫人墓

天野元嘉は天野隆重の五男である。
隆重の没後、その跡を元嘉が継ぎ、関ヶ原の戦いの後、吉川広家の組下として毛利輝元から椙杜900石(のち500石)の地を宛がわれ、久田に移り住んだ。慶長17年(1612)11月20日没。墓は通化寺の境内地にあり、元嘉夫人の墓も並んで建っている。凝灰岩(俗に平野石)製の宝筐印塔で、基台・基礎・塔身・笠・相輪(露盤・請花・宝珠)と積み上げているが、ずんぐりとした相輪、隅飾りが外に張り出し軒の厚い笠、基礎の銘文の刻みよう、線彫りの丈長の反花を配する基台など、近世初期の特色をよく示している。

また、基礎の正面に次の陰刻がある。元嘉墓(総高177.4cm)は中央に「大円宗覚居士」、右に「于時慶長十七壬子季」、左に「十一月念日」と刻まれており、元嘉夫人墓は中央に「寂孤円原珠大姉」、中央下に「需覚生」、右に「慶長十年己巳」、左に「十月十四日」と刻まれている。

 

天野隆重墓 付 天野隆重夫人墓

天野隆重は天野家第11代当主である。
隆重のときに初めて毛利元就に仕え、尼子氏との戦いで軍功があり、晩年は出雲国八雲村(現在の島根県松江市八雲町)の熊野城に住み、天正12年(1584)3月7日同地で没した。
墓は通化寺の境内地にあり、隆重夫人の墓も並んで建っている。
凝灰岩(俗に平野石)製の宝筐印塔で、基台・基礎・塔身・笠・相輪(露盤・請花・宝珠)と積み上げているが、ずんぐりとした相輪、隅飾りが外に張り出し軒の厚い笠、基礎の銘文の刻みよう、線彫りの丈長の反花を配する基台など、近世初期の特色をよく示している。

また、基礎の正面に次の陰刻がある。隆重墓(総高156cm)は中央に「一峯円月居士」、その向かって右に「天正十二甲甲」、左に「四月初七日」と刻まれている。この墓は元嘉が久田(くでん)に定住後、出雲国から遺骨を移して建てたものである。隆重夫人の墓は中央に「為明山久花大姉」、右に「于時慶長十四己酉年」、左に「八月廿九日」と刻まれている。

谷津神楽舞

谷津神楽舞の由来は、江戸時代後期に行波の神舞から伝わったものといわれる。
江戸時代後期から明治時代までの谷村(現在の谷津と上市)には、里神楽の集団が二つあり、谷津上地区の舞子舞と谷津下地区の大夫舞が継承されてきた。

嘉永2(1849)年初秋に、玖珂本郷村の藤井百次郎が神楽面を谷村の氏神さまの山王宮へ奉納して神楽舞を行ったといわれている。この神楽面が、現在まで伝えられており、この面をつけて神楽舞を奉納している。現在では、舞子舞は途絶えてなくなり、大夫舞は保存会により継承され、後継者の育成とともに神楽舞が奉納されている。祭祀前夜の「湯立の神事」立舞、当日の「太鼓の口開け」から「太刀かえり」までの12演目が次第により奉納される。

 

長野神楽舞

寛永16年(1639)に創設され、享保5年(1720)より七年期となる。
七年期神楽舞の由来は享保年間(1716~1736)に、数年続いた大飢饉で凶作、虫害に苦しみに対し、生業発展・五穀成就・百難消滅を三地区(上・中・東長野、下長野、鳴川・中島)で蛆ヶ森(うじがもり)河内神社及び秋葉山に祈願するために七年毎に神楽舞を奉納することになった。

以来、七年を期として三区の輪番により、長野神楽舞世話人と舞子・楽師および地区住民によって続けられてきた。

 

谷津下の弥山道の道標

弥山道の道標は、三角形の自然石の前面に「これよりみせん道」寄進 谷津村 新町中 と刻まれている。
阿品にある弥山に向かう参詣道に設けられたのがこの道標である。
新幹線高架工事にともなう道路拡幅工事等により、現在地の地蔵堂西側に隣接して移動設置されている。

有延の二井寺道の道標

二井寺道の道標は、花崗岩の切石の柱の一面に、左手の指さし絵が刻まれ、その下に「右ニ二井寺道」と刻まれている。
二井寺は、中世には代々皇室の勅願寺となり、以降、大内氏・毛利氏・吉川氏の崇敬も厚く、参詣する多くの庶民で賑わっていた。

千束の妙見道の道標

妙見道の道標は、左右2基の灯篭の内側に2基あり、いずれも花崗岩の切り石柱で、一面に「これよりめうけん乃ふもとまで二十一丁」、「妙見道従是」と、それぞれ刻まれている。
灯篭の一対には、寛政9年(1797)、天保4年(1883)の年号がそれぞれ刻まれている。

ちなみに妙見道の妙見は、周東町川上にある鮎原妙見宮(現在の鮎原劔神社)のことである。

石風呂

石風呂は19世紀初頭に著された『玖珂郡志』に、「玖珂本郷村栗屋谷の石風呂」と記載があることから18世紀後半には築造されていたと思われる。

石風呂は、西向きに開口する石室であり、床平面がほぼ円形で、周りの壁は円錐台状に立上り、天井部はドーム状になっている。床面には割石が並べられており、周囲の壁及び天井部の内面には割石が組まれていて、すき間には漆喰が詰められている。

大きさは開口部で幅65㎝、高さ100㎝で、部屋の広さは、南北195㎝、東西190㎝で、中央の高さ230㎝である。

祥雲寺の請雨作法一式 請雨経版木一式 諸龍王像画四幅 四大龍王像画 幷 仏名幅画五幅 丈観和尚像画一幅

祥雲寺には、江戸時代後期に請雨作法に用いられた請雨経版木及び祈雨法檀儀規、四大龍王像画并仏名幅画5幅、諸龍王像画4幅、丈観和尚像画1幅が所蔵されている。
これら祥雲寺に伝わる請雨作法に用いられた請雨経版木、龍王像、仏名幅、丈観和尚像など雨祭に関する資料と貴重である。

紙本墨書極楽寺文書

極楽寺に伝存する中世文書6通を巻物に仕立てたもので、その内容は次のとおりである。
一、天文八年五月二十三日 後奈良天皇綸旨 一通
二、(年未詳)六月三日 後奈良天皇口宣 一通(権中納言広橋兼秀執達状)
三、(年未詳)二月朔日 豊臣秀吉書状 一通
四、弘治二年六月四日 毛利元就・隆元連署、新寺別当職補任状 一通
五、永禄十一年九月十八日 毛利輝元、新寺別当職補任状 一通
六、天正十六年二月二十八日 毛利輝元、新寺別当職補任状 一通

第一通は新寺が代々の勅願寺であることを確認し、先年火災により勅裁・院宣等をすべて紛失した由であるが、先規のように領知を全くし、皇家のために祈祷するようにとの後奈良天皇の綸旨を新寺別当宥頼に伝えたもの。
第二通は第一通の趣旨を、新寺別当宥頼に下知するようにとの、後奈良天皇の口宣を大内義隆に仰せ下されたもの。
第三通は尾崎坊が豊臣秀吉に、新春の御慶として祈祷に合わせ抹茶を送ったことに対する秀吉の礼状。
第四・五・六通は毛利元就・隆元および輝元の新寺別当に対する別当職補任状である。

極楽寺は古くからから勅願寺としての由緒を誇り、他に異なる寺格を有していたが、これらの文書はそのことを裏付ける重要な史料である。
極楽寺が度重なる寺家転退の中にあって、このような中世文書を伝存したことは貴重である。

紙本墨書伝後鳥羽天皇宸翰御消息

総縦126.5cm、総横58.4cm、縦27.9cm、横50.2cmの掛幅である。
礼紙に次のような文言が散し書きしてある。
『国の事禅閣かやうに 申候此分はまことに 子細候へき事にても さぶらず 更に いそき仰下 され候へく候 返々 このよしを 申しこせ給へ あなかしく』。

この古文書の伝来については不明である。ただ、二井寺山極楽寺が由緒深く古くから朝廷との特別の関係があったことを物語る資料として重要である。

軍配團扇

社伝によれば、軍配團扇は明治4年(1871)の廃藩置県に際し、旧藩主吉川経健が甲と共に三島神社に寄進したと伝えられている。
江戸時代に製作されたもので、軍配團扇は合戦の際に、軍兵を指揮統率するために用いられたもので、大将の携行する兵具である。

この軍配團扇は羽及び留め金、被せ金などに吉川家の家紋である九曜紋をあらわしており、吉川家当主が使用したものと思われ、羽の中央を通る柄の上には摩利支尊天の文字を記している。摩利支尊天は障難を除き、利益を与えるものとして、武士の間に守護神として広く信仰されていた。羽の面に月の文字と月の満欠けを組み合わせて表示し、星を操って戦運を占い、それに基づく独自の日取図と占いの結果を書きあらわした典型的な軍配團扇である。

保存状態は良好で、江戸時代の模式的な軍配團扇の遺品として貴重である。

木造五輪塔

この五輪塔には風、水、地輪の表面に、わずかに墨書や梵字が確認出来、供養塔として造設されたものと思われる。
地輪の底地付部の銘文によれば、この五輪塔は永正2年(1505)に十王堂に十王とともに安置するため造立するもので、その趣旨は願主の現世安穏、後生善處の願望成就を祈るところというのである。五輪塔とともに遺存する十王の2躰に「永正二年」の紀年銘があり、十王と五輪塔が同時期に造立されたことがわかる。

また、火輪の1側面に彫られた三角形の穴は何等かの納入物(或いは仏舎利か)を納めたものと思われ、室町時代末期のこの地方の十王信仰のありようを示す資料として重要である。

慈眼寺 鰐口

この鰐口は原銘により應仁元年(1467)四月廿四日に豊後州富来柳迫に所在した地蔵菩薩に奉懸されたことがわかる。
「富来」は豊後国国東半島の北東部周防灘に望む地域で豪族富来氏の本拠であった。鰐口が豊後から周防国差川の地に移されたかの由来は明らかでない。
追銘に見える「慈眼寺」は寛保元年(1714)に差川村の小都合庄屋田中十右エ門が萩藩に報告した『地下上申』によれば「杉が原と申ハ差川村之内ニ有之小名ニて御座侯、比所ニ先年杉原山慈眼寺と申禅宗有之、只今ハ観音堂ニていづれ之時か絶破仕候、観音堂山号を小名ニ申伝、杉原と申伝ニ御座侯事」と見えている。すなわち寺は寛保元年当時には廃寺になっており、その時期もはっきりしない位以前のことであったのである。この鰐口ははじめ慈限寺に懸げられ、廃絶後はその旧跡である観音堂に伝えられたのであって、このことは天保年間(1830~1843)に編集された『防長風土注進案』に記載されている。

小型の素朴な鰐口で工芸品として特に作域の優れたものとはいい難いが、製作の時代も古く、その伝来の経緯、特に古跡慈眼寺の唯一の遺品であることから貴重である。

短刀 周防国杉森住二王清綱

住所銘「杉森」は高森の古名で、刀工「二王清綱」(におうきよつな)発祥の地が周東町であることを資料的に裏付ける貴重な一刀である。

平造で刄長八寸四分五厘、反りなし、中心孔二つ。元身幅七分三厘、先身幅五分弱、重ね四分二厘。元重ねが四分を越え、重ねの重いがっしりした鎧通しの姿である。
清綱の住所銘が刻まれたものに、「玖珂庄」、「玖珂住」のものがあるが、この短刀にみられる「杉森住」は唯一のものと言える。
周東町域の大半は、かつて中世玖珂庄の庄域であり、玖珂、杉森の地名から推測して二王清綱は恐らく周東町の字千束小字道徳に伝承された清綱屋敷あたりで鍛刀したものと思われる。

絹本着色仏国国師像

縦107.6㎝、横51.4㎝の絹地に彩色した仏国国師(1241~1316 後嵯峨天皇の第三皇子)の頂相(肖像画)。

延慶2年(1309)大内弘幸が仏国国師を開山として建立した古刹、岩国横山の臨済宗永興寺の旧蔵品で、作者は不明であるが、鎌倉の円覚寺の住持をつとめた霊山道隠(1325没)の賛があり、製作の時期が14世紀初期と考えられる山口県内では最も古い頂相で、貴重である。

付(つけたり)は、縦119.5㎝、横61.0㎝の絹地に彩色した仏国国師の頂相で、吉川家御用絵師斉藤等室(1668没 雲谷派)の筆で、黄檗宗の開祖、隠元隆琦(いんげんりゅうき)の賛がある。

極楽寺薬師堂

極楽寺は『新寺縁起』(にいでらえんぎ)によると秦皆足(はたのみなたり)によって天平16年(744)に創建されたと伝えられている寺であり、平安時代末期に成立した仏教説話集の『今昔物語』(こんじゃくものがたりしゅう)、鎌倉時代に編纂された仏教の通史である『元亨釈書』(げんこうしゃくしょ)にも観音霊場としての記述がある寺院である。

薬師堂はその境内にあり、桁行3間(5.75m)、梁間3間(5.74m)、重層屋根、方形造り、本瓦葺、全体は素木造りの建物である。万治3年(1660)に梅枝薬師堂(ばいしやくしどう)として岩国横山の白山比咩神社(しらやまひめ)境内にあったものを、元文4年(1739)同じ横山地内の寺谷に移し、さらに明治6年(1873)に極楽寺に移築したものである。

岩国学校校舎

岩国学校は、明治3年(1870)岩国藩主が藩中の青少年を教育するため学制の大改革を行い、旧兵学校と文学校を公中学・公小学に組織を改めて現在地の近くに新築、翌4年2月に開校したものである。校舎は上層を教員詰所、下層を教室にした二階建てであったが、学制発布の明治5年に三階を増築した。

当初の部分はほぼ和風様式であるが、増築した三階は屋根鉄板葺きアーチ窓、ヨロイ戸付、しっくい大壁造りの洋風である。

この和洋を混淆した手法は、明治初年の教育制度の激しい変革と文明開化の気運を象徴するもので、全国に現存する明治初年の学校建築の中においても様式の特異性において他に例を見ない。昭和47年8月に解体修理を実施している。

香川家長屋門

岩国市横山二丁目に所在する岩国藩家老香川家の表門である。17世紀末、元禄年間の当主、香川正恒(かがわまさつね)のとき、大工大屋某によって建てられたものと伝える。

桁行23.29m、梁間4.85mで、屋根は入母屋造りで本瓦葺きである。正面に向かって左寄りに出入り口があり、大小の扉をしつらえている。門の左側は茶屋が設けられ、右側は三部屋に分かれ、仲間部屋、武道場(板敷)、厩に当てられていたという。

岩国市内の木造建造物として最古級のものの一つで、岩国城下町の風情を残す建物である。

向畑の左近桜

樹高19.5m、根本周囲5.8m、枝張り26.5mのサクラで、平家の落人で向畑の集落を開いたとされる広実左近頭にちなんで名付けられたという。

品種はエドヒガンである。伝承では樹齢700年以上となっている。