釜ヶ原地区は美和町北東部の広島県境沿いに位置しており、釜ヶ原と大三郎の二つの集落から構成される地区である。
両集落にそれぞれ河内神社があり、秋の大祭(10月9日夜)には、毎年交互に奉納舞が行われ、どちらも6年ごとの年祭には「大将軍」が舞われる。
現在、伝承されている釜ヶ原神楽の原形は、明治末期から大正にかけて旧本郷村から伝わったとされているが、それ以前から何らかの神舞(かんまい)が存在していたようである。
一時、停滞期があったが昭和45年(1970)ごろ、青壮年十数人が健在だった数人の長老の指導を頼りに、村おこしの一環として神楽保存会を結成した。
当時保存会は、衣裳を購入する費用などを捻出するために「持ち株組織」で運営されており、株を持った者以外は神楽を舞うことはできなかった。
しかしその後、地域全体で神楽を保存していこうという気運が高まり、「持ち株組織」を廃止して全戸に呼びかけを行い、現在の「釜ヶ原神楽団」の基盤が確立された。
釜ヶ原神楽の舞の特色は、楽士の笛や太鼓のリズムが「八調子」とよばれる速いテンポであることが特徴であり、おもな演目は湯立て(ゆたて)・すすはき・七五三(しめぐち)・柴鬼神(しばきじん)・三刀(さんとう)・さすい・恵比寿(えびす)・三鬼(さんき)・姫取り・金時・五郎納寿(ごろうのうじゅ)・天岩戸(あまのいわと)・御神楽(おかぐら)・大江山・八岐大蛇(やまたのおろち)・大将軍(だいしょうぐん)である。
この御縁紀三巻は宝永2年(1705)の秋、佐伯通次(さえきみちつぐ)、広兼時義(ひろかねときよし)其外氏子中が願主となって、本郷村三所大明神神主西村将監尚古(にしむらしょうげんなおふる)が記したもので、本郷八幡宮の縁起をもってこの御縁紀が調えられたと『防長寺社由来』(ぼうちょうじしゃゆらい)に記載されている。
縁紀の内容としては、上巻には、序文・神代序説・仲哀紀、中巻には応神紀・豊前国宇佐宮本紀、下巻には、八幡宮御縁紀・當社記録を収録する。
神社縁起の中では体裁がよく整っており、八幡縁起の内容もよく伝えられている。
享保17年(1732)、西日本一体に来襲した蝗害(イナゴの害)は各地に多数の餓死者を出した。
当時の生見村も同様に、213人の餓死者を出し、この人数は、村の人口の2割~3割にあたると推測されている。
こうした状況を記しているのが本資料である。
この過去帳は、生見村(現美和町生見)にあった善秀寺に伝えられたものであり、明治の初めに善秀寺が廃寺となり、防万寺に移されたものである。
この過去帳は旧下畑村(現美和町下畑)の養専寺に伝えられていたものである。
江戸時代の享保17年(1732)、西日本一体に来襲した蝗害(イナゴの害)は各地に無数の餓死人を出した。
当時の下畑村も同様に、304人の餓死者を出し、この人数は、村の人口の2割~3割にあたると推測されている。こうした状況を記しているのが本資料である。
像高は約72㎝、ヒノキ材の寄木造りである。像の顔立ちは彫眼で容貌はふくよかである。
江戸時代、キリシタン信徒が幕府の厳重な禁圧の目をくぐり観音様と称して密かに礼拝した聖母像と伝えられている。
像高66.5㎝(頂上から左足先まで)、頂上~顎14.0㎝、面巾12.0㎝、膝高8.7㎝(右足)、連座高17.5㎝、頭光直径36.0㎝、面奥12.5㎝、張り26.7㎝、台座総高40.5㎝。
ヒノキ材の一本造。頭体部を1材で造り、膝前及び両手、左足先を矧ぎつけている。頭は円頂で、白毫相をあらわす。(白毫は水晶を嵌入)彫眼、耳朶は環とし、三道を刻む。
右手は屈臂して斜め前方にたて、5指を握り、錫杖を執る。左手は屈臂し、掌を仰いで、そこに宝珠を捧持する。法衣を通肩に着け、左足を半跏(踏み下げ)して蓮座上にすわる。
台座の下方は四角で、框があり、その上に敷茄子を置き、その上方に蓮華座を置く。この蓮華の蓮弁は魚鱗葺である。下方の框のまわりに木の根でつくった雲形を置く。
頭光は宝珠輪光で、月輪光の上3か所に宝珠を付す。但し、この頭光及び蓮座の下方は後世の作と考える。
松月庵は『防長風土注進案』(ぼうちょうふうどちゅうしんあん)には、長徳寺本寺古跡松月庵とあり、長徳寺の跡地に建立されたとされる。
七観音は長徳寺に安置されていたものを松月庵に安置し、地元の人々により、手厚く守り続けられてきたものと考えられる。
七観音とは、衆生を救済するために、姿を七種に変える観音で、千手(せんじゅ)観音、馬頭(ばとう)観音、十一面(じゅういちめん)観音・聖(しょう)観音、如意輪(にょいりん)観音、準胝(じゅんでい)観音、不空羂索(ふくうけんじゃく)観音をさす。
像は中央の仏師により、作られたと推測され、保存状態もよい。おだやかな顔、流れるような衣紋、ふくよかな蓮弁、など室町時代の作品の特徴がよくでている。
本覚寺は本郷町にある徳門寺の末寺で、『防長風土注進案』(ぼうちょうふうどちゅうしんあん)によれば坂新五左衛門(さかしんござえもん)の菩提寺である。
仏像はヒノキの寄木造りで、肉髻(にくけい)、衲衣(のうい=僧尼が身につける袈裟)は墨彩で、肉身部は金箔彩色である。
保存状態は良好で台座がすべてそろっているのも極めて珍しい。
像はふくよかな慈愛に満ちた丸顔で、玉眼や白毫は水晶で造られており、衣文線などから仏体、台座とも、室町時代前期の作と考えられる。
東林寺の本尊、薬師如来座像は50年に一度開帳される秘仏である。像の右手は施無畏(せむい)印、左手は与願(よがん)印で薬壺(やっこ)を持つ。
像はヒノキの一木造りで、製作の形式から室町時代の作と推定されている。
いく度かの火災をくぐりぬけ、里人の厚い信仰に支えられて、今日に伝存した数少ない中世の仏像として貴重なものである。
次の開帳は2027年である。
随神像は本来神社の門である随身門の両脇に置かれるもので、俗に矢大臣、左大臣といい、剣を携帯し、矢を背負った衛門(えもん=門を守る兵士)の姿をしている。
随神像があることは、かつては随身門が存在していたことを示している。
これらの像は、ヒノキの一木造りであり、著名な彫刻師の作とは思われないが、桧の一木彫で、鬢(びん=耳際の髪)をもつ像には永享元年(1429)の墨書銘がかろうじて判読できる。
欠落部分が随所に見られるが、顔の相をはじめ、全体的によく整えられて制作されている。
狛犬は神社の入口や神殿の前におかれ、悪魔払いや災危防除の役目をしたといわれる。
この狛犬は木製のもので、胴体は一木造りで彫られたもので、尾の部分は枘(ほぞ)が付き、胴体に付された枘穴と合わさるようになっている。
狛犬の底面には墨書があり、貞治5年(1366)に神主教一(かんぬしきょういつ)が願主となって造進したと記載がある。
彫法は素朴であるが制作時期のわかる木製狛犬は少なく、貴重である。
阿難尊者立像は像高60.5㎝でヒノキ材の寄木造りである。迦葉尊者立像は像高60.0㎝である。
釈迦如来座像の両脇につかえる阿難尊者立像、迦葉尊者立像は彫法から室町時代の作と考えられる。
釈迦如来座像と制作時期が若干ことなるため、後の時期に一体のものとして付されている。
像高54.8㎝、臂張り37.0㎝、膝奥33.9㎝。
この像は一木造りとみられ、南北朝時代(14世紀中頃~末)に制作されたもので、彫りも良く、当地における臨済宗寺院創建の歴史を伝える貴重な遺産である。
涅槃図は、釈迦の入滅とその嘆き悲しむ仏弟子や菩薩・諸天、在家信者、動物などによって構成される絵で、縦約3.6m横約2.7mの絹本着色の軸物である。
天正9年(1581)に善慧大師(ぜんえたいし)によって描かれた。
安山岩製で、低平な基壇の上に背の高い軸があり、その上に屋根と軸部を一石で掘った笠が五つ乗っている。
上方にあったと思われる相輪は失われている。5つの笠は上方にゆくにつれて大きさを小さくしている。
軒は厚さも充分であり、両端にいって少し厚みをまし上方にゆるやかに反っている。軸部には正面中央部に蓮華を刻し、その上の月輪のなかにタラーク(宝生如来)梵字がある。
この面に縦に3行、下記の刻銘がある。
刻銘には天文15年(1546)の紀年銘が刻まれている。軸部にはこのタラークに向かって右の面にウーン(阿閦如来)、左面にキリーク(阿弥陀如来)背面にアク(不空成就如来)の金剛界四仏の梵字が彫ってある。
山口県内の石造の層塔のなかでも古い部類であり、貴重である。
旧栄福寺の古跡とされ、県指定文化財大般若経全600帖付唐櫃(からひつ)3合が納められている観音堂である。
観音堂は「辻堂」としての性格も持ち、吹き抜けの建物で、仏像や大師像を安置し、集落の信仰の場や休憩の場でもあった。
また、ここでは毎年旧暦7月1日に、地区住民により大般若経を転読し、数珠を繰る「生見中村ねんぶつ行事」(市指定文化財)も催されている。
清水地区の人々によって五年に一度行われ、無病息災、五穀豊穣を祈願する。
清水地区南側の鎮守の森を祭壇にして、島田川の源流を挟み向かい合う、男神(樫の木)と女神(杉の木)をご神体として藁蛇(わらへび)と呼ばれる長いしめ縄を幾重にも巻きつけて祭事が行われる。
祭りは前夜祭と本祭に別れており、前夜際は前回の神事の際に籤により決められた当屋(とうや)で神事を行い、本祭は、当屋で獅子舞が行われた後、御神幸(ごしんこう)の列が当屋から鎮守の森まで進む。
到着の後、注連縄が巻かれた神木に供物を備えて、それぞれの神木の前で神官による祝詞の奏上がなされる。
神事の後は、次の当屋を籤で決めてから、餅まきが行われる。
山代神楽は、岩国市北部の山代地方に古くから伝わる神楽の総称である。
山代本谷神楽舞は、本谷地区(岩国市本郷町)で古くから伝承されてきたもので、源流は出雲の流れをくむ安芸十二神祗系神楽(あきじゅうにじんぎけいかぐら)に「五行」を骨子とした備後神楽が強く影響していると考えられ、その起源は享保年間(1716~36)に遡るといわれるが、言い伝えによると安政年間(1855~60)に山代一帯に疫病が流行した際、平癒祈願として奉納されたとされ、それ以来100年以上の間、毎年10月の第2土曜日に地区の氏神様である河内神社で奉納神楽として舞い続けられてきた。
座高158.8㎝。ヒノキ材、寄木造りの薬師如来立像である。
建立寺がかつて安養院といった頃の本尊であり、建立寺となってからは薬師堂に安置されてきた。
頭は螺髪(らほつ)を彫り出し、肉髻珠(にくけいじゅ)、白毫相(びゃくごうそう)があらわされ、耳朶(みみたぶ)は環状、首には三道が表現されている。
衲衣(のうい)を両肩からゆるやかに垂らし、両足をそろえて台座に立つ。右腕は肘を曲げ、掌を前にして指をゆるやかに開き、左腕は自然に下ろし、掌に薬壺を持っている。
全体の肉取が良く、また衣紋が浅いことから平安時代後期の製作と推定される。
十王(じゅうおう)とは、道教や仏教で、地獄において亡者の審判を行う存在で、秦広王(しんこうおう)・初江王(しょこうおう)・宋帝王(そうていおう)・五官王(ごかんおう)・閻魔王(えんまおう)・変成王(へんじょうおう)・泰山王(たいざんおう)・平等王(びょうどうおう)・都市王(としおう)・五道転輪王(ごどうてんりんおう)の10尊である。
浄円寺の「畧縁起」によれば、江戸時代の初め、寺が陽明庵の古跡に移ってきた時には、「今陽明庵残什物大般若経三箱、十王七躰、其外古仏数多並開山位牌等在之」とあり、十王の内七体が残存していたことがわかる。その後三体が失われ、現在、四体が残っている。
像底の墨書の判読により「広王」は秦広王、「江王」は初江王と見られ、それに都市王を加えて三体は尊名を知ることができるが、他の一体については手首から先を欠失しており、持物の特定もできないので、尊名を類推することはむつかしい。
像はいずれも損傷が著しいが、ヒノキ材の縦一材からの丸彫りとし、内刳りは施さない。素朴な彫法ながら円みをおびる面貌はおだやかで、躰部の張りのある形状もよく、小像ながらまとまりのよい均衡のとれた彫像で、室町時代の特色を見せている。特に初江王の像底に「二乙丑八月」、都市王の像底に「永正二乙丑十月日」の墨書が読みとれ、一連の十王像が永正二年(1505年)の製作であることが認められる。
県下に遺存する十王像で紀年銘のあるものは初見で、十王像の基準作として価値が高く、同時にこの地方の中世信仰史を知る上でも重要である。