宇佐の鉄燈籠

永享9年(1437)に造られた山口県最古の鉄燈篭で、笠・火袋・中台・基礎の四つの部分が現存し、宝珠と竿は欠失している。寛延3年(1750)に萩藩に提出された「八幡宮由来書」によると「永享九丁巳八月吉日山代庄宇佐村長兼大工藤原朝臣安信」の銘文があり、欠失している竿の部分に銘文があったと推測される。

この鉄燈篭は弘化年間(1844-1848)に宇佐八幡宮の社殿を再建した際に出土したもので、地震等により地中に埋没した際に部材が欠失したものと考えられる。

基礎に見られる花文(かもん)や高肉彫り(たかにくぼり)の獅子などは技工的に優れており、金工資料としても重要である。

小桜韋威胴丸 兜・大袖・替袖・頬当・喉輪・臑当付

織田信長の所用と伝えられる胴丸である。胴の高さ36.5㎝、胴廻り114.5㎝、草摺(くさずり=胴の下にさがっていて、足の太股を守る部分)の高さ25.5㎝の軽装の鎧である。小札(こざね)は、黒漆を盛り上げて塗った本小札で、小桜模様の染め革を使って毛を返したように威し(小札を横長に綴ったものを上下につなぐこと)ている。韋所(かわどころ)には藻・牡丹・獅子を描いた革や藍染めの杉・菖蒲を描いた革などが使われ、萌黄・白・浅黄・紅・紫の5色の色糸で小さな針目を出す伏せ縫いが施されている。金具廻りには小桜鋲が使われ、綿噛(わたかみ=胴を肩から吊す革)に付けられた杏葉(ぎょうよう)には、金メッキの「織田瓜紋」が据えられている。兜は、五十二間総覆輪筋兜(兜鉢のはぎ合わせの部分を金属で覆い、筋状になっている)と言われるもので、臑当なども含めて安土桃山時代の特色を示す優れたものである。

色々威胴丸 広袖付

安芸国(現在の広島県)銀山城主(かなやまじょうしゅ)・武田光和(たけだみつかず)が所用したと伝えられる胴丸。胴の高さ31.5㎝、草摺(くさずり=胴の下にさがっていて、足の太股を守る部分)の高さ23.1㎝、胴廻り(脇板)119.7㎝の活動しやすい軽装の鎧で、小札は、黒漆を盛り上げて塗った本小札を白・紅・萌黄・紫の色糸を使って、毛を伏せたように威し(小札を横長に綴ったものを上下につなぐこと)ている。金メッキの金具廻りや韋所には、藍染め革や藻・牡丹・獅子が描かれた革、熏革(くすべかわ=松葉の煙でくすべ、地を黒くして白く模様を残した革)などが使われている。黒漆を盛り上げて塗った本小札を色糸で威して作られた壷袖(袂のない袖)が付いている。

藍韋威肩白紅胴丸

胴の高さ32.3㎝、草摺(くさずり=胴の下にさがっていて、足の太股を守る部分)の高さ20.3㎝、胴廻り(脇板)106.5㎝の室町時代に作られた胴丸(軽装の歩兵用の鎧)。小札(こざね)は黒漆塗りの本小札で、白・紅の色糸や藍染めの革を使って毛を伏せたように威し(小札を横長に綴ったものを上下につなぐこと)ている。金メッキの金具廻りや韋所(かわどころ)には、藍染め革や茶染め革、藻・牡丹・獅子が描かれた革などが使われて、萌黄・紫・黄・白の色糸で伏せ縫い(表に小さく針目を出す縫い方)がされている。

木造不動明王立像

像高91.3cmで、ヒノキ材の寄木造りである。頭部は巻髪で弁髪(べんぱつ)を左肩に垂らす。眼は右眼を大きく開き、左眼を半眼とする天地眼(てんちがん)、牙を上下に出している。右手に宝剣、左手に羂索(けんさく)を持つ。火焔を光背にして岩座の上に立つ。彩色はよく残っている。不動としては姿体がおとなしく、裳の衣紋は浅く流れるようである。制作は平安時代末期と考えられ、不動明王像としては、県下の秀作のひとつといえる。

昭和30年度(1955)に保存修理を実施している。

鉄黒漆二十二間総覆輪筋兜萌葱糸素懸威𩊱

鉢の高さ14.6㎝、径は前後が24.0㎝、左右が20.0㎝で、楕円形をした「阿古陀形(あこだなり)」という形式の兜。
22枚の台形の鉄板に黒漆を塗り、はぎ合わせの部分を金属で覆って筋状にし、頭頂部の八幡座は5重で、篠垂(しのだれ)という細い金メッキの筋金が前に3条と後ろに2条据えられ、腰には神社等に見られるような斎垣(いがき)がめぐらされている。
眉庇(まびさし)はやや前に出る伏せ眉庇で、その上に三鍬形台があり鍬形が立っている。
しころ(鉢の左右から後方に垂れて首を覆うもの)は萌黄色の糸を使い、糸目を粗くして所々2筋ずつ並べて綴る素懸威(すがけおどし)となっている。

室町時代に盛んに行われた特色の著しい作りで、室町時代中期以降に作られたものと思われる。

鉄錆󠄀塗二十八間総覆輪筋兜鉢

現在は錆漆塗りとなっているが、本来は32枚を張り合わせた黒漆塗りの筋兜鉢(はぎ合わせの部分を金属で覆い、筋状にしている)である。
高さ12.2㎝、鉢の径は、前後23.2㎝、左右20.6㎝で、篠垂(しのだれ)という細い金メッキの筋金が前に3条と後ろに2条据えられ、頭頂部の八幡座は金メッキの魚子地(ななこじ=粟粒を並べたように、細かい粒を突起させたもの)に枝菊を高彫りにした円座に小刻みの裏菊と玉縁など5重になっている。
腰には、神社等に見られるような斎垣(いがき)がめぐらされている。南北朝時代から室町時代初期にかけて作られたと推定されている。

鉄錆󠄀地三十六間星兜鉢

表面が酸化して錆びている鉄の板を、鋲ではぎ合わせて作った兜鉢。
全体の形は、前後左右の径がほぼ等しい大円山形(だいえんざんなり)で、高さ10.8㎝、鉢の径は前後が22.6㎝、左右が20.0㎝となっている。星は、1行に16点と腰巻に1点ずつ打たれ、42枚が張られ、前正面ではぎ合わされている。
頭頂部の八幡座や眉庇(まびさし)、篠垂(しのだれ=正面や前後左右の細い筋金)、革毎(しころ=鉢の左右から後方に垂れて、首を覆うもの)などは失われているが、南北朝時代の特色をよく表している。

黒漆矢筈札浅葱糸素懸威腹当

胴の高さ25.8㎝、胴廻り69.2㎝、草摺(くさずり=胴の下にさがっていて、足の太股を守る部分)の高さ12.7㎝の腹巻よりも簡略化された下級士卒用の防具。
小札(こざね)は、黒漆塗りの革で包まれた矢筈札(やはずざね=弓の弦をうける矢の上端の形をした札)で、浅黄色の糸で威し(小札を横長に綴ったものを上下につなぐこと)ている。
草摺の中2段と左右の1段は、糸目を粗くして所々に二筋ずつ並べて綴る素懸威(すがけおどし)となっている。

室町時代末期に作られたこの種類の腹当は、残っているものは少なく貴重である。

金銅如来形坐像

この金銅如来形坐像は、その伝来について不明なところもあるが、日本に伝存する高麗時代の仏像として優れた作柄を示す作品である。

この像は、右手を胸前にあげ、左手を左膝上に差し伸べ、ともに第1指と第3指を捻じ、右脚を上に結跏趺坐(けっかふざ)する。肉髻部と地髪部を明確に区別せずにゆるやかに盛り上げた頭部には小粒の螺髪を整然とつくり、角張った大きめの顔面部には、すこしたるみのある髪際線、紐状の大きな耳、上下瞼がふくらんだ切れ目のある眼、太く鋭角的な鼻、厚い口唇などを大きく表現し、頸部に三道をもりあげてあらわす。鐘状を呈する太づくりの体部には通肩に法衣を着け、U字状に広く開いた胸部に裙を締めた紐の結び目をのぞかせ、新羅時代後期以来の伝統的な仏像表現を踏襲している。

地着部周縁に5個の孔があり、像底に底板を張った可能性が強く、かつて像内納入品を納めていたと推測できる。

大きな頭部をやや前方に傾けた形姿や台形状の膝部の表現などから本像の制作は、高麗時代後期(14世紀初期)ごろと考えられる。

優れた鋳造法や明快な表現などは、日本に伝来する30余点の高麗仏の中で佳品の1つとして挙げられ、貴重である。

藍韋威肩櫨紅腹巻

胴の高さ31.0㎝、胴廻り92.5㎝、草摺(くさずり=胴の下にさがっていて、足の太股を守る部分)の高さ26.4㎝の、室町時代末期に作られた鎧腹巻。
小札(こざね)は、左右の両端を少しずつ重ねたまま綴り延べた伊予札と本小札で、櫨(はぜ)・紅糸・藍染め革を使って威し(小札を横長に綴ったものを上下につなぐこと)ている。
草摺は、糸目を粗くして所々に二筋ずつ並べて綴る素懸威(すがけおどし)となっている。
金具廻りや韋所(かわどころ)には、藍染め革や茶染め革のほかに、一見ヒキガエルの背のような外形をした、しわのある蟇肌(ひきはだ)革が使われているのが珍しいと言われている。

紺糸威肩紅腹巻 付 大袖

胴の高さ28.2㎝、胴廻り100.2㎝、草摺(くさずり=胴の下に下がっていて、足の太股を守る部分)の高さ30.0㎝の鎧腹巻。
小札(こざね)は、黒漆を盛り上げて塗った本小札で、紅・紺の色糸を使って、毛を返したように威し(小札を横長に綴ったものを上下につなぐこと)ている。
腹巻はもともと装束の下に着けるものであったが、この腹巻には黒漆を盛り上げて塗った本小札を紅糸で威した高さ34.2㎝、幅34.3㎝(上)~35.4㎝(下)の大袖が付いている。

室町時代中期の特色豊かな優れたものである。

絹本着色釈迦十六善神像

縦83.8cm、横45.0cm。掛幅装。釈迦如来(しゃかにょらい)を中心に下辺に玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)と深沙大将(じんじゃだいしょう)を配し、左右に善神16尊が立つ。絹地に裏彩色を施した彩色画で、見事な彩色技法と明確な描線で描かれた鎌倉時代末期の制作と推定される優品である。

箱書と寄進状によると岩国藩が高野山より入手して、正徳元年(1711)の再建にあたり寄進した。昭和61年度(1986)に保存修理を行っている。

紙本墨画淡彩湖亭春望図

図の上部には「湖亭春望」と題された七言律詩が書かれており、「天與老雪」の名と「清啓」の朱文方印があるので、賛者は天與清啓(てんよせいけい)であることがわかる。関防印は「暁遠夜鶴」である。

湖亭春望図には印章、落款ともないが、雪舟筆の伝えがあり、天與清啓の賛がある。

賛を賦した天與清啓は、臨済宗大鑑派の禅僧であり、大内盛見(1377~1431、1409~25在京)、大内教弘(1420~65)父子との関係があった。享徳2年(1453)と応仁元年(1467)の二度にわたって遣明使節となっている。二度目の時は正使であり、渡明の一行の中には、別船であるが雪舟もおり親交があった。

天與清啓は、山口市源久寺所蔵の仁保弘有像にも、寛正6年(1465)8月、着賛している。湖亭春望図には、彼が渡航を前に周防に滞在していた時期(寛正6年又は7年の春か)に著賛した可能性がある。

また、狩野探幽(1602~74)により、「雪舟筆」、「自賛」の「山水」と鑑定されている。

湖亭春望図は日本の水墨画を特色づけている、淡く美しい彩色が施されており、製作時期が限定できる山水画としても重要である。

高森城址

高森城は『防長風土注進案』(ぼうちょうふうどちゅうしんあん)によれば、宝徳元年(1449)ごろ大内氏家臣・岐志四郎左衛門通明(きししろうざえもんみちあき)により築城された。

城は大内氏が安芸へ向かう際の戦略上の拠点となっており、大内氏の滅亡後、周防を支配した毛利氏は高森城に坂新五左衛門(さかしんござえもん)を入れ、山代地方の平定にあたらせた。

城址には、本丸・二の丸・三の丸・郭・付郭・武者走り・空堀・見張り台・出丸の施設が残る。また、南側急崖に造成された四段の郭群は築城当時のものでなく、大内義長の時期か、毛利氏の周防支配の時期(16世紀中頃)に造成されたとみられる。

 

芥川龍之介父系菩提寺(芥川龍之介父子碑)

芥川龍之介の実父、新原敏三は美和町生見の出身であり、真教寺は龍之介父系の菩提寺である。

明治の初め敏三は上京しやがて元幕臣芥川家の三女フクと結婚し三子を得た。
末子である新原龍之助は幼いころ母死亡の為芥川家で養育され、13才の時、芥川家の養子となり芥川龍之介となった。成長し東大卒業後海軍機関学校教官となり、航海見学で由宇まで来航し、帰途錦帯橋見学の為岩国へ来ている。
橋上から山々を望見し岩国の奥と聞いていた父の故郷を心中に銘記したと推察される。

航海見学の為延期されていた「羅生門出版記念会」が龍之介帰京の直後日本橋の「鴻の巣」で開催された。
これは錦帯橋見学の僅か2日か3日後の事である。当日依頼され揮毫したのが「本是山中人」で、龍之介が岩国での記憶を深く心に秘めて書いた望郷の一文である。
文意は誰にも解明されず謎とされていた。

真意は龍之介の没後、約30年後、芥川の番記者であった沖本常吉の研究と、佐藤春夫によって、文の「山中」は敏三の故郷である生見村であると明らかにされた。

昭和六十二年に建立の当碑は、龍之介の深い思いの本碑の碑文と遺族の願い。真筆による作品と署名の副碑があり、芥川文学碑のなかでも重要なものである。

処刑場跡

当所は江戸時代の山代街道沿いにあり、当時の秋掛村と本郷村の境である引地峠におかれていた。
昭和初期まで、処刑される人々がつながれたという松の大木があったとされ、また刑に用いられた刀を洗ったと伝えられる池の跡も近くに残っている。

 

当村餓死人三百人之墓 付 三百四人過去帳

享保17年(1732)、蝗害による飢饉で、秋ごろから翌年夏ごろにかけ、下畑村(現下畑小学校区)では304人の餓死者がでた。
享保17年当時の人口は不明であるが、下畑村では2割から3割程度が餓死したと思われる。このとき、山代33村で34,716人、全国では約260万人が餓死したという。

生きのこった村人たちは、この供養塔を建て餓死者の追弔を行った。ここにある五輪石などは、きちんとした弔いもできず家の近くに葬り、形ばかりの墓石として置いていたのを持ち寄ったものと伝えられている。

笠塚神楽

出雲流の神楽で、どのようにしてこの地に伝わったかは明らかでないが旧日積村(現在の柳井市日積)から伝えられたとも言われる。
江戸末期と伝わる神楽面・神楽衣装・採物(とりもの)等を保持し、囃子の楽器は大太鼓・神楽笛・合鉦の三種類を用いる。
神楽の曲目は、1、湯立ちの舞 2、六神の舞 3、砂水の舞 4、勧請の舞 5、式太刀 6、日本紀の舞 7、三鬼の舞 8、内外の舞 9、地鎮の舞 10、将軍の舞 11、武鎮の舞 12、岩戸の舞 と、俗にいわれる「十二の舞」からなり、別に祈願神楽の際には「安鎮神舞」と「八幡神定」の2曲目が加えられる。

生見中村ねんぶつ行事

この行事は毎年旧暦7月1日に生見中村観音堂で行われる行事で、地区の住民からは「ねんぶつ」と呼ばれる行事である。
概要を簡単に説明すると、まず観音堂に納められている大般若経全600帖(県指定文化財)を地区住民によって転読し、その後大きな数珠を車座で繰っていく行事である。

ただ、この行事に関する過去の記録は知られておらず、往古の状況はもとより、往古の状況がどこまで現在に伝わっているかも確認できない。

行事の流れは、午後4時頃、地元中村地区の人たちが観音堂に集まりはじめ参加者が集まったころを見計らって、世話役がお堂の仏壇下に納められている計3合の唐櫃を1合(20帙入り)ずつ取り出すと、10名余の参加者は早速転読に取りかかる。この際題目などは読まれない。誰がどの帖をめくるかも決まっていない。

唐櫃一合分が終わると、次も同じように行われる。

600帖すべての転読が終了すると、次は大きな数珠が取り出され、10名余の参加者全員が車座になって数珠をもち、ねんぶつを唱えながら繰り始める。ある程度回すと、今度は逆方向に繰る。数珠の珠数は201個でそのうち1個が大きい。この大きい珠が自分の所に来たら、数珠を頭上に持ち上げる。

なお、お堂を飾る特別な幕などはなく、僧侶による読経や釈迦十六善神像の画を掲げることもない。

中村地区の住民は、この「転読」と「数珠繰り」の両者をひっくるめて「ねんぶつ」と呼んでおり、これに参加すると夏病みを防げると言い伝えられている。