災厄除けの護符や起請文に押す印の版木で、牛王文殊宝印の文字が力強く浮き彫りしてある。護符として使用する場合は携帯したり、家の出入り口に貼ったりする。
制作者の氏名・年代・由来等未詳であるが天文年間(1532~1554)に作られたと推定されている。
災厄除けの護符や起請文に押す印の版木で、牛王文殊宝印の文字が力強く浮き彫りしてある。護符として使用する場合は携帯したり、家の出入り口に貼ったりする。
制作者の氏名・年代・由来等未詳であるが天文年間(1532~1554)に作られたと推定されている。
翁(おきな)面、抵牾(もどき)面、鬼(おに)面、姫(ひめ)面の四面で、いずれも鷺神社に江戸時代末期ごろ奉寄進された神楽面である。
作者は、岩国藩の作事組に属する工人で、出目上満(でめじょうまん 本名は福屋弥惣左衛門)といわれ、寛政12年(1800)の作が三面、弘化2年(1845)の作一面と伝えられている。
これらの面は、神楽面として彫刻技術がすぐれており、非凡さが認められる。近世岩国の工人の作であり、保存状態も良好である。
本堂の正面に釈迦牟尼如来座像(しゃかむににょらいざぞう)、その両側に釈迦の十大弟子である阿難(アーナンダ)、迦葉(マハーカーシヤパ)の立像、左右の棚には釈迦の弟子のなかで優秀な16人のである大阿羅漢(十六羅漢)の像を配している。
釈迦牟尼如来座像は高さ37㎝、阿難と迦葉の立像は高さ59㎝、十六羅漢像は45~46㎝の大きさであり、台座は岩座となっている。
作者は不明であるが、釈迦如来座像以外の18体は同一人の作で、6色の極彩色が施され、大和絵の流れを受けた江戸時代の手法である。
このような像は、市内では龍雲寺のほか、福田寺(錦町)のほかに安置されている寺院はなく、希少である。
ケヤキ造りで高さ32㎝、幅32㎝、重さ5㎏をはかる。岩国出身の工人、出目上満(でめじょうまん)作で像の背面に作者の墨書銘がある。力士像は梁や桁の上に置かれる部材、蛙股(かえるまた)として作られており、装飾として用いられ、金正院の向拝として掲げられている。金正院は、元々観音堂といい、享和から文化年間(1801~17)に改築が行われ、その際に奉納されたものである。
この像は、特異な意匠を有しており、その彫刻技術は力強さがあり、非凡なものである。作者の出目上満は本名を福屋弥惣左衛門(ふくややそうざえもん)といい、千石原の生まれで藩の作事組に属した工人で弘化2年(1845)に没している。近世岩国の工人の作品として貴重である。
総丈150㎝、膝張87㎝。製作は雲慶仏師と伝えられている。年代としては室町時代初期を下らないと推定される。巻子仕立て。像の右手は施無畏(せむい)印、左手は与願(よがん)印で薬壺(やっこ)を持つ。
伝承によれば、元和2年(1616)頃、この付近の海上に漂流していた像を堂宇に納めたと伝えられる。また、吉川広家がこの像に祈願して干拓工事を成功させた御礼として御鉢米1石6斗5升を贈り、伽藍を改めたと伝えられている。
巻子仕立て。上下2巻からなる。
椎尾八幡宮は平家の家人であった岩国氏一族に関係する神社とみられ、暦応3年(1340)や永享11年(1439)の棟札には岩国氏一族の名がみられる。
縁起は文明15年(1483)に描かれて、八幡宮に奉納されたものであり、縁起の奥書(奥付)には、八幡宮が所在する河内郷の豪族とみられる行宗次郎右衛門尉(ゆきむねじろうえもんい)が願主となり、祖生郷の渡辺左近将監毘(わたなべさこんしょうげんび)に絵を描かせ、小周防白石の神代部了重(こうじろべりょうじゅう)には詞書をもらい奉納したと書かれている。このように願主、絵師、筆者の名前や時期が明らかになっているものは貴重である。
また、付の貞享4年(1687)の縁起は、文明15年のものを書写したもので、こちらも江戸時代の八幡縁起の書写の状況がわかる資料として重要である。
紙本着色の合戦図。八曲半双(右隻)の屏風で縦171.2㎝、横(全長)568.5㎝。
軍学書『甲陽軍鑑』に基づいて、永禄4年(1561)に行われた川中島の合戦の様子を描いた八曲一双のうち、右隻部分の屏風である。17世紀代の作品としては岩国本と紀州本(和歌山県立博物館蔵)の2例のみで、歴史的にも美術的にも価値は高い。
右隻側は上杉側を迎え撃つ武田軍の陣立ての様子を描いている。こうした描写は珍しく、大変、貴重な構図である。
紙本着色の合戦図。八曲半双(左隻)の屏風で縦172.2㎝、横(全長)563.9㎝。
軍学書『甲陽軍鑑』に基づいて、永禄4年(1561)に行われた川中島の合戦の様子を描いた八曲一双のうち、左隻部分の屏風である。17世紀代の作品としては岩国本と紀州本(和歌山県立博物館蔵)の2例のみで、歴史的にも美術的にも価値は高い。
左隻側は合戦の様子を描いており、馬にまたがり、白頭巾に陣羽織を着た上杉謙信が太刀を振り下ろし、床几から立って軍配でそれを受け止める武田信玄の一騎打ちの描写などがある。
仙鳥館(仙鳥御屋形)は、元禄11年(1698)、岩国藩5代藩主吉川広逵(きっかわひろみち)の住居として建設された。同年11月20日、2歳の広逵は母と共に完成した屋形に移居している。
以後、主として、藩主吉川家の子女を養育するとともに、その母親(夫人)が共に生活する建物として利用された。明和5年(1768)から7年にかけて、書院の改築など大規模な改造が行われている。現在の建物は、弘化3年(1846)建築のものであり、既存の建物を解体し、その跡に本建物を建設したされる。その後は大きな改変がなく、江戸時代後期の姿をよくとどめている。江戸時代の大名関連の遺構としても貴重である。
構造は、桁行8間半、梁間5間、木造2階建、入母屋造、棧瓦葺。
広瀬八幡宮は、旧広瀬村・野谷村・中ノ瀬村の総鎮守で、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を祭神とする。大同2年(807)に豊前国の宇佐八幡宮から勧請を受け、創建されたと伝えられているが由緒沿革などに関する記録や社宝等は火災のため焼失し詳細な事項が判明しない。
神殿は、三社造りで屋根は鉄板葺である。棟札から天保6年(1835)の建立である。手挟・蟇股・支輪(たばさみ・かえるまた・しりん)に装飾彫刻を多用し、妻飾の二重虹梁(こうりょう)は出組斗栱(でぐみときょう)により身舎(もや)側柱筋から二段に持ち出される。
拝殿は、入母屋造で屋根は桟瓦葺である。中央に馬道をとる割拝殿形式で、広瀬八幡宮ではこれを横町と呼んでいる。棟札から弘化4年(1847)の建立である。かつての礼祭の際は、名主が裃に着替え、神事に臨む前の控えの場所として横町は使われた。錦川を挟んで西側の名主と東側の名主各十二人、計二十四人の座が建物内で定められている。
三間社流造・鉄板葺の建物で、棟札によると弘化元年(1844年)手斧始め(ちょうなはじめ)を行い、16年後の万延元年(1860)清祓(きよはらい)並びに遷宮(せんぐう)の儀式を行っている。
建物の特色として妻飾を虹梁(こうりょう)、両脇に叉首棹(さすさお)を備えた太瓶束(たいへいつか)とし、斗供(ときょう)は平三ッ斗、隅連三ッ斗で全体としては古式を保つが縁は腰組として三手先(みてさき)の挿肘木でうける。また蟇股(かえるまた)・木鼻の絵様、繰形彫刻にはやや稚拙な趣があり、時代相をうかがわせる。庇の繋虹梁が身舎柱上で大斗と組み合って持ち出されている手法は珍しい。正面の飛檐垂木(ひせんたるき)を新材としているが、外に大きな改造がなく、年代の明らかな幕末期の作例として評価できる。
昌明館は寛政5年(1793)に七代藩主吉川経倫(きっかわつねとも)の隠居所として建造され、経倫の死後は八代藩主経忠(つねただ)の夫人喬松院(きょうしょういん 柏原藩主織田信憑の次女悌 てい)が居住した。
明治に入ると一時、岩国県庁が置かれた。その後、吉川家の家職を司る用達所が設けられ、近代吉川家の岩国における拠点となっている。
敷地内の建物群は解かれて現在は吉川史料館の敷地となっているが、長屋2棟と門が現存する。長屋は現在までに幾度かの改変をうけているがその外観は当時の姿をよくとどめている。
構造は、桁行7間、梁行2間、入母屋造、出桁造、両袖瓦葺。東側庇付き、北端2間中二階付、南端東側2間に下屋付きである。
胴の高さ27.8㎝、胴廻り91.5㎝、草摺(くさずり=胴の下にさがっていて、足の太股を守る部分)の長さ24.5㎝の大きさである。小札(こざね 甲冑の部位をつくる短冊状の板)は黒漆塗の革小札と鉄小札を一枚ずつ交互に交えて、赤、白、紫の三色を用いて段々に威している。威す(おどす)とは小札の穴に糸を通すことを言い、色々糸威とは複数の色の糸で威すことを言う。
腹巻とは、軽装の防具である腹当が進化したもので、体の正面の防御だけでなく、背後に引き合わせを設けて背中にも武装を拡張したもので、南北朝時代から室町時代にかけて盛行した。
この時期のものは遺品が比較的少ないが、この腹巻は、保存状態が良好であるため貴重である。
鎬造りで、庵棟(いおりみね 刀の背となる頂点が鋭角になるようにした形状)で仕上げられており、刃部の地肌が、よく鍛えられている太刀である。長さ83.0㎝、反りの中心点が刀身の中ほどにある高い中反り で2.6㎝ある。身幅が広く、鎬の幅が狭いもので切先は猪首(いくび)となり、ふくらと呼ばれる刃先部は丸味をもっている。
この太刀は白崎八幡宮創建の前年にあたる貞和3年(1347)の10月に刀工の守吉によって製作され、同銘の無焼刃のものが一口あり、付(つけたり)となっている。
刀工の守吉は備前畠田(現在の岡山県備前市畠田)の刀工で、北朝の貞和・貞治年間(1345-68)頃に活躍した。奉納者である願主源兼胤は、弘中兼胤のことであり、白崎八幡宮を創建した人物である。弘中氏は中世において岩国庄、岩国本庄を支配していた領主であった。
長さ70.6㎝の太刀。刀身は、鎬造、庵棟、鍛板目、刃文は湾れごころの乱れとなっている。作者である刀工安吉は南北朝時代、正平年間(1346~70)の人物で筑前国(福岡県)の刀工である筑前左(筑前左衛門安吉)の子とされる。
安吉作の太刀は例が少ないので、この作品はその点から珍しいと言われている。
南北朝時代に越中国松倉郷(現在の富山県魚津市)の刀工郷義弘(ごうのよしひろ)が製作した刀である。義弘は相模国(現在の神奈川県)の刀工政宗の弟子と伝えられている。義弘の作品は銘が刻まれたものがなく、刀剣の鑑定や研磨を業とする本阿弥家によって鑑定を受けた11振が現存するのみである。その中でも、とくに優品であるのが加賀前田家伝来の「富田郷」(国宝 前田育徳会蔵)と「稲葉江」である。
「稲葉江」の名は所持者であった稲葉勘右衛門尉(重通 しげみち)の名にちなんでおり、稲葉江の江は、「郷」の字をくずした草書体に由来する。刀の茎(なかご)には、本阿弥家九代の本阿弥光徳が天正13年(1585)12月に、太刀を磨り上げ(すりあげ)たこと、稲葉勘右衛門尉の所持品である旨を金象嵌で記している。その後、「稲葉江」は徳川家康によって買い上げられ、家康の次男である結城秀康、越前松平家(福井藩)、作州松平家(津山藩)へと伝来した。
刀の特徴としては、本来は太刀として作られたものであるが、大磨上(おおすりあげ)によって刀として仕上げられているが、身幅が広く、重ねが厚く、切先が延びるという、豪壮さを残している。
身の長さ78.5cm、反り3.4cmの太刀である。刀身の地肌は小板目肌で、刃文は小乱に足・葉入りの一見、古備前風の太刀であるが、鎌倉初期の備中青江の作である。とくに、この太刀が国宝に指定された理由は、刀身が少しも磨滅せず、打ちおろしのように平肉豊かで、しかも、当初の革着せ黒漆太刀拵が付属していることである。
この太刀は、吉川家第一の宝物で、吉川小次郎友兼が、梶原景時の一族を駿河の狐ヶ崎に討滅して功をたてた太刀として、以後は用いず家宝として保存されてきたもので、その健全さが比類ない訳である。なお、狐ヶ崎の事件は、吾妻鏡(東鑑)の正治2年(1200)1月20日の条に記録されており、この太刀が狐ヶ崎という名物となった理由である。