鐘は通高93.2㎝、口径54.5㎝センチメートルの中型で一区内4段4列の乳を持ち、鐘座は2ヶ所で共に単弁の蓮華座で尖頭の細長い花弁は特色がある。銘は一区から三区の前半にわたって文明17年(1485)に刻まれた原銘が13行107字、三区の後半と四区に天文2年(1533)に刻まれた追銘が17行193字陰刻されている。
銘によると文明17年(1485)に、大工信吉が伊予国越智郡桜井郷(現今治市)の伊予国分寺のために鋳造したもので、その後、天文2年(1533)に深龍寺の開基、藤原朝臣胤兼(ふじわらのあそんたねかね)が深龍寺のためにその鐘を寄進したものである。また銘文にある藤原朝臣胤兼は、深川胤兼(ふかがわたねかね)とみられ、当時深川の地を治めていた国人と推測される。
鐘は通高93.2㎝、口径54.5㎝センチメートルの中型で一区内4段4列の乳を持ち、鐘座は2ヶ所で共に単弁の蓮華座で尖頭の細長い花弁は特色がある。銘は一区から三区の前半にわたって文明17年(1485)に刻まれた原銘が13行107字、三区の後半と四区に天文2年(1533)に刻まれた追銘が17行193字陰刻されている。
銘によると文明17年(1485)に、大工信吉が伊予国越智郡桜井郷(現今治市)の伊予国分寺のために鋳造したもので、その後、天文2年(1533)に深龍寺の開基、藤原朝臣胤兼(ふじわらのあそんたねかね)が深龍寺のためにその鐘を寄進したものである。また銘文にある藤原朝臣胤兼は、深川胤兼(ふかがわたねかね)とみられ、当時深川の地を治めていた国人と推測される。