藤生の卜院(ぼくいん)の地にある松巌院は、臨済宗天龍寺末であるが現在は単立で鍾秀山と号する。安政6年(1859)の今北洪川筆「松濤軒記」(しょうとうけんき)に本庭が月溪(天溪)和尚による作庭であると記されている。
月溪和尚は中谷月溪と称し、文久2年(1862)に85歳でこの世を去っている。
山門付近から本堂前にかけ、スギ苔が一面に敷きつめられ、その中にソテツの寄植えがある他は石組らしいものはない。前方は瀬戸内海が眼下に見下ろせ、その為に土塀を低くして眺望をよくしている。
本堂の南側に隠寮、松濤軒が建つ。一種の隠居部屋であるが、茶室でもある。この南面に広がるのが中心の景観である。裏山の斜面を利用し、築山を取り巻くように細長い池泉を穿った池泉観賞式庭園である。
庭園構成の中心は滝石組であるが、松濤軒から滝を望むことはできず、また本堂書院からも視界に入らない。庭に降りて池畔に立たなければ主景が望めないというのは、特殊な地割であり、回遊式の要素ももっている。その滝石組は、3石で水落石を形成して120㎝の高さを持つ。添石は、斜面に露出する岩盤をうまく利用し生かして組んでいる。右側には90㎝高の立石があって、石組の中心となっている。滝には豊かな水が落ち、流水式に蛇行しながら池泉へと注がれる。池泉には4か所に石橋が架かり、園内を回遊散策できる。
作庭時期、作者ともに明確な庭園として貴重である。
藤生の卜院(ぼくいん)の地にある松巌院は、臨済宗天龍寺末であるが現在は単立で鍾秀山と号する。安政6年(1859)の今北洪川筆「松濤軒記」(しょうとうけんき)に本庭が月溪(天溪)和尚による作庭であると記されている。
月溪和尚は中谷月溪と称し、文久2年(1862)に85歳でこの世を去っている。
山門付近から本堂前にかけ、スギ苔が一面に敷きつめられ、その中にソテツの寄植えがある他は石組らしいものはない。前方は瀬戸内海が眼下に見下ろせ、その為に土塀を低くして眺望をよくしている。
本堂の南側に隠寮、松濤軒が建つ。一種の隠居部屋であるが、茶室でもある。この南面に広がるのが中心の景観である。裏山の斜面を利用し、築山を取り巻くように細長い池泉を穿った池泉観賞式庭園である。
庭園構成の中心は滝石組であるが、松濤軒から滝を望むことはできず、また本堂書院からも視界に入らない。庭に降りて池畔に立たなければ主景が望めないというのは、特殊な地割であり、回遊式の要素ももっている。その滝石組は、3石で水落石を形成して120㎝の高さを持つ。添石は、斜面に露出する岩盤をうまく利用し生かして組んでいる。右側には90㎝高の立石があって、石組の中心となっている。滝には豊かな水が落ち、流水式に蛇行しながら池泉へと注がれる。池泉には4か所に石橋が架かり、園内を回遊散策できる。
作庭時期、作者ともに明確な庭園として貴重である。