広瀬八幡宮は、旧広瀬村・野谷村・中ノ瀬村の総鎮守で、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を祭神とする。大同2年(807)に豊前国の宇佐八幡宮から勧請を受け、創建されたと伝えられているが由緒沿革などに関する記録や社宝等は火災のため焼失し詳細な事項が判明しない。
神殿は、三社造りで屋根は鉄板葺である。棟札から天保6年(1835)の建立である。手挟・蟇股・支輪(たばさみ・かえるまた・しりん)に装飾彫刻を多用し、妻飾の二重虹梁(こうりょう)は出組斗栱(でぐみときょう)により身舎(もや)側柱筋から二段に持ち出される。
拝殿は、入母屋造で屋根は桟瓦葺である。中央に馬道をとる割拝殿形式で、広瀬八幡宮ではこれを横町と呼んでいる。棟札から弘化4年(1847)の建立である。かつての礼祭の際は、名主が裃に着替え、神事に臨む前の控えの場所として横町は使われた。錦川を挟んで西側の名主と東側の名主各十二人、計二十四人の座が建物内で定められている。
広瀬八幡宮は、旧広瀬村・野谷村・中ノ瀬村の総鎮守で、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后を祭神とする。大同2年(807)に豊前国の宇佐八幡宮から勧請を受け、創建されたと伝えられているが由緒沿革などに関する記録や社宝等は火災のため焼失し詳細な事項が判明しない。
神殿は、三社造りで屋根は鉄板葺である。棟札から天保6年(1835)の建立である。手挟・蟇股・支輪(たばさみ・かえるまた・しりん)に装飾彫刻を多用し、妻飾の二重虹梁(こうりょう)は出組斗栱(でぐみときょう)により身舎(もや)側柱筋から二段に持ち出される。
拝殿は、入母屋造で屋根は桟瓦葺である。中央に馬道をとる割拝殿形式で、広瀬八幡宮ではこれを横町と呼んでいる。棟札から弘化4年(1847)の建立である。かつての礼祭の際は、名主が裃に着替え、神事に臨む前の控えの場所として横町は使われた。錦川を挟んで西側の名主と東側の名主各十二人、計二十四人の座が建物内で定められている。