身の長さ78.5cm、反り3.4cmの太刀である。刀身の地肌は小板目肌で、刃文は小乱に足・葉入りの一見、古備前風の太刀であるが、鎌倉初期の備中青江の作である。とくに、この太刀が国宝に指定された理由は、刀身が少しも磨滅せず、打ちおろしのように平肉豊かで、しかも、当初の革着せ黒漆太刀拵が付属していることである。
この太刀は、吉川家第一の宝物で、吉川小次郎友兼が、梶原景時の一族を駿河の狐ヶ崎に討滅して功をたてた太刀として、以後は用いず家宝として保存されてきたもので、その健全さが比類ない訳である。なお、狐ヶ崎の事件は、吾妻鏡(東鑑)の正治2年(1200)1月20日の条に記録されており、この太刀が狐ヶ崎という名物となった理由である。
身の長さ78.5cm、反り3.4cmの太刀である。刀身の地肌は小板目肌で、刃文は小乱に足・葉入りの一見、古備前風の太刀であるが、鎌倉初期の備中青江の作である。とくに、この太刀が国宝に指定された理由は、刀身が少しも磨滅せず、打ちおろしのように平肉豊かで、しかも、当初の革着せ黒漆太刀拵が付属していることである。
この太刀は、吉川家第一の宝物で、吉川小次郎友兼が、梶原景時の一族を駿河の狐ヶ崎に討滅して功をたてた太刀として、以後は用いず家宝として保存されてきたもので、その健全さが比類ない訳である。なお、狐ヶ崎の事件は、吾妻鏡(東鑑)の正治2年(1200)1月20日の条に記録されており、この太刀が狐ヶ崎という名物となった理由である。