南北朝時代に越中国松倉郷(現在の富山県魚津市)の刀工郷義弘(ごうのよしひろ)が製作した刀である。義弘は相模国(現在の神奈川県)の刀工政宗の弟子と伝えられている。義弘の作品は銘が刻まれたものがなく、刀剣の鑑定や研磨を業とする本阿弥家によって鑑定を受けた11振が現存するのみである。その中でも、とくに優品であるのが加賀前田家伝来の「富田郷」(国宝 前田育徳会蔵)と「稲葉江」である。
「稲葉江」の名は所持者であった稲葉勘右衛門尉(重通 しげみち)の名にちなんでおり、稲葉江の江は、「郷」の字をくずした草書体に由来する。刀の茎(なかご)には、本阿弥家九代の本阿弥光徳が天正13年(1585)12月に、太刀を磨り上げ(すりあげ)たこと、稲葉勘右衛門尉の所持品である旨を金象嵌で記している。その後、「稲葉江」は徳川家康によって買い上げられ、家康の次男である結城秀康、越前松平家(福井藩)、作州松平家(津山藩)へと伝来した。
刀の特徴としては、本来は太刀として作られたものであるが、大磨上(おおすりあげ)によって刀として仕上げられているが、身幅が広く、重ねが厚く、切先が延びるという、豪壮さを残している。
南北朝時代に越中国松倉郷(現在の富山県魚津市)の刀工郷義弘(ごうのよしひろ)が製作した刀である。義弘は相模国(現在の神奈川県)の刀工政宗の弟子と伝えられている。義弘の作品は銘が刻まれたものがなく、刀剣の鑑定や研磨を業とする本阿弥家によって鑑定を受けた11振が現存するのみである。その中でも、とくに優品であるのが加賀前田家伝来の「富田郷」(国宝 前田育徳会蔵)と「稲葉江」である。
「稲葉江」の名は所持者であった稲葉勘右衛門尉(重通 しげみち)の名にちなんでおり、稲葉江の江は、「郷」の字をくずした草書体に由来する。刀の茎(なかご)には、本阿弥家九代の本阿弥光徳が天正13年(1585)12月に、太刀を磨り上げ(すりあげ)たこと、稲葉勘右衛門尉の所持品である旨を金象嵌で記している。その後、「稲葉江」は徳川家康によって買い上げられ、家康の次男である結城秀康、越前松平家(福井藩)、作州松平家(津山藩)へと伝来した。
刀の特徴としては、本来は太刀として作られたものであるが、大磨上(おおすりあげ)によって刀として仕上げられているが、身幅が広く、重ねが厚く、切先が延びるという、豪壮さを残している。