出師の檄は慶応2年(1866)の幕府軍による長州征伐に備え、当時長州軍が他の藩に進出した際、これを各所に掲げその領地の住民に「この度の長州藩出兵の意図を釈明して協力を求めるため」の高札で、縦88㎝、横120㎝の一枚板でつくられている。
当時、山代口の本陣であった大原の讃井家で発見されたもので、藩の出兵の意義と民衆への治安宣撫を忘れない周到な配慮をうかがうことのできる貴重な資料である。
長州征伐の記録は「防長運話(ぼうちょううんわ)」と呼ばれるもので、讃井家十六代当主、知喬(ともたか)の命により、隅昌武(すみまさたけ)の書いたものである。当時長州藩は挙藩一致総ぐるみで郷土死守の決意を固めたもので、当時の国内外の動きや、これに対処する防長士民の熱意をうかがうことのできる貴重な資料である。特に山代大原口の陣容、猟銃隊結成状況、応援隊の状況、芸州口の戦闘状況、偕行団との紛争事件などを記録している。
出師の檄は慶応2年(1866)の幕府軍による長州征伐に備え、当時長州軍が他の藩に進出した際、これを各所に掲げその領地の住民に「この度の長州藩出兵の意図を釈明して協力を求めるため」の高札で、縦88㎝、横120㎝の一枚板でつくられている。
当時、山代口の本陣であった大原の讃井家で発見されたもので、藩の出兵の意義と民衆への治安宣撫を忘れない周到な配慮をうかがうことのできる貴重な資料である。
長州征伐の記録は「防長運話(ぼうちょううんわ)」と呼ばれるもので、讃井家十六代当主、知喬(ともたか)の命により、隅昌武(すみまさたけ)の書いたものである。当時長州藩は挙藩一致総ぐるみで郷土死守の決意を固めたもので、当時の国内外の動きや、これに対処する防長士民の熱意をうかがうことのできる貴重な資料である。特に山代大原口の陣容、猟銃隊結成状況、応援隊の状況、芸州口の戦闘状況、偕行団との紛争事件などを記録している。