吾妻鏡は、治承4年(1180)から文治3年(1266)に至る87年間の鎌倉幕府の記録で、曲筆の個所もないではないが、当時の事情がある程度詳細に記述されており、鎌倉時代研究の根本史料である。
袋綴の冊子本で、本文を47冊に収め、これに年譜1冊を加えて48冊としている。本文の末尾に大永2年(1522)9月5日安房前司弘詮の奥書があって、右田弘詮が文亀年間(1501~1504)に入手せる42帖の写本を底本とし、諸本を求めてその欠失を補い、新たに年譜1帖を加えて48帖とした旨を記している。伝来の諸写本には、脱落や誤写が多かったが、本書は書写年代が確実であるだけでなく、その内容に誤写欠文の少ない点において最も尊重されるべく、北条本とならんで古写本中の最も優れたもので、世に吉川本吾妻鏡としても、よく知られている。
右田弘詮は陶氏の出で、大内政弘の信任を得て、文明11年(1479)に筑前守護代となり、永正年間(1504~1521)に安房守となった人である。
吾妻鏡は、治承4年(1180)から文治3年(1266)に至る87年間の鎌倉幕府の記録で、曲筆の個所もないではないが、当時の事情がある程度詳細に記述されており、鎌倉時代研究の根本史料である。
袋綴の冊子本で、本文を47冊に収め、これに年譜1冊を加えて48冊としている。本文の末尾に大永2年(1522)9月5日安房前司弘詮の奥書があって、右田弘詮が文亀年間(1501~1504)に入手せる42帖の写本を底本とし、諸本を求めてその欠失を補い、新たに年譜1帖を加えて48帖とした旨を記している。伝来の諸写本には、脱落や誤写が多かったが、本書は書写年代が確実であるだけでなく、その内容に誤写欠文の少ない点において最も尊重されるべく、北条本とならんで古写本中の最も優れたもので、世に吉川本吾妻鏡としても、よく知られている。
右田弘詮は陶氏の出で、大内政弘の信任を得て、文明11年(1479)に筑前守護代となり、永正年間(1504~1521)に安房守となった人である。