享保17年(1732)、蝗害による飢饉で、秋ごろから翌年夏ごろにかけ、下畑村(現下畑小学校区)では304人の餓死者がでた。 享保17年当時の人口は不明であるが、下畑村では2割から3割程度が餓死したと思われる。このとき、山代33村で34,716人、全国では約260万人が餓死したという。
生きのこった村人たちは、この供養塔を建て餓死者の追弔を行った。ここにある五輪石などは、きちんとした弔いもできず家の近くに葬り、形ばかりの墓石として置いていたのを持ち寄ったものと伝えられている。
享保17年(1732)、蝗害による飢饉で、秋ごろから翌年夏ごろにかけ、下畑村(現下畑小学校区)では304人の餓死者がでた。
享保17年当時の人口は不明であるが、下畑村では2割から3割程度が餓死したと思われる。このとき、山代33村で34,716人、全国では約260万人が餓死したという。
生きのこった村人たちは、この供養塔を建て餓死者の追弔を行った。ここにある五輪石などは、きちんとした弔いもできず家の近くに葬り、形ばかりの墓石として置いていたのを持ち寄ったものと伝えられている。