この一里塚は、藩政初期、萩城下唐樋札場(からひさつば)を基点として防長両国内の主要街道に一里おきに築造されたうちの一つで、安芸境秋掛村亀尾川(美和町秋掛)に通じる山代街道沿いに設置された25基の一里塚の内の一つに当たる。
萩から数えて24番目、安芸国境からは2番目のもので、塚木には「萩松本より弐拾三里 安芸境亀尾川より壱里十六丁」と記されていた。自然石を積み上げた角の丸い四角形をなしており、上部はほぼ平らである。正面右側の石組みが一部崩れているが、全体としてよく原形をとどめている。
設置時期については、『防長風土注進案』(ぼうちょうふうどちゅうしんあん)には、江戸時代の正保2年(1645)、幕府の命により萩藩が、正保国絵図を作成した際、萩藩士の三輪伊兵衛が秋掛村亀尾川を訪れ、安芸国夷ヶ垰(えびすがとうげ)からの間数を調べて一里塚を築いたとする記述があり、17世紀中頃には築かれたものと考えられる。
この一里塚は、藩政初期、萩城下唐樋札場(からひさつば)を基点として防長両国内の主要街道に一里おきに築造されたうちの一つで、安芸境秋掛村亀尾川(美和町秋掛)に通じる山代街道沿いに設置された25基の一里塚の内の一つに当たる。
萩から数えて24番目、安芸国境からは2番目のもので、塚木には「萩松本より弐拾三里 安芸境亀尾川より壱里十六丁」と記されていた。自然石を積み上げた角の丸い四角形をなしており、上部はほぼ平らである。正面右側の石組みが一部崩れているが、全体としてよく原形をとどめている。
設置時期については、『防長風土注進案』(ぼうちょうふうどちゅうしんあん)には、江戸時代の正保2年(1645)、幕府の命により萩藩が、正保国絵図を作成した際、萩藩士の三輪伊兵衛が秋掛村亀尾川を訪れ、安芸国夷ヶ垰(えびすがとうげ)からの間数を調べて一里塚を築いたとする記述があり、17世紀中頃には築かれたものと考えられる。