天野隆重は天野家第11代当主である。
隆重のときに初めて毛利元就に仕え、尼子氏との戦いで軍功があり、晩年は出雲国八雲村(現在の島根県松江市八雲町)の熊野城に住み、天正12年(1584)3月7日同地で没した。
墓は通化寺の境内地にあり、隆重夫人の墓も並んで建っている。
凝灰岩(俗に平野石)製の宝筐印塔で、基台・基礎・塔身・笠・相輪(露盤・請花・宝珠)と積み上げているが、ずんぐりとした相輪、隅飾りが外に張り出し軒の厚い笠、基礎の銘文の刻みよう、線彫りの丈長の反花を配する基台など、近世初期の特色をよく示している。
また、基礎の正面に次の陰刻がある。隆重墓(総高156cm)は中央に「一峯円月居士」、その向かって右に「天正十二甲甲」、左に「四月初七日」と刻まれている。この墓は元嘉が久田(くでん)に定住後、出雲国から遺骨を移して建てたものである。隆重夫人の墓は中央に「為明山久花大姉」、右に「于時慶長十四己酉年」、左に「八月廿九日」と刻まれている。
寛永16年(1639)に創設され、享保5年(1720)より七年期となる。
七年期神楽舞の由来は享保年間(1716~1736)に、数年続いた大飢饉で凶作、虫害に苦しみに対し、生業発展・五穀成就・百難消滅を三地区(上・中・東長野、下長野、鳴川・中島)で蛆ヶ森(うじがもり)河内神社及び秋葉山に祈願するために七年毎に神楽舞を奉納することになった。
以来、七年を期として三区の輪番により、長野神楽舞世話人と舞子・楽師および地区住民によって続けられてきた。
祥雲寺には、江戸時代後期に請雨作法に用いられた請雨経版木及び祈雨法檀儀規、四大龍王像画并仏名幅画5幅、諸龍王像画4幅、丈観和尚像画1幅が所蔵されている。
これら祥雲寺に伝わる請雨作法に用いられた請雨経版木、龍王像、仏名幅、丈観和尚像など雨祭に関する資料と貴重である。
極楽寺に伝存する中世文書6通を巻物に仕立てたもので、その内容は次のとおりである。
一、天文八年五月二十三日 後奈良天皇綸旨 一通
二、(年未詳)六月三日 後奈良天皇口宣 一通(権中納言広橋兼秀執達状)
三、(年未詳)二月朔日 豊臣秀吉書状 一通
四、弘治二年六月四日 毛利元就・隆元連署、新寺別当職補任状 一通
五、永禄十一年九月十八日 毛利輝元、新寺別当職補任状 一通
六、天正十六年二月二十八日 毛利輝元、新寺別当職補任状 一通
第一通は新寺が代々の勅願寺であることを確認し、先年火災により勅裁・院宣等をすべて紛失した由であるが、先規のように領知を全くし、皇家のために祈祷するようにとの後奈良天皇の綸旨を新寺別当宥頼に伝えたもの。
第二通は第一通の趣旨を、新寺別当宥頼に下知するようにとの、後奈良天皇の口宣を大内義隆に仰せ下されたもの。
第三通は尾崎坊が豊臣秀吉に、新春の御慶として祈祷に合わせ抹茶を送ったことに対する秀吉の礼状。
第四・五・六通は毛利元就・隆元および輝元の新寺別当に対する別当職補任状である。
極楽寺は古くからから勅願寺としての由緒を誇り、他に異なる寺格を有していたが、これらの文書はそのことを裏付ける重要な史料である。
極楽寺が度重なる寺家転退の中にあって、このような中世文書を伝存したことは貴重である。
総縦126.5cm、総横58.4cm、縦27.9cm、横50.2cmの掛幅である。
礼紙に次のような文言が散し書きしてある。
『国の事禅閣かやうに 申候此分はまことに 子細候へき事にても さぶらず 更に いそき仰下 され候へく候 返々 このよしを 申しこせ給へ あなかしく』。
この古文書の伝来については不明である。ただ、二井寺山極楽寺が由緒深く古くから朝廷との特別の関係があったことを物語る資料として重要である。
社伝によれば、軍配團扇は明治4年(1871)の廃藩置県に際し、旧藩主吉川経健が甲と共に三島神社に寄進したと伝えられている。
江戸時代に製作されたもので、軍配團扇は合戦の際に、軍兵を指揮統率するために用いられたもので、大将の携行する兵具である。
この軍配團扇は羽及び留め金、被せ金などに吉川家の家紋である九曜紋をあらわしており、吉川家当主が使用したものと思われ、羽の中央を通る柄の上には摩利支尊天の文字を記している。摩利支尊天は障難を除き、利益を与えるものとして、武士の間に守護神として広く信仰されていた。羽の面に月の文字と月の満欠けを組み合わせて表示し、星を操って戦運を占い、それに基づく独自の日取図と占いの結果を書きあらわした典型的な軍配團扇である。
保存状態は良好で、江戸時代の模式的な軍配團扇の遺品として貴重である。
この五輪塔には風、水、地輪の表面に、わずかに墨書や梵字が確認出来、供養塔として造設されたものと思われる。
地輪の底地付部の銘文によれば、この五輪塔は永正2年(1505)に十王堂に十王とともに安置するため造立するもので、その趣旨は願主の現世安穏、後生善處の願望成就を祈るところというのである。五輪塔とともに遺存する十王の2躰に「永正二年」の紀年銘があり、十王と五輪塔が同時期に造立されたことがわかる。
また、火輪の1側面に彫られた三角形の穴は何等かの納入物(或いは仏舎利か)を納めたものと思われ、室町時代末期のこの地方の十王信仰のありようを示す資料として重要である。
この鰐口は原銘により應仁元年(1467)四月廿四日に豊後州富来柳迫に所在した地蔵菩薩に奉懸されたことがわかる。
「富来」は豊後国国東半島の北東部周防灘に望む地域で豪族富来氏の本拠であった。鰐口が豊後から周防国差川の地に移されたかの由来は明らかでない。
追銘に見える「慈眼寺」は寛保元年(1714)に差川村の小都合庄屋田中十右エ門が萩藩に報告した『地下上申』によれば「杉が原と申ハ差川村之内ニ有之小名ニて御座侯、比所ニ先年杉原山慈眼寺と申禅宗有之、只今ハ観音堂ニていづれ之時か絶破仕候、観音堂山号を小名ニ申伝、杉原と申伝ニ御座侯事」と見えている。すなわち寺は寛保元年当時には廃寺になっており、その時期もはっきりしない位以前のことであったのである。この鰐口ははじめ慈限寺に懸げられ、廃絶後はその旧跡である観音堂に伝えられたのであって、このことは天保年間(1830~1843)に編集された『防長風土注進案』に記載されている。
小型の素朴な鰐口で工芸品として特に作域の優れたものとはいい難いが、製作の時代も古く、その伝来の経緯、特に古跡慈眼寺の唯一の遺品であることから貴重である。
住所銘「杉森」は高森の古名で、刀工「二王清綱」(におうきよつな)発祥の地が周東町であることを資料的に裏付ける貴重な一刀である。
平造で刄長八寸四分五厘、反りなし、中心孔二つ。元身幅七分三厘、先身幅五分弱、重ね四分二厘。元重ねが四分を越え、重ねの重いがっしりした鎧通しの姿である。
清綱の住所銘が刻まれたものに、「玖珂庄」、「玖珂住」のものがあるが、この短刀にみられる「杉森住」は唯一のものと言える。
周東町域の大半は、かつて中世玖珂庄の庄域であり、玖珂、杉森の地名から推測して二王清綱は恐らく周東町の字千束小字道徳に伝承された清綱屋敷あたりで鍛刀したものと思われる。
極楽寺は『新寺縁起』(にいでらえんぎ)によると秦皆足(はたのみなたり)によって天平16年(744)に創建されたと伝えられている寺であり、平安時代末期に成立した仏教説話集の『今昔物語』(こんじゃくものがたりしゅう)、鎌倉時代に編纂された仏教の通史である『元亨釈書』(げんこうしゃくしょ)にも観音霊場としての記述がある寺院である。
薬師堂はその境内にあり、桁行3間(5.75m)、梁間3間(5.74m)、重層屋根、方形造り、本瓦葺、全体は素木造りの建物である。万治3年(1660)に梅枝薬師堂(ばいしやくしどう)として岩国横山の白山比咩神社(しらやまひめ)境内にあったものを、元文4年(1739)同じ横山地内の寺谷に移し、さらに明治6年(1873)に極楽寺に移築したものである。
鎬造りの庵棟(いおりむね)で、刄渡り一尺六寸七分、反り四分五厘、目釘乳二つ、銘は心中に二王清□作と刻む(清の下の一字は判読不明)。
鍛えはよくつんだ板目、刄文は匂本位の中直刄、刄中の働きに、いま一つというところがあるが、鋩子は焼詰め心に味よくおさまり品がある。生ぶ心中で尋常にてよく、二王伝統の古風を残し、心中尻の味が特によろしい。
以上全体的に見て室町時代末期の二王刀工の代表的作風を具えている。
由来ならびに序が2面、本文36面、後書1面、及び未使用の原板一面、合計四十面が伝存している。材は、いずれもサクラ材と思われる。
大きさは版木によって若干の差異はあるが、おおよそ縦11.6cm、横33.4cm、厚さ1.2cm程度である。板面の文字はかなり角がとれているので、相当数の版行があったものと思われる。しかし、今なお文字は明瞭で、小虫喰いのため若干の欠字箇所があるが、保存は概して良好である。手引の版行は江戸時代の札所巡拝の盛行を物語るものであり、このような案内書は順拝者の要望に応えるものでもあった。同時にこの手引書は周防国における三十三観音の信仰資料としても重要である。いま版木が完全な形で揃って極楽寺に伝存したことは貴重である。
鼓面径18.6cmの小型の鰐口である。表面銘帯の左右に次のような銘文を陰刻している。左側「奉施入鰐口一口」、右側「応永二十五年正月八日施主安信敬白」と読まれる。「奉施入」とだけで、どこに施入されたか不明である。施主安信としては特に施入先を記入するまでもなく、身近なことなのでその必要を認めなかったのかも知れない。伝来によれば、祖生の光明寺に懸けられていたものという。防長の鰐口には撞座文のないものが多い中で、片面だけでもこれを持っていることが注目される。
また、蓮華文も小型であるが、形式化されない時代相応のよさを持っている。表面左右の目から銘帯にかけて小亀裂があるほかは、保存も概して良好である。
制作年代は銘文にある応永25年(1418)で、貴重な資料である。
この具足七領は関ヶ原合戦後、久原村に来住した天野元嘉(あまのもとよし)の子孫の家に伝世したもので、明治維新後、天野氏がこの地を去るに際し、同村の住民、木村納蔵氏に保管を依頼し、のちに河内神社に奉納されたものである。
これらの具足は戦国時代末期から江戸時代初期(16世紀末から17世紀初頭)に造られたものと考えられる。将領二領・軽卒用五領とまとまっており、郷土での伝来が明らかな点を考えると貴重なものである。
鮎原剣神社の参道橋として、現在の県道130号・本郷周東線から対岸の神社境内へ渡るために、川上川に架橋されたのが穹崇橋である。完成は大正6年(1917)で、山口県内に現存する数少ない石アーチ橋の一つである。また、信仰上の理由から曲線を描いたアーチ形(あくまでも形のみ)が採用されることが多い寺社の参道橋の中で、山口県内では唯一、隣り合う迫石(もしくは輪石)同士の圧縮応力によって構造体を支える石アーチ橋である。穹崇橋は、橋長7.195mに対して、アーチ径間(スパン)は7.055m、拱矢は2.903mで、極めて半円に近い欠円アーチとなっており、35個の迫石でアーチが構成されている。なお、地上(人間界)と天上(神界)を結ぶために神社参道の社頭近くに架けられる橋は、参道に位置することから「参道橋」と呼ばれることが多く、またその形態から「太鼓橋」と名付けられたり、宗教的な意味合い(神が通る橋で、通常、人間は通れないこと)から「神橋」と呼称されたりするが、穹崇橋の場合は、空に向かって弓を張っている形から名付けられたと言われる。
付の『神苑ニ関スル経費明細簿』は、支払いの明細を通じて、事前の準備をはじめ、石工や工事関係者、基礎工事の方法、建設資材の種類・数量・価格まで、すべての事項が時系列でわかる極めて貴重な資料である。
『神社昇格願書』の「社殿並工作物之部」には、「神橋 穹崇橋 石造無脚半圓形」「大正六年二月一日 建築 新」の記載があり、穹崇橋の構造、形態とともに竣工日が分かる。また、添付されている「鮎原劔神社全景見取圖」には社殿、参道、神橋(穹崇橋)の他、神苑も描かれており、昭和26(1951)年頃の水害で大部分が流出してしまった神苑の様子も伺い知ることができる。なお、それほどの被害が出た洪水でも穹崇橋は流されなかったということを意味している。